私のエランモアでの友人だったアン・ギレスピーは、叔父のロバート・アハナ老人が亡くなった後、島を去ってはるか西に行った。
 それまで三年の間、夏にはエランモアの沖で外ヘブリディーズ諸島の男たちが漁をしていたが、その中にマーナス・マッコドラムという若者がいた。マーナスは見目良い若者だったが、ルイス島や北ユイスト島の漁民はたいてい色が白く、赤毛に灰色の目か、金髪に青い目であるのとは違って、褐色の肌に黒い髪と濃い茶色の目をしていた。かといって、北方人に似ていないのと同様、アラン島や内ヘブリディーズ諸島の黒いケルトにも似ていなかった。彼はたしかにあの一族の出に違いなかった。北ユイスト島のマッコドラム一族の者はみな、褐色の肌、褐色の髪、褐色の目を持っていた。おそらくそのためでもあったのだろう、その昔、このユイスト島の小さな氏族は、西方の島々の間でスリホク・ナン・ローン、すなわち海豹の子孫として知られていた。
 北ユイスト島やルイス島のおおかたの男たちのような長身でこそなかったが、マーナス・マッコドラムもかなり背が高く、しなやかで力強かった。漁の腕前は誰よりも優れ、ときおりひどく塞ぎこむことがあったにもかかわらず、仲間からは好かれていた。歌えば声は娘のように甘く、実際よく歌ったが、ハリス島のオッブからミングレーの岬にいたる島々のあらゆる古い歌を知っていた。また、南ユイスト島やバラ島のカトリック僧や修道僧が歌う美しい聖歌オーラン・スピラタルを歌うこともたびたびあった。北ユイスト島のマーナスの住むあたりでは、旧教を守っているのは彼一人だったのだが。
 アンもカトリックだったし、それにアハナ一家も、祖先やギャロウェイの係累はプロテスタントだったにもかかわらず、カトリックに帰依していた。これはロバート・アハナ老人が旧教を奉ずる妻に寄せた愛情のためだったと言われている。それがあずかったのかどうか、私は恋人の称賛のまなざしと柔らかい物言い、それに甘い歌声の力のほうが大きかったと思うが、アンはマーナスに結婚を約束した。アンの誓いは、マーナスにとっては、俗に言う〈南風〉だった。波打つ褐色の髪と柔らかな灰色の瞳、クリームのように白い肌のアンほど美しい娘は、島々でもほかにいなかった。
 そんな次第で、アハナ老人が永遠の安らぎにつき、エランモアには下の三人の息子たちが残るだけとなったとき、マーナス・マッコドラムは北西に船を走らせ、ミンチ海峡を通って故郷に花嫁を連れ帰った。四人の兄のうち、長兄のアラステルは父の死の数か月前にエランモアを去って西に向かったが、その航海の目的地がどこで、いつ帰ってくるのかは誰も知らず、何の便りもなかった。エラン・ナン・アルヴァラハン、よそ者の島と呼ばれるようになったこの島で、アラステルの姿が見られることは二度となかった。アランとウィリアムはミンチ海峡で時化にあって溺れ、ロバートは白熱で亡くなった。白熱とは、島々の民をしばしば苦しめる死の病だ。今はマーカスが〈エランモア〉であり、グルームとシェーマスとともに島に住んでいた。三人とも独り身だったが、そろってマーサル・ニヒク・アルヒペン[#原注: マーサル・ニヒク・アルヒペンはゲール名であり、英語でいえばマージョリー・マカルピンとでもなろう。ニヒクは nighean mhic の略であり「~の子孫の女性」を表す。]という、サマー諸島のうちでも本土のサザーランドから目と鼻の先のエランローナに住まう娘に恋していると噂されていた。
 マーナスはアンに一緒に来てくれるように言い、アンは承知した。三兄弟はこれを喜ばなかったが、従妹にそんな遠くに行って欲しくないというほかにも、アンを失いたくない理由があった。アンは炊事や糸紡ぎ、機織りといった女の仕事を一手に引き受けていただけでなく、見るも愛らしく、長い冬の夜には何時間もともに歌をうたってくれた。そんなとき、グルームはフェタンという麦笛のような笛で、荒々しい不思議な旋律を奏でるのだった。
 アンがマーナスを愛していたのは確かだが、島を離れることにしたのは、グルームを恐れていたからでもあった。野や丘にいるとき、高く低くさえずるフェタンの音色を耳にして、急いで家に引き返すことがたびたびあった。男たちは家にいて夕餉の後の一服を楽しんでいるものとばかり思い、夕暮れのなかを歩いているときに、ふいに遠くで貫くような笛の音がして、こちらに近づきながら〈死者の踊り〉、〈満ち潮と引き潮〉、〈影のリール〉といった調べを奏でるのを聞くのは、気味の悪いことだった。
 自分がそこにいるのをグルームが承知しているのは明らかだった。少なくともいく度かは確かにそう思われた。その証拠に、シダとヤチヤナギの繁るあいまを身を潜めて足早に抜けていくときに、飛び跳ねるように追いかけてくる笑い声を聞いた。
 マーカスたちに自分は出ていくつもりだと告げたとき、マーナスはそこにいなかった。そのときマーナスは二人の仲間とともに快速ルア号に乗っており、港に停泊した船の甲板に座り、三人して漁網を繕うかたわら、月明かりの下で歌をうたっていた。
 夕餉の後、三人の兄弟は腰を落ち着けて一服しながら、誰かから持ちかけられたシェットランド種の羊に関する取引の話をしていた。しばらくの間、アンは黙って三人を見つめた。とても兄弟には見えない。マーカスは大柄で肩幅が広く、黄色の髪に不釣り合いな暗青色の目をして、眉は黒い。日焼けした厳めしい顔には疲れたような色がある。北方風の縮れひげカシェン・フィアサクをたくわえているので、上唇から垂れ下がる褐色のひげが、泥炭の放つ光を受けてつやつやと輝いていた。グルームは体つきはほっそりとして、肌は浅黒く髪の色も濃い。ひげのない顔はつるりとしている。指の細く長い手は白く、浜に打ち上げられた海草のように絶えず落ち着きなく動いている。内心の窺い知れない暗い目つきをして薄い唇にほほ笑みを浮かべるときにも、眉間に刻まれたしわが消えることはない。彼はいかにもアハナ兄弟の知恵袋らしく見えた。英語を流暢に話すだけでなく、訳のわからない小難しい本を読むことさえできた。なにより、ロバート・アハナの学識を受け継いだのは、息子たちのうちただひとりグルームだけだった。アハナ老人は若いころはギャロウェイで教師をしていたこともあり、グルームを僧職につけるつもりでいた。グルームの声は低くよくとおるが、氷の下を流れる薄緑色の水のように冷ややかだった。シェーマスはといえば、グルームよりはマーカスに似ているが、髪の色はやや濃い。茶色の髪とけむるような榛色の目、あおじろくなめらかな顔、どこか思いつめたような表情さえも幾分は、もう長いこと行方の知れない、おそらくはすでにこの世にない長兄アラステルを思わせた。背が高く痩せているところもアラステルに似ていた。シェーマスの顔には、いわく言いがたい、あるかなきかの翳りがあった。いわゆる「憂いの影」というものだが、その言葉の意味を知る者は少なく、知っていても進んで話そうとする者はほとんどいない。
