バビロンの奴隷であったヴァルグロン・フラムラスは、ある夢を見た。正しくは三つの夢というほうがよいかもしれない。三晩にわたった夢は、それぞれ異なる物語を持っていた。あるいはひとつの物語の三つの章というべきか、印象はどれも同じであり、目覚めているときの生活を――仲間の奴隷、監督官、中庭や通りや宮殿、くびきに繋がれ目隠しをされたまま延々と回って水を汲み上げさせられる井戸――そういったものをつまらなく、まことではないように思わせた。
 最初の夜、かれはすばらしい栄光の内にいる自分を見いだしたが、自分の内にある栄光はさらにすばらしかった。かれの名は天上天下に響きわたり、ひとびとはそこかしこでかれを讃え、キャメロットからザナドゥにいたるまで、またカーフ山から世界の底にいたるまで、かれの名声に並ぶ詩人はひとりとしていなかった。しかもその栄誉は由なきものではなく、かれの精神は、これすなわち驚異であり非凡な炎だった。白昼の空を見れば美しい神族や竜が往き、夜空は神々の宮居の灯りに燃えあがった。かれの眼には、海は齢多き座天使や力天使たちの住まいであり、大地も地中の不思議な大陸や星々の宿る岬を隠してはおけなかった。男も女も、薄いかりそめの姿の下は、大いなる霊と見えた……。
 我が世の盛を迎えているのが自分でもわかり、才力は年を追うごとに増していた。創りおおせたばかりのひとつの詩は、王が宮廷を治め人が都を築くかぎり、また宮廷や都を美しい歌で満たしつづける歌い手のいるかぎり、来るべき世々の詩人によって朗唱されるにちがいなかった。そしてその詩を、いまかれはバビロンの王の中の王の前でうたおうとするところだった。偉大な君主が座っている――王の顔は仲間の奴隷のひとりの顔で、王者らしいところがあるなどとは、それまでまったく思いもしなかった。歌の褒賞としてその手を授けられるはずの王の娘がいる。廷臣や高官たちの見知った顔が並んでいる――そしてかれこそはみなの注目を一身に集める中心人物だった。歌い始めようと立ち上がると、おおいに霊感が湧き出すのを感じ、人の精神が輝かしい高みに押し上げられるときに聞かれる神霊の翼のはばたきを聞いた――そのとき群衆の中から見知らぬ男がひとり進み出て、かれの前に立ってなにごとかを囁いた。かれはひるんで、歌に集中できなくなった。なぜなら、森に囲まれた遠い山の幻がたちあらわれ、波うつ梢の上に高く聳えて白く照りかがやき、天の深い青に映えているのが見えたからである。山への憧れに満たされ、喝采も富も名誉もどうでもよくなった。たとえ王女に手をさしのべられたとしても、その手を取りはしなかっただろう。そしてかれの偉大な詩は――どうにか終わりまでたどりついたが、途中で王はあくびをし、玉座の傍らに立っている者らと――さすがに小声ではあったが――話をはじめた。朗唱を終えると、型どおりの賛辞を受け、まさに型どおりの褒賞を得た。王女の手がどうのという話はいっさい聞かれなかった。宮廷を出た足で神秘の山の探索に向かい、長く生きて旅をつづけたが、山の噂を聞くこともなく死んだ。朝になって仲間の奴隷たちの顔を眺めてみると、夢で見た貴顕の顔であるのがわかった。
 昼が過ぎ夜が来た。中庭であてがわれた藁に横になり、革の外套にくるまるとすぐに、かれは歴戦のつわものとなり、軍勢を率いて戦場のただなかにいた。配下の大将たちが傍らに控えていた。あまたの国への遠征を共にした古参の兵が戦車を連ね、その数はきりもなかった。相対するは、かれはもちろん、世界の初めよりこのかた誰も勝利を収めたことのない軍勢だった。敵はみな威風堂々として巨躯を誇り、並はずれていた。かれらは不遜な挑戦をたずさえて遠い海からやってきた。敵軍の前に帝国がひとつまたひとつと陥落し、先に強大なるバビロンに屈服した国々の境にまで迫っていた。いまこそかれらをくつがえすべきとき、かれらが征服した地をバビロンの領土に加え、かれらの支配者たちを王の中の王の奴隷とすべきときだった。そしてかれ自身にとっては、その勝利は――