 何の前触れもなく、だしぬけにグルームがアンの方を向いた。
「それで、いったい何の話だ? アン」
「私、何も言っていないわ」
「わかってるさ、おまえモ・カリン。でも、何か言おうとしていただろう」
「そうね、そのとおりよ。マーカス、グルーム、それにシェーマスも、あまり嬉しい話じゃないかもしれないけど、言わなくてはいけないことがあるの。あの、私と、マーナスのことで」
 しばらく誰も返事をしなかった。三人は座ったまま、野原で見慣れない人間に出くわした家畜のようにアンを見つめた。グルームの眉間のしわが深くなったが、アンが彼を見返すと、目をそらして足元の影に視線を落とした。ようやくマーカスが低い声で言った。
「おまえが言うのは、マーナス・マッコドラムのことだな?」
「そうよ」
 ふたたび沈黙がおちた。グルームは下を向いたままで、シェーマスは泥炭の炎を見つめていた。マーカスが落ちつかなげに身じろぎした。
「それで、マーナス・マッコドラムは何が望みだ?」
「マーカス、わかっているんでしょう。どうしてそんな意地の悪い言い方をするの。マーナスの望みはひとつきりしかないわ。一緒に来てくれと言われて、私は承知したの。マーナスが司祭様を連れてここにくるか、私たちがハリス海峡にあるユイストのバーナレイ島の教会に行くのを許してくれないなら、もうこの家の屋根の下には一晩だっていない。夜明けとともに、今港にいるルア号に乗ってエランモアを出て行くわ。話はこれで全部よ、マーカス、グルーム、シェーマス」
 そう言うと、またもや沈黙に迎えられた。沈黙を破ったのは思いがけないものだった。グルームがよどみない動作でフェタンを取り出し、唇にあてがった。冴えざえとした笛の音が炎に照らされた部屋を満たした。さながら冬の訪れを告げる白鳥の群れが水面に降りるかのように。
 音色はいつの間にか、荒々しいこの世のものならぬ旋律、瞑いわだつみの上の冷たい月の光のような旋律に変わった。それは〈ダーン・ナン・ローン〉の調べだった。
 アンの顔にさっと血の気がさし、体が震えたかと思うと、ふいに彼女は立ち上がった。固く拳を握った右手を卓上について身を乗り出すと、泥炭の明かりが、炎のように燃える瞳を照らしだした。
「どうしてその曲を吹くの、グルーム・アハナ」
 相手は最後の一節を歌いおさめると、麦笛の管に息を吹き込んだ。アンをちらりと見上げ、言葉を返す。
「この曲の何が悪いんだ、色白きアナ」
「悪いことなのはわかっているはずよ。それはダーン・ナン・ローンじゃないの」
「そうさ、だったら何だというんだ、色白きアナ」
「だったら何かですって? わたしにその〈海豹の歌〉の意味がわからないとでも思っているの」
 グルームはフェタンを置いて立ち上がった。
「いいか、アン」声を荒げて言いかけたところへ、マーカスが割って入った。
「もういい、グルーム。可愛いアン、おまえは本気なんだな?」
「そのとおりよ」
「グルームがなぜあの曲を吹いたか、わかっているのか」
「ひどいいやがらせよ」
「島々の言い伝えは知っているんだろうな。あの、禁忌ゲサンに縛られた、魔法をかけられた者たち――それから、そう、海豹のことだが」
「ええマーカス、知っているわ。――Tha iad a' cantuinn gur h-e daoine fo gheasan a th' anns no roin.」
「海豹は」マーカスは重々しく繰り返した。「海豹は魔法をかけられた人間だと言われている――その意味をよく考えてみたのか、従妹よ」
「あなたの言いたいことはわかっているわ」
「それなら、北ユイストのマッコドラム一族が海豹の子孫と言われていることも知っているはずだな」
「聞いたことはある」
「それなのにおまえは、獣の血を引く男と夫婦になるつもりなのか。本人だって禁忌ゲッシュのことは承知していて、いつ仲間の処へ帰って行くかもしれないというのに」
「ああもう、マーカス、私をばかにしているのね。あなただって、そんな戯言は信じていないくせに。女から生まれた男が、なぜ海豹だなんてことがあるの。たとえ、あの人の祖先が海の民の血を引いていたとしても。でも、それだって私、信じていないわ。どのみち、そんな遠い先祖のことなんてどうでもいい」
 マーカスは眉根を寄せて黙り込んだ。ようやく口を開いたものの、口調は苦々しかった。
「なんだろうと信じたいことを信じればいいだろう、アナ・ニヒク・ギレスピク。だが、誰でも知っていることが二つある。東風が胴枯病を、西風が雨をもたらすのと同じくらい確かなことが。一つはこうだ。昔、海豹の男が北ユイストの女と結ばれた。その男本人だか息子だかは、ニール・マッコドラムといった。それからというもの、海に焦がれる海豹の血が代々の子孫に受け継がれた。そしてもう一つはこうだ。今の世の人間が知る限りでも二度、マッコドラム一族の者が海豹に姿を変えたことがある。そのために彼らは死にまみえることになった。一人はル・トロメチのニール・マッコドラム、もう一人は海峡のバーナレイのアンドラ・マッコドラムだ。他にも噂はあるが、誰でも知っているのはこの二人だ。そしてよもや忘れはしないだろうが、褐色のニールはマーナス・マッコドラムの祖父で、アンドラは伯父だ」
「そんなこと、私は気にしないわ。ただの海の泡みたいなものよ」
「風も潮もなければ、泡が生まれることもなかろう。おまえをユイスト島に運んで行くのは不吉な潮だ。東をはるか離れて吹きすさぶのは絶望の風だ。その風が奴の末期の叫びをおまえの耳に届けるだろう」
 アンは身を震わせた。しかし、アンの身にひそむ勇敢な魂は怯まなかった。
「さもあらばあれ。誰にでもそれぞれの運命があるわ。それでも、海豹であろうとなかろうと、私はマーナスに添うてみせる。あの人は、あなたたちに劣るところなど何もない、真実立派な人間で、私は彼を愛している。神の思し召しによって、あの人が私の夫となるでしょう。神よ讃えられてあれ!」
 グルームがふたたびフェタンを取り上げ、熱気をはらんだ室内に、あおじろく凍てつくような音をいくつか送り出した。漂う音符がふいにまとまって、ダーン・ナン・ローンの冒頭の妖しい旋律を成した。
 小さな叫びとともに、アンはしゃにむに飛び出して笛をグルームの手からひったくると、炎の中に投げ捨てようとしたが、その前にマーカスの強靭な腕にがっちりと取り押さえられた。
「グルームのことは気にするな」マーカスはおだやかに言うと、フェタンを取り上げて弟の手に返した。「俺の言ったことを、こいつなりのやり方で表しただけだ」
 アンは身をもぎはなすと、食卓の向こう側にまわった。そちら側の壁には、ロバート・アハナ老人のものだった短剣が掛けてあった。アンは短剣の鞘をはらった。右手に短剣を構えたまま、男たちに相対する。
「この短剣の十字にかけて、私はマーナス・マッコドラムの妻となる」
 男たちは一言も発せず、魅入られたようにアンを見つめた。
「そしてこの短剣の十字にかけて、誰であれ私とマーナスの間に立ちはだかる者がいたなら、この短剣で、その日、その時を忘れられないようにしてあげるわ」
 そう言う間も、アンは他の二人にもまして恐れているグルームを、意志をこめて見据えた。
「そしてまたこの短剣の十字にかけて、マーナスにもしものことがあれば、私の乾涸びた胸がこの短剣の新たな鞘になるでしょう。その証として、古い鞘を私は火に投ずる」
 言い終えると、燃え盛る泥炭の上に鞘を投げ捨てた。グルームはそっとそれを拾い上げ、塵かなにかのように火の粉を払うと、隠しに収めた。
「そして同じ証にかけて」グルームは言った。「おまえの誓いは無に帰す」
 立ち上がりながら、グルームは兄弟についてくるよう合図した。外に出たところでシェーマスには、家に戻ってアンを外に出さないよう、おとなしく従えばよし、従わないなら力ずくでも留めておくようにと言いつけた。手短かに段取りを話し合った後、兄弟は二手に分かれた。シェーマスは家に戻り、マーカスとグルームは港に向かった。
 月光の下を行く二つの人影は隠れもなかったが、ルア号の男たちはマーナスの歌に聴き入っていたため、しばらく気が付かなかった。
 マーナスがふと歌を途切らせると、仲間の一人が軽口をたたいて、歌に誘われて海豹でもやってきたのか、気をつけろよ、海の民の女かもしれないと言った。
 マーナスは顔を曇らせたが、口に出しては何も言わなかった。他の二人も耳を澄まし、月光にかすかに混じるダーン・ナン・ローンの鬼気漂う旋律に気がついた。浜のほうに目を凝らし、兄弟の姿を認める。
「これはいったいどういうことだ」一人が不安げに尋ねた。
「女の代わりに男が来ると」ゆっくりとマーナスが答えた。「カラスの若鳥たちが巣を起き出すのさ」
 それはつまり、流血という意味だった。オーリィ・マクニールとドナル・マクドナルは漁網を置いて立ち上がり、マーナスの出方をうかがった。
「おうい、そこの」マーナスが叫んだ。
「おうよ」
「何が望みだ、エランモア」
「ちょいとおまえと話がしたいのさ、マーナス・マッコドラムよ。こちらに来てくれないか」
「俺に話があるなら、おまえたちがこちらに来ればいい」
「舟がないんでね」
小舟ボータ・ベクをよこしてやるよ 」
 マーナスは仲間のうちの年下のほう、十七になるドナルに向かって、岸まで小舟を漕いで行くように言った。
「戻ってくるときは、一人しか連れてくるんじゃないぞ。エランモアでもグルーム・ヴィヒク・アハナでも、どちらでも構わない」そう言い足した。
 小舟のもやい綱が解かれ、ドナルは月光の下をすべるように漕ぎだした。薄雲が月の面をよぎり、岸のあたりが暗く翳ったが、ドナルが綱を投げ、堤に沿って小舟を船着き場に寄せたのは見分けられた。一転、あや目も分かぬ闇に包まれた。ドナルが話をしているらしい、とルア号の男たちは見当をつけた。何も起こらないままいくばくかの時が過ぎ、ついに小舟がふたたび岸を離れた。舟上の人影は二つだけ。マーカスとグルームの両方を来させないよう、言いくるめるのに手間取ったのだろう。
 たしかに、ドナルは弁をふるった。しかし、その間もマーカスの視線はドナルを通り越して背後に注がれていた。
「あそこにいるのは誰だ」マーカスは問うた。「あの、艫のほうに座っているやつだ」
「舟にはだれもいないぞ」
「男の影が見えたような気がしたが」
「なら俺の影だろうよ」
 マーカス・アハナは弟のほうを向いた。
「俺はあの舟の上に何者かの死を見た」
 グルームはぶるっと身を震わせた後、小さく笑った。
「俺には死なんて見えないぜ。それが本当なら、そいつはダーン・ナン・ローンに合わせて踊り出すだろうよ。俺やおまえの分身なら、そんなことはしそうにないがな」
「俺が見たのは分身ではない、誰かの死だ」
 グルームが兄に囁きかけ、マーカスはうなずいた。つぎの瞬間、何かぶ厚いものがドナルの口をふさいだ。あらがうことはおろか、何が起きたかを理解する間もなく縛られ、猿ぐつわを咬まされて浜にうつ伏せにされた。ほどなくして、櫂はグルームの手に握られ、小舟はすみやかに港の奥から出て行った。
 マーナスは近づいてくる小舟をじっと見つめた。
「オーリィ、櫂をとっているのはドナルではないぞ」
「ああ。見たところ、あれはグルーム・アハナにちがいない」
 マッコドラムは、なおも食い入るように見つめた。あれがグルームだとすれば、艫にいるもう一人はドナルにしては大柄すぎる。小舟が舷側に並んだ時、ふたたび雲が月の面を隠した。綱をしっかりと結びつけると、マーカスとグルームは甲板に飛び移った。
「ドナル・マクドナルはどこだ」マーナスが尋ねた。
 マーカスが答えようとしなかったので、グルームが代わりに口を開いた。
「俺たちの家に向かっている。アン・ニヒク・ギレスピクへの伝言を携えてね」
「どんな伝言だ」
「マーナス・マッコドラムはエランモアを出てゆき、二度とおまえに会うことはないと」
 マッコドラムは声を上げて笑った。低くしわがれた笑いだった。
「グルーム・アハナよ、おまえのフェタンでコヘル・ナン・パルチェンを吹くがいい。下の岩場に蟹どもがやってきて、はさみを振って笑っているにちがいないからな」
「ああ、確かにそうだな」グルームは冷ややかに答えた。「そう、おまえの言うとおり、〈蟹の集い〉を吹くのもいいかもしれん」その後、ふと思いついたというように付け加えた。「それとも、こんな静かな夜だが、おまえにコー・ホーンを吹いてやろうか。〈蟹の集い〉よりは〈波のひと打ち〉のほうがふさわしいだろう」
「俺の聞くコー・ホーンは、おまえの考えているのとは少し違うだろうがな。グルーム・ヴィヒク・アハナよ。〈帆を上げて別れを告げよう〉ではなく、〈花嫁を連れて故郷へ〉という歌になるはずさ」
 このときマーカスが口を開いた。
「おしゃべりはもうやめだ。きさまにアンはやらん。アンの夫はグルームだ。だからさっさと出て行け。おとなしく立ち去るなら、おれたちも手出しはしない。これ以上ぐずぐずするのなら、おれが舟に見たものがおまえの運命だ」
「何を見たと言うんだ」
「何者かの死」
「そうか。それなら」しばし四人の男の無言の睨み合いが続いた後、マーナスが口火を切った。「穏便に済ませるつもりがないというなら、血が流れるのも厭わないということだな」
「そうだ。行け。馬鹿ではないならな。さもなければ、死ぬのはおまえだ」