 かれは合図を送った。トランペットが鳴った。一列また一列、一隊また一隊と、すべての戦車と騎兵と歩兵が動きはじめ、突撃し、旋回し、展開し、かれみずからその陣頭に立った。顔に吹きつける風を感じ、翻る旗を見、両軍が激突したときには大きな喜びを覚えた。――喧噪と憤激と殺戮のただなかにしばしの空隙と静寂が生じたのは、あるいは銀の横笛の音がひときわ鋭く耳を搏ったせいか、あるいはとくに何を合図としたのでもなかったかもしれない。見ればどちらの方にも殺し合いに没頭する者はおらず、ただ振りかぶられた武器が宙に静止し、すべての頭と目が一点に向けられるなか、敵の巨人の戦列が分かれ、まったく巨人たちには似ず戦士でも伝令でもない者がひとり悠々とやってきた。相手は何者か、いかなる使命を帯びているのか、大きな謎に圧倒され――先からの両軍と同じく――答えを求める心が逸るあまりに戦を忘れた。訪問者が近づいてきて、戦車の斜め前に立った――いつ二頭立ての右に繋がれた馬の蹄にかけられてもおかしくない、危険きわまりない位置ではあった――そして探るようにかれの目を覗きこみ、なにごとか口にした。何と言ったのか、ヴァルグロン・フラムラスは夢の中でも起きてからも思い出せなかった。たちまちある光景が心の眼を占め、言葉を覆い隠してしまったからである。波打ち広がる木々の梢、淡い色彩となめらかな雪をまとって天にそそり立つ神秘の山。世界も、世界の戦争も、バビロンも、意識から抜け落ちていった。いまや戦いはかれに何のゆかりもないもの、無意味な騒ぎでしかなかった。槍を垂らし、心奪われたまま、御者に戦車を進めるように命じ、山の探索に向かおうとした。そのとき、無音の白い電光のごとく、猛烈な吹雪のごとく、矢衾のあまたの切っ先を持つ死がすみやかに飛び来るのが見えた――そこで夢は終わった。しかし目を覚ましたかれは考えた。後に見た夢の中で、自分は前の夢をまったく憶えていなかった。戦でたたかったのは、歌をうたいそこねたときより千年も前のできごとのように思われる。それは確信に近かった。しかしなお両方の夢で――最初のと同じくふたつめの夢でも――謎の訪問者の顔はどこか懐かしく感じた。はるか昔に知っていた顔だった。そして聞かされた言葉も、思い出せるかぎりでは、かつて何度も耳にした言葉だった。朝になって、やはり奴隷仲間の中に部下の大将たちを見いだした。しかし戦場で話しかけてきた訪問者に似た者はいなかった……。その日、かれは道ですれちがう人々の顔を気をつけて見るようになった。どこかに、あの男がいるかもしれない……。
 三日目の晩に夢を見た。このたびのかれはバビロンの王の中の王であり、行住つねにはかり知れない光輝に包まれていた。日夜かれに仕え、玉座のもとにひれ伏す者たちは、かれら自身が朝貢国の王であり、広大な帝国の支配者たちだった――あるときかれは宮廷を開いて裁きを下し、貢ぎ物を受け、権勢の望月を謳歌していた。謁見の間にひとりの男が入ってきて、とたんにすべての声が沈黙した。男は平伏することもなく、まっすぐ玉座に近づき、ひとこと王にささやくと、背を向けて去っていった。
 そしてかれ、王たるヴァルグロン・フラムラスは神々の秘密の山を思い出し、そこが己の本来いた場所だと悟った。玉座に腰を下ろしたままなにも言わず、宮廷じゅうが静まりかえるなか、昔日の思い出が心の奥の遠い地平線を越えて嘲るかのようにやってくるのにただ身を任せていた。しかしひとつだけたしかなことがあった。かつてかれはかの山に住まう神々のなかの王、あるいはきわめて高位の君侯だった。そのような位が意味するものをもおぼろげながら思い出した。それは力、それもただならぬ、人の器にはあまる力だった。どうしてあの不死の世界を去り、代わりにこのとるにたらない王の位を得て、人間の世のひとりとなることなどできたのだろう。かつての日々に、バビロンの噂を聞いたのだろうか。夜ごと天の星を欺く煌めきが撒き散らされる大平原を、蒼穹の頂に届くばかりの高みに築かれた庭園を、柱廊につらなる柱廊、彫刻に飾られ多くの木立と噴水を擁する露台にかさなる露台、世界を従える王たちの権勢と魔術師たちの呪文を、香辛料と白檀、甘松と肉桂、真珠に猿に孔雀に象牙、オフィルとインドの交易品を満載した船を――これらすべてを音に聞き、手に入れたいと望んだのでもあろうか――?