 夏の稲妻のような閃光がひらめいた。あおじろい炎が月光を貫いて飛んだように見えた。マーカスが鋭く息を呑んでよろめく。大きくのけぞった顔が月光に白じらと照らされ、がくりと膝が折れた。上体が前にのめり、そのまま倒れ伏す。マーナスが放った短刀は、マーカスの胸板にせいぜい一インチほど刺さったにすぎなかったが、倒れた拍子に柄元まで深々と埋まった。
 黙りこくったまま、三人の男は海藻の間を潮が引いていくときのような音を聞いた。死者の肺で血泡がごぼごぼと音をたてているのだった。
 青ざめたマーカスの唇から淡い血の色をおびた泡が筋となってあふれてくるころ、ようやく口を開いたのは弟のグルームだった。
「これは殺しだ」
 声は穏やかだったが、砕ける波頭のように聞く者の耳を打った。
「それでは真実のすべてとはいえないな。これは殺しだ――おまえたちが望んだ」
「おまえはマーカス・アハナの死の責めを負うのだ、マーナス・マッコドラム」
「そいういうことにしておこうか。おれとおまえの間ではな。それともおれとおまえの一族すべての間でもいいが。だが、おまえだけではなく、オーリィ・マクニールも証言できるのだぞ。おれが短刀を投げたのは身を守るためで、それがマーカスの身体を貫いたのは奴自身のせいだったと」
「首に縄をかけられるときに、縄にむかってそうほざいてみるがいいさ」
「それで、今度はおまえはどうするんだ」
 はじめてグルームが動揺の色を見せた。一瞥して、都合の悪いことに小舟はルア号の後ろに繋がれているため、ひと飛びに移ることはかなわず、かといって綱をたぐりよせていては二人の男の思うつぼだと悟った。
「おれはおとなしく立ち去ろう」グルームは静かに言った。
「そうか」おなじく静かな声が答えた。「流血はなしか」
 死の危険をはらんで、二人は対峙した。
 ついに沈黙を破ったのは、アハナの子のほうだった。
「お前が死ぬ前の晩に、ダーン・ナン・ローンを聴かせてやう。疑う余地のないよう、死の刻にも、もういちど」
「Ma tha sin an D※(グレーブアクセント付きA小文字)n ――それがさだめなら」
 マーナスはおごそかに言った。しかしその穏やかさは、かえって不吉だった。相手から情けは望めないことをグルームは悟った。
 ふいにグルームは嘲るような笑いを放った。右手をのばし、二人の敵の後ろにいる誰かを指さすようにして怒鳴った。
「マーカス、奴らに死の手をかけろ。墓場へ送ってやれ」
二人は飛びのいた。心臓は張り裂けんばかりだった。殺されたばかりの死者に触れられるのは、おそるべき災いだった。亡者は触れた者にすべての罪を移すことができるのだ。
 次の瞬間、大きな水音があがった。マーナスは、ただのはったりにしてやられ、グルームを逃したことを悟った。急いで小舟をたぐりよせて飛び移ると、敵を捕らえようとただちに漕ぎだした。
 グルームはマーナスとルア号の間に頭を出した。マーナスは櫂受けに櫂を固定し、鉤ざおを手に取った。
 グルームがこちらに向かってまっすぐに泳いでくる。その姿がふいに水面下に潜った。一瞬のうちに、マーナスはグルームの意図を悟った。小舟の真下に出て、竜骨をつかんでひっくり返せば、上からマーナスを取り押さえられるとふんだのだ。とっさに飛び込むことしかできなかった。はたして、海に身を沈めるやいなや、小舟は真っ逆さまに覆り、そのうえにグルームが這いあがった。
 はじめ、グルームは敵の姿をとらえられなかった。逆さになった船の上にしゃがんで、月光を跳ね返す水面を血眼で探った。とつぜん、なにか黒い塊が小舟とルア号の間の陰に浮かび上がった。黒い塊が笑い声をあげた。マーカスの死の前に聞いたのと同じ、低いしわがれた笑いだった。
 今度はマーナスが泳いで近付いてきていた。一尋ほどをへだてたところで、身を起こして立ち泳ぎの姿勢になる。右手には鉤ざおが握られていた。舟上のグルームは、留まれば死が待つのみと知って、猫のように身を縮める。マーナスはゆっくりと立ち泳ぎを続けたが、その間も狙いは定めたまま、一跳びの距離に敵が近づけば、すかさず鉤ざおの先端の鋭い爪で刺し貫いてやろうと身構えていた。ときおりマーナスは笑い声をあげ、それから歌い出した。低い甘い声が、深く息を継ぐときばかりは乱れた。

暗い潮は、その背に負うた重荷にあえいでいた
海藻の積み重なる浜で、潮の言葉を、ささやきを聞いた
海藻を揺り動かす波のひとつひとつが、扉を閉ざすかのようだった
最後に聴こえるのは閉ざされる扉の音、もはや他の音は聴こえはしない
ああ哀し
もはや
塩辛い海藻の間を潮は過ぎ、刃のごとく切り裂いた
荒れ狂う海風は、うめきと嘆きを繰り返した
深い海の魂は、昔語りの繰りごとをつぶやいた
その魂の嘆きを、高まる嘆きを、消えゆく嘆きを聴いた
哀しきその
御魂よ
かつて白い波は倦み疲れ、血の気の失せた唇は灰色だった
むさぼり喰らう口にあふれる泡は、流れる血汐に赤く染まった
おお赤き海藻、赤き波、うつろな絶望の叫びよ
ひとりを得たうえに、暗き海よ、なにゆえまたも贄を求めるのか
ああ哀し
またもや

 月光のしじまにゆったりと長くリフレインを響かせる、たとえようもなく美しくこの世のものとも思えない歌声は、他の者には真似のできないものだった。湾内の海面はきらきらと輝き、石の堤に沿って揺れる炎の筋をなした。ときおり魚が飛び跳ねて淡い金色の波紋を広げ、水面に浮かび上がった海月は青や薄緑の生きたゼリーのような半球を月の輝きに染めた。
 海中のマーナスはふいに動き回るのを止め、しばし耳を澄ませた。ふたたびゆっくりと水を掻きはじめると、肩のまわりに淡い輝きが広がった。いまいちど、ひときわ大きく歌声が響いた。

海藻を揺り動かす波のひとつひとつが、扉を閉ざすかのようだった
最後に聴こえるのは閉ざされる扉の音、もはや他の音は聴こえはしない
ああ哀し
もはや

 敏い耳は、陸のほうでなじみ深い声が歌うのを聞きつけていた。月光のように優しくきよらかなアンの歌声が、アンが港に通ずる窪地をやってくるのにつれて近づいてきた。マーナスはアンの姿を求めて視線をさまよわせたが、アンのいる場所はまだ影になっていたうえ、ゆっくりと流れる雲が月の光を翳らせていた。ふたたび向きなおったマーナスの唇から、押し殺した叫びが漏れた。グルーム・アハナの姿がみあたらない。音もなく小舟から水中に身を滑りこませ、今は舟の背後に隠れているのか下に潜ったのか、それとも水面下のどこかを泳いでいるのか。雲が過ぎてくれさえすれば。マーナスはつぶやき、足下からの、あるいは背後からの攻撃に備えた。闇が薄れてから慎重に小舟に泳ぎ寄り、すばやく一回りした。誰もいない。小舟に上がって竜骨の上に立ち、たいまつをかざして鮭をやすで突く漁師のように身を乗り出して、槍の穂先のように先端の鋭い鉤ざおを構えた。あたりにも離れたところにも何の姿も認められなかった。押し殺した声でオーリィ・マクニールに呼びかけたが、やはり何も見なかったという答えが返ってきた。グルームは水に潜って逃れるうちに力尽きて沈んだに違いない。今頃は小鮫の餌食となっているのかもしれない。
 マーナスは小舟の後ろに回り、船まで押して行った。ほどなく、マクニールの手を借りて逆さになった舟を起こした。片方の櫂が流されて無くなっていたが、船尾にも艫櫂の受け穴があるので漕ぐのに不都合はなかった。
「こいつをどうしようか」マーカスの死体の傍らに立ったマーナスはつぶやいた。「今夜は災難だな、オーリィ」
「まったくだ。しかし、これ以上面倒なことにならないようにしようぜ。思ったんだが、小舟はほうっておくべきだったな」
「どうしてだ」
「マーカスとグルームは立ち去って、その後二人も小舟も見ていないと言えるじゃないか」
 マーナスはしばらく思案していたが、海の上を渡ってくるかすかな声を聞いて心を決めた。アンとドナルが話しているのだろう。マーナスはすばやく小舟に飛び移り、船員ナイフであちこちに穴を開けた。小舟に水が入ってくる。オーリィがマーナスに渡した重石の重みに加えて、マーナスが思い切り足で下へ押すと、小舟は沈んでいった。
「その――そいつを外海に出るまで隠しておこう。そこの巻き上げ機の陰、予備の帆の下がいい。はやく、手を貸してくれ」
 二人の男が死体を持ち上げてマーナスの言ったとおりにするのに時間はかからなかった。やりおおせるがはやいか、アンの優しい銀のような声が水面を渡って呼びかけてきた。
 蒼白な顔に震える手足のマーナスは、帆柱を掴んで身を支えていた。しかしその声は、オーリィが不安ながらも思わず微笑まずにはいられなかったほど朗々として力強く、アハナ兄弟はもう戻ってきたか、それならすぐにドナルをこちらに寄こして、できるならアンも一緒に来てほしいと頼んだ。
 それから半時間ほども経って、ようやくアンはルア号に向かって漕ぎだした。結局、アンは浜を回ってマーカスの小舟の一艘が繋がれている入江まで舟を取りに行き、ふたたび戻ってこなければならなかった。ドナルを乗せると、グルームやマーカスに捕まることを恐れ、あらん限りの力で舟を漕いだ。
 アンは手短かに、引き留めようとするシェーマスの無駄な努力を一笑に付し、港まで急いでやってきた次第を語って聞かせた。港に近づくとマーナスの歌が聴こえたので、自分もマーナスが好きだと知っている歌をうたいはじめた。水際まで来ると、縛られ、さるぐつわをかまされたドナルが仰向けに倒れているのを見つけた。ドナルを自由の身にして、何が起こるのかと二人で待ち構えていたが、月の光の下では、こちらに向かうものも船に向かうものも、一艘の小舟も見えなかったので、マーナスがそこにいるのかどうか確かめようと呼びかけたのだった。
 マーナスのほうはぶっきらぼうに、アハナ兄弟がアンを置いて出て行くよう説得しに来たことを告げた。マーナスが断ると、兄弟はマーナスとアンへの脅しを吐いて去っていった。薄闇のなか遠ざかる舟からは口争いが聞こえていたが、月の光が翳ったので二人の姿を見届けることはできなかった。
「それでは、愛しいアン」マーナスは呼びかけた。「一緒に来てくれるんだね。今ここに来てくれたように。絶対に、後悔はさせないよ。おれにしてやれることなら、何でもかなえてやる。愛しいおまえ、今夜、一緒に行くと言っておくれ。イコルムキル[#アイオナ島のこと。「聖コルムキル(コルンバ)の島」の意]の黒い石にかけて、太陽にかけて、月にかけて、神にかけておれは誓う」
「愛しいマーナス、信じているわ。こんなことがあった後では、あの家には帰りませんとも。あなたと行くわ、これからずっと。神よ守りたまえ」
「では、エランモアとはお別れだ。十字架の血にかけて、この島の土を二度と踏むものか」
「悲しいとも思わないわ、マーナス、わたしの故郷よ」
 こうしてアン・ギレスピーはエランモアを去り、西方の島々に向かった。
 白く輝く月の下、そよ風のささやきを受けて船はなめらかに進んだ。アンはマーナスの胸にもたれ、甘い夢を心に描いた。若いドナルは舵の元に座ったまま、うとうとしていた。船首のオーリィ・マクニールは、顔を月光に晒して西の方をじっと見つめたまま、陰鬱な表情で何事かを考え込んでいた。
 すでに陸地は視界の彼方に消え、無言の星々がまたたく空の深みにも、大海原の上にも静けさがあったが、マーナス・マッコドラムの顔には恐怖が影を落としていた。
 それは巻き上げ機の傍ら、予備の帆の下に横たわる、いまだ葬られざる死者ゆえだとしても無理はなかっただろう。しかし、彼は死者を恐れはしなかった。マーナスの胸でうめきをあげ、脳髄のうちでため息をついては執拗に呼びかけるのは、ルア号がすべるように港を出る間際に耳にした、かすかな谺だった。水の上からか、岸辺からはわからなかったが、心騒がすダーン・ナン・ローンの旋律をマーナスは聴いた。まさにその夜、グルーム・アハナのフェタンが奏でたときそのままに。
 耳のいたずらだと思いたかった。あたりを見回して、薄闇の中から見返すオーリィ・マクニールの目に暗い炎が宿っているのを認めたとき、マーナスはフィンの息子オシーンの悲痛な叫びの意味を理解した――「彼の魂は霧の中を泳いでいた」
 

 不吉な前兆にもかかわらず、マーナスとアンの生活はうまくいっていた。マーナスは以前より無口になり、周囲からは遠巻きにされるようになったが、本人はアンとともにいれば幸せだったし、今はカラム・マッコドラムとラナルド・マクラナルドの二人を仲間として不満もなかった。若いドナルは、縁者であるスカイ島の船長の船に乗り組むようになり、羽振りがよくなった。オーリィ・マクニールのほうは、マーナスを除いた誰もが驚いたことには、故郷を離れ、クライド川からオーストラリアに向かうロッホ・ライン社の船の水夫となった。
 アンは、いくらかは察していたのかもしれないが、実際に何が起きたのかは、まったく知らなかった。はっきりしていたのは、マーカスとグルームは姿を消し、海で溺れたものと考えられていることだけだった。いまやエランモアにはアハナ一族は誰一人残っていなかった。