 中庭の奴隷たちのあいだで目を覚ましたヴァルグロン・フラムラスは、郷愁に駆られ、故郷へ戻ることを決意していた。では、大バビロンはかれの生まれ故郷ではなかったのだろうか? ずっとなじみの通りも、埠頭も、店も、宮殿や倉も?――もうなんの愛着も感じられなかった。まったく嫌らしく我慢がならない。今生での三十年間と、あと幾たびの前世があったのかは知らないが、長いあいだ都で過ごしてきたというのに、絶えることのない喧噪とざわめき、物のぶつかる鈍い音、高く鳴り響く音が耳についてしかたがなかった。宣伝屋や呼売りのがなり声も、都の生活の営みのなにもかも――高みを見れば、明るい星々が寺院の屋根にこぼれるように輝いて、リゲルやベテルギウスの炎で蝋燭を灯すことさえできそうに思われるし、高い宮殿の窓はカルデアの日没と夜明けの栄光を捉え、細い月とアスタルテの星が空中庭園の最上階をそぞろ歩む――そこでなら、バビロンよ、まさにおまえは女王である。しかしおまえの美は、奴隷の目からは隠されている。虐げられた者と屍肉をあさるように悪徳を求める者が集う中庭や暑い道端の溝では、おまえのうわべはほかの都と比べて美しいとは言えない。切に焦がれながら舗道を歩むヴァルグロン・フラムラスは、ゆきあう顔という顔をたしかめては、孤独を和らげてくれるはずのただひとつの顔を探し、ついに発見したときに起こるであろうことに心を奪われ、おまえの美にも悪徳にも頓着しない。心の裡には夜も昼もつねに木々の梢の広大な海がさざ波立ち、囁きかけるなか、島のように神秘の山がそそり立ち、空にかざした白い羽根飾りさながら、中天に柔らかに煙り、あるいは冷たくきらめく。ときには、もうすこしでかつて山で自分の仲間だった者たち、山でのかれらの務めについて思い出せそうだった。

 世界はすべてバビロンのもの、奴隷が逃げ出すおそれはない。失敗したときの罰はあまりに大きく、成功の望みはあまりに小さい。ヴァルグロン・フラムラスの所有者は荘園のひとつにいる奴隷監督官に伝言を届けたいと思い、ヴァルグロン・フラムラスが使いに選ばれた。それでかれは出発した。逃げ出すつもりはもちろん、はっきりした願望さえなかった――しかし心の内に目を向ければ、つねに誇らかな山の姿が映っていた。
 務めを果たしてしまっても、つきまとう思いからは解放されなかった。脱走? いいや。磔刑など趣味でもなかった。申し分なく従順に都への帰途に就いた。日が暮れるころ、ある男と道連れになった。その顔はたしかに見憶えがあった……しばらく男と並んで歩きつづけ、うわの空でうけ答えをしていた。そのうち男はつぎのように言うと、かれを残して去っていった。「おまえは正しい道にいる、進め!」月の出のころまで歩きつづけ、そのあいだも不思議な興奮が高まっていった。そしてついに興奮の理由がわかった。道連れになった男は、かつて夢で見て、それいらい探していた相手だった……。
 我に返って外界の物事に注意を向けてみると、辿ってきた道は――連れが導きそのまま進むようにと言った道は――朝方に踏み出した道ではなく、それまで通った覚えもなかったが、かれの心には確信があり、その道をゆくのはこのうえもなく良いことだとわかっていた。じつのところ、かれがいるのは、いにしえの世に巨人たちあるいは小人たちがアーサー王のために敷いた古街道だった。キャメロットとバビロンを結ぶ古街道、人間が訪れることのない森の道。自分が逃亡奴隷だという考えはいちども起こらず、己の身は安全だとも安全でないとも思わなかった。わかっていたのはただ空気が刻一刻とかぐわしくなり、いっそう神聖で懐かしいものになっていくこと、ゆくてのどこかにかの山が聳え、空に立つ白い指のようにかれをさし招いていることだけだった。
 時を経て、広大なエルフィンメアを越え、ナンロッサ峡谷を登って、木々に覆われたナンロッサ丘陵、悦楽の森がはじまるところに至った。かれという存在の奥深くから大きな喜びが湧きあふれた。かれは故郷に、少なくともその近くにいた。望郷の念は消えていた。