 シェーマスも島と孤独な暮らしにすっかり嫌気がさしてしまったのだ。おおかたの意見が、二人の兄は外海まで流されて溺れたか、運がよければ外洋船に拾われたのだろうという結論に落ち着くと、早々に農場を捨てて永久に島を離れた。一連の出来事は西方の島々で囁かれていた噂を裏付けるものだった。いわく、ロバート・アハナは呪いを島に持ち込んだのだと。アハナ老人がエランモアに暮らした長い歳月の間、胴枯れ病と天災がたびたびエランモアを襲い、悲惨な、あるいは謎めいた死によって七人の息子のうち六人が命を落とした。そして残る末っ子も額に「憂いの影」を帯びている。たしかに、六人のうち三人の生死は誰にも定かではなかったが、アラステル、マーカス、グルームの三人が生きている可能性をわずかでも信じるものは、ほとんどいなかった。アンがマーナス・マッコドラムとともにエランモアを去った夜、シェーマスはとくに不審な物音や騒ぎは耳にしていなかった。アンが港まで降りて行ってから一時間が経ち、アンも兄たちも戻らないままルア号が出港したことを知ったときも、何も心配はしなかった。マーカスとグルームも船に乗って行ったに違いない。おそらくは司祭か牧師が正式に従妹を娶わせるのを見届けることにしたのだろう。その夜のある出来事さえなければ、それからも平穏に過ごしていたはずだった。寒気をおぼえたシェーマスは、みなルア号に乗って行ってしまったのだと考え、家に戻った。泥炭が燃える炉のそばに座って物思いにふけっていると、背後の窓で物音がした。何度も聞いた覚えのある旋律の一節が、ようやく聞こえるかどうかというほどかすかではあったが、耳に突き刺さるように飛びこんできた。これは確かにダーン・ナン・ローン、とすれば吹いているのはグルーム以外にありえない。いったいどういうことだろう。いや、ただの空耳だろう、外の暗闇でフェタンの音などしていない。あれこれ思い巡らしていると、あいかわらずかすかな、しかし先ほどよりはっきりとした節回しは、シェーマスが嫌っており、グルームも彼の前では吹いたことのないダヴサ・ナ・マラヴ、〈死者の踊り〉に変わった。シェーマスはさっと立ち上がり、足音を忍ばせてすばやく部屋を横切った。牛小屋の陰の暗がりには誰の姿もなかったが、旋律ははたと止んだ。外に出てあちこちくまなく探し回ったが、やはり誰もいなかった。仕方なく家に戻り、慄きのおさまらぬまま聖書を取り下ろして、ゆっくりと読み上げていると、じきに平安が訪れ、赤々と輝く泥炭の温もりのようにやさしく心を包んだ。
 いっぽうアンの身辺には、死んだと思われていた者のひとりが生きている、あるいは死してなお幻のフェタンを操って、この世のものならぬ墓場の旋律を響かせているなどとほのめかすことは何も起こらなかった。
 ふたりの平和に影をさすものもないまま月日が過ぎ、マーナスも愁眉を開いた。漁から戻るときや浜でのんびり網を繕うときなど、ふたたびマーナスの歌が聴かれるようになった。それに、もうすぐさらなる喜びが訪れるはずだった。アンは身ごもっていた。たしかに気がかりもあった。お産を間近に控えたアンは気分がすぐれず、日に日にやつれていくようだった。ある日、南ユイスト島のロッホ・ボイスデイルに出かける用事ができたマーナスは、後ろ髪を引かれる思いに加えて、なにとはなしに不吉な予感をおぼえながら、住まいを構えていたハリス海峡のバーナレイ島を後にした。戻って来たのは三日目の夜だった。漁仲間のラナルドの妻であるカトリーンに出迎えられ、自分が出かけた翌日に、死を予期したアンはロッホ・マディにいた司祭を呼びにやったのだと聞かされた。その日の夜のうちにアンは息を引き取り、子供も運命をともにしたのだという。
 この知らせをマーナスは夢の中の出来事のように聞いた。心臓を潮が引いていき、冷たいみぞれまじりの雨が、頭の中にかかった霧を貫いて降り注いだ。
 悲しみはマーナスに重くのしかかった。愛する妻を埋葬してからというもの、マーナスは独りきりであちこちさまようことが多くなった。たいていは海峡を渡り、バン・ブレクのふもとのピクトの塔まで足をのばした。漁に出ようとはせず、親類のカラムにルア号を任せきりにしていた。
 折に触れて、アラン・マクニール神父が彼に会いにはるばる北までやってきた。訪問を重ねるごとに、別れ際の神父の顔は暗さを増した。「このままでは気がおかしくなってしまうだろう」最後に訪れたとき、神父はカラムに向かってそう告げた。
 宵が長くなるとともに、島々に穏やかな美しい夏の日々が訪れた。鰊の当たり年で、夜の漁はいつになく大漁だった。海の恵みで生計をたてるユイスト島の男という男は、寸暇を惜しんで船を出した。ポラック[#タラ科の魚]、小鮫、獺、海豹に加えて無数の海鳥が群をなしてやってきては、ひとしく饗宴にあずかった。ひとりマーナス・マッコドラムだけが、鰊にも鯖にも見向きもしなかった。人々はわきめもふらずに浜辺を歩いていくマーナスの姿をたびたび目にした。笑い声を聞いたという者もいる。引き潮のときにはバーナレイの岩礁の近くまでやってきて、耳慣れぬまじないのような歌をうたったり、じっと岩の上にうずくまっていることもあった。
 夜空から見下ろす夏至の月の眼に映る人間は、島中でもマッコドラムと自由教会の牧師であるブラック師、それにアンドラ・マッキアンという名の老人くらいのものだった。仲夏もあと一日を残すのみとなった宵、アンドラは教会の敷地の墓から男が起き上がり、石垣にそってマーナス・マッコドラムの住むバルナハナル・サ・モーナ[#原注 : Baille-'na-aonar'sa mthonadh 「丘の斜面の寂しい農場」]に向かって下っていったのを見たと言い張って、牧師にたしなめられた。
「死者が起き上がって歩くわけがない」
「それはそうかもしれんがね、牧師様。でも、あれは死者の守人だったのとちがいますか。ポドリク・マカリスターが緑の塚の下に横たわってから三週間になるならずってところです。誰かに仕事を代わってもらいたくなったんでしょうよ」
「やれやれ、そんなものは古臭い迷信だよ。死者が起き上がって歩くことなどないと言っているだろう」
「牧師様のおっしゃることが正しいのかもしれませんがね。しかし、わしはこの話を親父から聞いたんでさ。親父は、あんたがまだひよっこだったときに、もう年寄りだったし、親父はそのまた親父から聞いたんだ。最後に葬られた者が死者の守人に飽きると、あちこちさまよいだして、男でも女でも子供でも、目の中に死の影があるやつを探しに行くんでさ。それで誰か見つかると、ようやく安心して墓に戻って休むのさ。これで見張りのお役も御免だってね」
 神父はたわごとを一笑に付し、翌日の礼拝の準備をするために戻って行った。しかし、アンドラ老人の心は休まらなかった。粥を食べた後、薄暮のなかをバルナハナル・サ・モーナまで出かけて行った。マーナス・マッコドラムに会って忠告してやるつもりだった。しかし、西壁のところまで来て開いた窓のそばで立ち止まると、ほかに誰もいない部屋でマーナスが大きな声でしゃべっているのが耳に入った。
「B'ionganntach do ghr※(グレーブアクセント付きA小文字)dh dhomhsa, ※(アキュートアクセント付きA小文字) toirt barrachd air gr※(グレーブアクセント付きA小文字)dh nam ban! (汝の愛はこのうえなかった、いかなる女の愛にもまして)」
 マーナスは苦しげに震える声でそう言った。アンドラは身動きもできなかった。邪魔をするのは恐ろしく、また、ひょっとしてマーナスの傍らに見てはならない者を見てしまうかもしれないのも恐ろしかった。声は断末魔の叫びにまで高まった。
「Aoram dhuit, ay an d※(アキュートアクセント付きE小文字)igh dhomh f※(グレーブアクセント付きA小文字)s aosda! (我は汝をあがめるだろう、ああ、我老いたる後も)」
 アンドラはたまらずその場を離れた。牛小屋のそばを通ったとき、人影が見えた気がしてぎょっとした。しかし、落ち着いて見直してみると誰もいなかったので、びくびくと震えながら家に戻った。
 だいぶ暗くなったころ、マーナスが家の外に出てきた。今夜は雲が多くなりそうだと見たためか、しばしためらった後、あてどない散策には出かけず家に戻った。しばらくの間、芯の赤く燃える泥炭の前に座って鬱々と物思いに沈んでいたが、やにわに弾かれたように立ち上がった。
 窓のすぐ外で奏でられているかのようにはっきりと、冴えざえと凍てつくような麦笛の音が聴こえた。その狂おしい旋律は忘れられるはずもなかった。ほかに誰あろう、グルーム・アハナがかのフェタンを奏でているのだ。そしてその調べは、まぎれもなくダーン・ナン・ローン。
 死の影に姿を隠した死者がそこにたたずんでいるのか。かたわらには、今も胸にナイフが柄まで突き刺さり、唇からは泡を吹いたマーカスを従えて。海が死者を返して寄越したのか。かつて人の手がこしらえたフェタンは、かの沈黙の地でも旋律を奏でるのか。
 マーナスの思いはいたずらに乱れた。今耳にしている旋律がダーン・ナン・ローンであり、吹いているのはグルーム・アハナその人以外にありえぬことは明らかだった。
 湧き上がる怒りがマーナスを発作的な狂気に駆り立てた。笛の音はふいに調子を変え、〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉を奏でたかと思うと、すぐにどこか妖しく不気味な〈コヘル・ナン・パルチェン〉、グルーム・アハナよりほかにあえて奏でる者もない曲に転じた。
 もはや疑う余地はなく、〈蟹の集い〉のぎくしゃくとした呟きのような旋律の意味するところも明白だった。
 マーナスは大きな叫び声をあげると、暖炉の脇に置いてあった短剣をひったくり、おもてに飛び出した。家の正面には鴎の影ひとつ見当たらない。急いで牛小屋の周囲をひとまわりしたが、やはり怪しいものは何も見つからなかった。
「畜生! 生身の人間だろうが亡霊だろうが、この剣で一突きにしてやる」
 しかし誰一人姿を現さず、物音さえしない。
 とうとう短剣を握った手をだらりとおろし、マーナスはきびすを返して家に入った。グルーム・アハナの言葉がよみがえってきた。〈お前が死ぬ前の晩に、ダーン・ナン・ローンを聴かせてやう。疑う余地のないよう、死の刻にも、もういちど〉
 三時間の間、マーナスは暖炉の前に座ってみじろぎもしなかった。それから、ようやく立ち上がって寝台に向かい、服も脱がずに横たわった。
 マーナスは目を覚ましたまま、じっと耳を澄ませていた。泥炭の炎は衰え、下のほうで床に沿ってかすかな明かりが明滅するばかりになった。窓の外では海上を渡る風が嘆きの声をあげていた。なにかさざめくような音がしているのは、島から延びる岩礁を潮が引いていくのだ。真夜中になって雲が晴れ、月影もさやかにあらわれた。外箱が虫に喰われ、がたのきた時計が刻を打ったのをきっかけに、マーナスは身を起こして一心に耳を澄ませた。怪しい物音はしない。動くものもない。もしグルーム・アハナの亡霊が待ち構えているのなら、夜もふけ、しんと静まりかえった今、何かしら前触れがあるはずだ。
 一時間が過ぎた。マーナスは起き上がり、足音を忍ばせて部屋をよこぎると、戸を開けた。さわやかな潮風が頬をなでた。浜と濡れた海草の匂い、ヤチヤナギの鋭い香気、海の泡と流れる潮の匂いが入り混じって、こころよくマーナスの鼻孔をくすぐった。岩場のほうでトウゾクカモメが鳴いた。背後の山の斜面では、月に眠りを妨げられたタゲリが、高く低く嘆くような声をあげていた。
 マーナスは低く腰をかがめ、慎重な足取りでゆっくりと海の側の塀に沿って歩いていった。堤に着いたところで立ち止まり、堤の内と外をあらためる。ざっと数百ヤードを見渡すことができたが、風雨を避けて休む羊の一頭さえ見当たらなかった。次に、あいかわらず足音を立てないよう気をつけて、牛小屋のそばまで行った。板の隙間という隙間に順番に耳をつけ、中の様子を覗う。一片の影だに動く気配もない。自分自身、一塊の影と化して、そっと牛小屋の正面に廻り、戸口の傍らに積んだ乾草の山を過ぎる。すばやく左右を見回し、戸を開けて中に滑り込んだ。とたんに、凍りついたように立ち尽くす。確かに今、外の乾草のあたりで足音がした。恐怖に心臓をつかまれた。目の前に広がる闇にはどんな恐ろしいものが待ち構えているかもしれず、背後には正体のわからない何者かがうろつき、いつふいをついて襲いかかってくるかもしれない。マーナスは身体が震えだすのを止められなかった。懸命に心を励まし、ようやくろうそくを置いてある棚の方へと足を踏み出した。震える手でろうそくに火を点す。ちらちらと揺れる灯りに浮かびあがる空っぽの牛小屋は、陰鬱で気味が悪かった。だが、誰もおらず、怪しいものもない。戻ろうとしたとき、外れかけてぶら下がった梁を鼠が走ったのが目に入った。鼠はマーナスを見つめた。あるいは、ろうそくのまばゆい黄色の明かりを見つめたのかもしれない。黒い瞳は、月に照らされた泥炭地の水溜りのような光を湛えていた。
 鼠ははじめ警戒していたが、すぐに興味を失ったのか、鳴き声をあげ、前足で身体を掻きはじめた。何度か応えるような鳴き声が聞こえた。あちこちで藁の中をかさこそと動きまわる音がする。
 マーナスはいきなり飛びつくようにして鼠を捕まえた。そのまま口にもっていって力強い顎で背中に噛みつくと、鼠もマーナスの手を強く噛んだ。マーナスは両手を離し、暗がりを手探りした。身をかがめ、剥き出した歯に鼠を咥えたまま、息絶えるまで振り回した。そして屍を口から落として踏みにじると、哄笑を放った。小さな素早い足音がして、藁がかさりと鳴った。その後はまた物音もしない。戸口から一陣の風が吹き込み、ろうそくの炎を消した。沈黙と暗闇の中に立ち尽くすマーナスは、神経を研ぎ澄ませていたものの、もはや恐れてはいなかった。彼はふたたび笑い声をあげた。歯を武器に殺すことが、かくもたやすいとは。マーナスには、自分の笑い声がおぼろな猿のような影となり、四方を飛び跳ねているように感じられた。実際、彼には見えたのだ。闇の中の黒い影が。マーナスはもういちど笑った。それが飛び跳ねるのを見るのは楽しかった。