 峠を越すとすぐにナンロッサの谷地に下る。つぎはどちらへ向かうのか。左の登り道をゆき、炎の心フェニットが松の森を見回りつづける暗い丘に向かうか、それとも、巨人の敷石が一、二フィートほども草の下に埋もれた緑の道に従い、ゆるやかに右へ登ってオーク樹の神ダロン・ヘーンのしろしめすオークの森を抜けてゆくか――そのまま古街道をゆくつもりだ――そうして長老ダロンの百の枝を持つ侍者たちに囲まれると、かれはたしかに自分は正しい道にいると感じた。なにもかもが三番目に見た一番すばらしい夢の記憶と同じだった。かれはふるさとの空気を呼吸していた。かれの裡で魂が芽ぐみ、歌と、驚くばかりの智慧と、以前であればけして信じられなかったであろう栄耀へと成長を遂げた。木々はかれの知るものであり、またかれのものであった。懐かしい葉叢の擦れる音が精神からバビロンを洗い流した。前廊と庭園に臨む露台、埠頭と中庭、賤陋と壮麗。愚かな! あんなものは現実ではない。ただの残映、麻薬の見せる醜怪な悪夢の名残が記憶の周縁をうろついているにすぎない……。いっぽう木々こそは旧知の親しい友であり、かつて古い精妙な智慧を分かちあった仲間だった。かれの内奥のそのまた内奥で、ひとつまたひとつと自我が目覚め、木々の巧まぬ鷹揚な招きに応えた……。
 谷地に入ってすぐの北側の斜面一帯を覆っている森、オークの一本一本がそれぞれ広い領土あるいは地所を持ち、望むかぎりの地面を覆うことを許された森は、すみずみまで人間と同様の意識が漲っている、あるいは意識を孕んでいるように思え、静謐で、黄金色に輝き、彼岸に憧れ、期待に満ち、秘密を収めていた。秘密はただ収められているだけだった。しばらくここに留まりさえすればよい。精神を静め、記憶を清め落ち着かせれば、ふさわしい言葉、ふさわしい言語がやってくるはずだ。その言葉を使って、ゆたかな葉を持つ巨人たちに返答を求めよう、覆いかぶさる緑の下を通ってゆくあいだずっと、さも親しげにそよいでいるかれらに。そうして神秘の山への道を訊ねたなら、かならずや答えてくれるだろう。
 足を止めて物思いにふけり、安らかさを味わいながら、西の方に射す日の光がざわめく梢を金緑に照らすさま、森のなかをはしる草木に覆われた深い裂け目、その底にエメラルド色と露の銀色を見せる道が羊歯にふちどられて下ってゆく先、陽光まばゆい神秘が木々の幹と下枝の隙間に覗くのを眺めていると――たしかにかつての記憶にちがいないものが訪れた。その場の幽寂にふさわしい者の姿が脳裡に浮かび、前世に先だつ前世を越えて名前をも思い出した。「ダロン・ヘーン」かれは叫んだ。「そうだ、ここは長老ダロンの嘉する土地だった」その名にまつわる姿は老人のものだった。ドルイドめいた、白髯をたくわえオークの葉を冠とし、まっすぐに背を伸ばした威厳ある姿。まなざしはすばらしく明るく、深く、賢く、情け深い。そう、かれはオークの神をよく知っていた。神々がかの幽遠なるかれらの都、神秘の山に集っていた時代の同胞のひとりだった。かつて森のなかでたがいに呼びかけるときに使った詠唱も思い出した。ひと言ひと言、ひと節ひと節がよみがえって心に滴り、喜びの金色の波紋を広げた。ほかならぬダロン・ヘーンの木々に囲まれてその歌をうたうと、淡い光がちらついて輝かしい古老の姿に変わることを疑いもせずに待った。しかし輝く姿はあらわれず、応答さえも返ってこなかった。ただ葉叢だけは、かれの声を聞いてよみがえった喜びに震え、いっそうまばゆく緑の輝きを増すかに思われた。
 かれは倒れた木の幹に腰をおろして明るい心で思い巡らした。「そうだ、そうだ。おれたちは宙を駆け、大地ならぬ緑のうえをどこまでも行った……おれたちの騎行は矢風かたなびく焔のよう、流星、あるいは竜が燃えさかりながら渡ってゆくようだった。おれたちはバビロンの民のような人間ではなかった」かれは遠い記憶の糸をたぐり寄せようと考えこんだ。ダロン・ヘーンの消息を得られないかもしれないという不安は影を落とすこともなかった。
 かれはオークの森を出て緑に覆われた小谷を下っていった。大森林をくまなく探しまわってでも、夢の山を見つけるつもりだった。春のあいだずっとさまよいつづけた。たいていのときは希望に意気高く、歩きながらたびたび歌をつくった。なにしろ幾千年も経っているのだから、少しくらい道を探すのに手間どるのも不思議ではない。飛びながらさえずる郭公の声が、視界の彼方、青と緑のあわいに響けば、それは古き世からの声と聞こえ、はるけくも親しく、良き前兆と思われた。樺の森では黒歌鳥の吟唱を聞いた。宿木鶫やどりぎつぐみは高い樺の木で詩人の技を披露していた。かくのごとき音楽はバビロンではけっして聞かれない。シンバルにサックバット、ショーム、ダルシマー、プサルテリウム、王の楽人たちのどんな音楽も鳥の歌には及ばない。幾度となく、かつて知っていたという気がする場所に出会った。森林の秘密の領土のここかしこ、あざやかな針金雀児はりえにしだの谷、かすむヒースの谷、苔が銅色に、暗色に、そして緑に燃えるところ、綿菅わたすげがさびしく清らに頭をもたげ、谷地柳やちやなぎの香気が満ちるところで。むかし神だったときの記憶が滴り、心にしのびこんでくるのは、不思議な感覚だった。丈高い樺の木が柱のように立ち並ぶ暗がりに入れば、夢想は荘厳に広がった。陽光にひたされ、蜥蜴たちが身を閃かせる草地に来れば、人間であったときの残滓が跡形もなく剥がれおちていった。記憶の周縁にいつもすばらしい啓示がふるえているように感じられるいっぽうで、なんとしても理解できない不在もあった。場所があり、美がある。しかしその魂であり精髄であったかの者たちはいない。――羊歯の葉に露がきらめき、緑の芝生に銀色の朝霧がたちこめる木の間の空き地で、あえかに美しい炎の姿が心に浮かんだとき、かれはその何者なるかを、そして露の女王タイマズの名をはっきりと思い出した。しかし、かつて彼女が応えた歌で呼び寄せられないかと、どれだけ切に歌っても、鶫のほかに応える者はなかった……。
 夏も探索をつづけた。美しく誇らかな藍青の七月、エジプト人の眼をした七月が天を占め、静寂が葉叢の宮殿に籠もり、鳥たちも歌うのをやめる季節。八月は樺の梢をかろやかに踏み、あるかなきかの黄金を大気に散らしながら訪れた。かれは夕暮の紫に包まれた松林をゆき、暗色の針葉の房と赤みがかった幹や枝の向こうに空の炎を見た。炎の心のフェニットを思い、かれのおぼろな暗紅色のマントが、そのかみ松の木のあいだに見た黄昏を燃えあがらせていたのを思い出した。しかしフェニットはどこにいるのか? いまはなんの消息もない。ああ、かつて美しく燃える空にあれほど美しく燃えあがった、炎と光でできた者たちはどこにいるのか。森は寂寞として、記憶にあり夢に見たものとは似つかない。
 かれはつねに高所を目指し、森が途切れて視界が開ける高台があれば、かならず天地のあいだを見渡した。高い緑の山々が見えるのは珍しくもなかったが、かの真珠の白さを誇る冠毛、高く天に迫り雪に煙る幽玄な美、心の眼にはこのうえもなくはっきりと輝いている山を見ることはなかった。
 星空のもと妖精の群がヒースの荒野を駆けゆくのにたびたびゆきあい、かれらに問いかけようとした――しかしそのときは、妖精たちの眼にはかれが見えず、声も聞こえないようだった。ますます孤独を感じながら歩きつづけ、森林の深奥を抜けた。黄金の日々と灰色の日々を通りぬけ、超然と沈黙を保つ陽光のなか、また小さな雨神たちが忙しなく動きまわるなかを過ぎた。雨神たちはいつも急いでどこかへ行ってしまい、かれにはひとことも口をきかなかった。かつての山での生は、あてどもない放浪などではなかったのを思った。ときには、果たすべき高い務めがないために森の美と神秘から避けられている気がした。
 秋のあいだずっと西に向かった。木の葉が燃えあがっては衰え、音もなく枝を離れ舞い落ちてゆくそのあいだを。喜びは鳴りを潜め、望みは灰色の忍耐に褪せ、さまよいながら歌うことも少なくなった。冬の嵐が裸木のうえを駆け、樺の梢は灰褐色と紫にくすみ、空が濃い葡萄色に垂れこめるころ、森が尽きて怒濤の海に出会うところに至ったが、いまだ故郷の山を見ず、いにしえの仲間たちの消息も掴めなかった。悲しみに塞がれ、大きな切望に捕らえられ、ときには恐れを抱きながらもバビロンを思った――けばけばしい緋色と金色の栄光を、荒んだ暮らしを、虚ろな日々を、放蕩と絶望的な憂鬱を。
 かれは海に背を向けて森に戻り、その年もあてのない探索をつづけた。春とともにふたたび大いなる生命が流れこんできて、故郷にいながら流浪の身だと感じることも減った。野の蜜蜂や燕たちの言葉を思い出し、妖精や小さな雨神たちと語るすべを思い出した。どう話しかければ黒歌鳥の機嫌を損ねずにすむか、四月の宿木鶫にはなにを言えばよいか、郭公に、八月の黄昏の松林で会う大きな白い梟に、小川のそばにいる白鶺鴒はくせきれいに、静かな湖のほとりの木立で緑と青に閃く翡翠かわせみにはなにを言えばよいか。――森のなかの開けた空き地では、月光の踊り手たちに出会うことがあった。踊り手たちはかれの周りに集まり、神を前にして畏れかしこむと同時に、かれの頭上の炎の羽飾りの淡さ、眼のなかの悲しみと切望を見てとって、哀憐におし黙った。〈神秘の山への道を知っているか?〉するとかれらは溜息をついて消え失せた。かれのごとき者からそのような問いを向けられるのは、かれらにとってはなにかおそろしく、不可解だったのだ。あるはずのないことだった。たぶん、月光の踊り手たちは悲劇に敏感なのだろう。悲劇はかれらの生命を切り裂き、痛みというおそろしいものの存在を教える。かれらは助けにはならなかった。「わたしはそれをいつも歌にうたう」詩人の黒歌鳥は言った。「聞こえないのか?」あるいは「わたしの歌にある以上のことをどうして言えよう?」と(溌剌とした喜びの勢いは、つねに黒歌鳥の詩人としての身上なのだ)。「静かに!」翡翠は言い、泥炭の褐色を透かせた光と影が入り混じる水中に、すばやくくねる筋を追って飛びこんだ。「ミ・ウン、ミ・ウン――知っている、知っている!」森鳩は常のごとく鳴いたが、なにも教えてはくれなかった。そうしてかれは失望を重ねながらさすらった。
 冬のさなかにナンロッサに戻った。かすかな希望が湧くのを感じながら、炎の心フェニットの松林へ行った。しかし枝や針葉の房に雪が厚く積もり、あたりは寒く荒涼として寂しく、炎の心フェニットはいなかった。ダロンのオークの森へ。裸の木々は、帰郷したさすらい人がかつて我が家だったものの廃墟に残る壁を見るようだった。峡谷の上に建つナンロッサの塔へ、ただ雪に覆われたエルフィンメアが果てしない灰色の空と吠え猛る風のもとに広がるのを遠く見はるかすばかりだった。黄金の炎のボリオンを思い、かつて夜明けに湿地の上を駆け昇っていったさまを思った。榛の木の貴婦人グウェルンラスを思い、森に、草地に、湖に炎を燃えたたせ、森の美のうちにある精華だったすべての者たちを思った。「どこにいる?」さらに繰り返した。「ああ、どこにいる?」いまの森にはいない、それはわかっていた。沈黙するエルフィンメアの白い荒野にも。では、神秘の山は?――こればかりははっきりと言えた。この見放された土地をさまよっていても、山を見いだすことはけっしてない。手がかりは失われた、あるいはいまの自分の眼は、啓示を見るにはふさわしくない。そしてかれはバビロンを思った。柔らかな緋の衣を纏って王の御前で踊っていた者たちを、どぶに這っていた癩病みや不具の者たちを、トランペットとショームのけたたましい音楽を、これ見よがしの栄光と隠された苦悶とを、黄金と深紅の美観と汚濁の陋巷を。もしかれが神であるなら、手をこまねいていてよいのか?
 かれは峡谷を下りて破滅が待つ道、キャメロットからバビロンに至る古街道を東へ、かつて来た方へと向かった。
 進むにつれて刻々とあらたな記憶がよみがえってきた。かれは神々の知識を持っていた。神々の誇りと憐れみが魂を鼓舞した。何をするつもりか――もちろん、バビロンに対する神々の戦いだ。かれは神々の悠久の企てを思い出した。いかにしてかれらが幾星霜を雌伏し、いつの日か世界を征服せんと期しているかを。かれは神々のひとりであり、たしかに何千年ものあいだ自分が戦いに加わっていることを知らなかったにせよ、神々の戦いはかれの戦いだった。いまこそ大都で行動を起こすつもりだった。神々のいくさは世の常の戦とは異なる。大部隊はいらず、ひとりの人間が強大な軍隊にもなれる。たとえ独りでも神々のために星を支える者はかれのみではない。星――あるいは己の心臓と言ってもよい。神の――奴隷の――なすべき崇高な壮挙がバビロンにあった。
 都まであと一日というところで、かつて人通りの多い道をはずれてナンロッサと森に向かう古街道に入ったあたりまで来た。日暮れに小高い丘から見わたすと、まわり一面の平野も、その上の空も、大軍勢の野営の篝火に照らされているようで、彼方の地平線は巨大な虹色の天幕の群れが放つ光に染められていた。かれがそこへ着いたとき、後ろから来て挨拶をした男がいた。あとになって、夢のなかで訪ねてきたかの者だったと気づいたが、そのときはわからなかった。「あれはなんですか」ヴァルグロン・フラムラスはあやしく照り輝く炎を指して訊ねた。「ここ数年というもの、神々はバビロンを包囲している。かれらのために門を開けてくれるはずの者を待っているのだ」男が言った。にわかに陽が沈み、幻は失せ、同時にかたわらの男も消えた。ヴァルグロン・フラムラスは夢を見たのだと言うよりほかになかった。
 かれは都に入った。三日にわたってバビロンじゅうを巡り、神々の知るところを告げてまわった。柔らかな緋の衣の踊り手たちを見た。商人、盗人、金持ち、没落者。みなかれの前に正体を隠しおおせはしなかった。かれらは身をやつした神々、追放された天使、忘却に沈められた魂、幾千の生をかけた巡礼だった。埠頭や街なかのあらゆる場所で、群衆はかれに耳を傾けた。ひとりが声をあげた。「あれは逃げ出した奴隷のヴァルグロン・フラムラスではないか」かれが姿を現したことは元の主人の耳にも届いた。かれは裁判官の前に引きたてられ、罪を宣告された。
 法に従って、夜明けとともに刑が執行された。夕暮れに向かうころ、十字架から空を見上げたかれは、蒼穹のただなか、壮大な前廊と縞瑪瑙の柱よりも、雪花石膏と磨きあげた斑岩の宮殿よりも、王の空中庭園よりもなおはるかな高みに見た――吹き寄せられた雲の群を、そこに白い羽根飾りに似た山のごときものの、なめらかな真珠色の雪を纏って煙る姿を。そのときから肉体の苦痛はとるに足らぬものになった。夜の訪れを待たず、かれは肉体を脱ぎ捨て、本来の自己となった……。
 夜中に都の門が内側から開かれ、神々がバビロンに入った。その治世は千年とさらに永きにわたった、そう言われている。



底本:The Secret Mountain and other tales Faber & Gwyer, London 1926
翻訳:館野浩美
2018年11月24日公開

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