 ふいにマーナスは向きを変えて月光の下に出て行った。先ほどのタゲリが、あいかわらず円を描いて空を舞い、嘆きの声をあげていた。マーナスは甲高い声でその鳴き声をまねた。ピーウィー、ピーウィー、ピーウィー。おびえたタゲリは逃げまどった。突然の警戒の叫びと乱れた羽音に、仲間たちも目を覚ました。あたりの空気は千鳥たちの嘆きの声で満ちた。
 海の息吹が陸地にまでおしよせてきた。マーナスは胸いっぱいにその息吹を吸い込み、満足のため息をもらした。うねる波への憧れがこみあげた。緑の水が胸板に砕けるのを感じたくてたまらない。同時に、マーナスは今朝からずっと忘れていた飢えと渇きをようやく意識した。銀のモンツキダラか、あるいは褐色の背のリア[#リア (liath) は「灰色」の意。詳細は不明]でも、活きがよく艶々したのを、まだ鰓から海水の泡を吹いているまま食べたなら、どんなにか舌に冷たくうまいだろう。あの鼠のように激しく抗うだろうが、それなら、頭をそらして、ぎらぎら光る魚を月光の中に投げあげ、回りながら落ちてくるところを波のてっぺんで待ちかまえて捉え、貪り喰らってやる。
 すばやいひきつるような足取りで、マーナスは陸地の側を通って藁ぶき小屋の戸口に回った。中に入ろうとしたところで、出るとき半ば開いたままにしておいた扉が閉まっているのに気づいた。こっそりと窓に近づき、中を覗きこむ。
 ひとすじの月光が弱々しく室内に差し込んでいた。いっぽう、泥炭の芯にくすぶる炎が灰の隙間から舌を伸ばし、被せた灰の覆いを貫く勢いはないものの、鈍い輝きを放って、ちらちらと揺れるかすかな光を室内になげかけていた。
 ぼんやりとした明かりではあったが、暖炉の前の三本脚の椅子に男が腰をおろしているのを見分けるには十分だった。低く頭を突き出し、何かに聴き入っているように見える。窓のほうからは顔は見えなかった。これはおれの分身に違いない。マーナスは確信した。いったい奴は何をしているのだろう。あるいは、おれが奴に災いロサトを招くことができないよう、聖書を喰ってしまったのかもしれない。そう考えて、マーナスは大声で笑った。影の男がふいに立ち上がった。
 マーナスはすぐさま藁ぶき屋根に攀じ登ると、綱から綱へと伝って這い進んだ。綱には、暴風に屋根を吹き飛ばされないように、重しの役目をする大きな石がくくりつけられている。重石をひとつひとつ綱から毟り取り、扉の前の地面に投げ出した。次いで、両手で藁を掻きだし、屋根に穴を掘る。そうする間も、ずっと獣のように唸り声をあげていた。
 月が煌々と照らしているのは都合がよかった。大きな穴を開ければ、部屋に居座っている墓から蘇った邪悪なものの姿を確かめることができ、石を投げ落として殺すこともできるだろう。
 マーナスはふいに手を止め、黙り込んだ。冷たい汗が噴き出した。己の分身か、死んだ敵の霊か、それともグルーム・アハナその人かはわからないが、それは低くゆっくりと禍々しい旋律を奏で始めた。鋭く冷ややかな楽の音は、フェタン以外ではあり得ない。マーナスにはわかっていた。そしてその冷たく白い、雪片のように闇を舞う旋律も。そう、最後の審判の日まで眠り、天国と地獄の喧騒のなかで、たとえ音符の一つでも聴いたなら、必ずやマーナスは悲鳴をあげるだろう。この曲、ダーン・ナン・ローンのゆえに。
 そう、ダーン・ナン・ローンだ。ローニ! 海豹ども! ああ、このつらい地上で自分は何をしているのか。向こうに海が広がっている。緑の波間にいれば、身を脅かされることもないだろう。
 マーナスはひと跳びで地面に降りた。大きな石を持ち上げて窓に投げつける。笑いと叫びを交互にあげながら、大岩礁に向かって駆けていった。岩礁の縁では、白く波頭を立てながら、引き潮が喉を鳴らし、すすり泣いていた。
 マーナスの笑いと叫びが途切れた。背後から、ダーン・ナン・ローンの調べが、かすかにではあるが追いかけてくるのが聞こえたのだ。確かに、追いかけてくる。低く身をかがめ、岩礁につづく岩場めがけて全力で走った。
 岩場の端までたどりついたところで、マーナスは急に足を止めた。目前の岩礁に、およそ十頭から二十頭ほどの海豹がおり、思い思いに泳ぎ回ったり、岩に張り付いたりしている。丸い頭を月に向けて高く上げ、奇妙な吼えるような鳴き声をあげるものもいた。ひとところで水面が大きくうねり、盛大な水しぶきがあがっている。二頭の牡が死闘を繰り広げていた。
 マーナスは素早く人目をはばかるように服を脱いだ。長靴の革ひもは濡れて固く締まっており、マーナスはまくれあがった唇から唸りを漏らし、それを引き裂いた。マーナスの裸身が月光に白く輝いた。しかし岩の陰にかがみこんでいるため、まだ海からは隔てられている。「グルーム・アハナめ、どういうつもりだ」徐々に近づいてくる旋律が〈死者の踊り〉に変わったのに気づき、いまいましげに呟く。一瞬、マーナスは人間に立ち返った。もう少しのところで、屍であろうと亡霊であろうと、あるいは生身の人間であろうと、宿敵に面と立ち向かい、追いかけてくる相手に飛びかかって、両手と歯でもって引き裂いてやろうと決心しかけた。しかしそのとき憎むべき〈海豹の歌〉が、ふたたびあざ笑うかのように闇の向こうから漂ってきた。
 ぶるっと身を震わせ、マーナスは暗い水中に滑りこんだ。素早く力強い抜き手を切って、上げ潮のなかへ出てゆき、岩礁の風下の側を潮に逆らって懸命に泳いだ。
 海豹たちは二頭の牡の闘いに注意を向けていたため、泳いでくる人間には気づかなかった。あるいは気づいていたとしても、仲間だと思っていたのだろう。唸りと吼え声、人間の悲鳴にも似た声が群れからあがった。マーナスが群れの一頭に手の届くほどの距離に近づいたとき、闘っていた牡の一方が喉を喰い破られて沈んでいった。勝者は岩礁によじのぼり、身を反り返らせて見事な上体を繰り返し揺らした。月光に晒された牙は珊瑚の血赤に染まっていた。潰れた両目から血が筋を引いていた。
 マーナスが群れの中に入っていくと、死んだ牡が沈んでいったあたりを泳ぎまわっていた海豹たちは、あわてふためいて跳ねたり泳ぎ回ったりした。
 このひょろりとした白い海豹の笑い声に恐れをなしたのだった。
 岩礁に膝があたったところで、マーナスは岩に両手をかけて体を引っ張り上げ、水からあがった。あちらの岩からこちらの岩へと、不思議な踊るような身のこなしで飛び移るマーナスの身体が、水泡のように白く月光に輝いた。
 海草に覆われた岩場を舞うように飛び跳ねながら、マーナスは古い魔法の歌を切れ切れにうたった。それはユイスト島のマッコドラム一族の忘れられた呪歌だった。岩の上の海豹たちは、魅入られたように身を縮めて固まった。海中をゆっくりと泳いでいたものたちは、茶色の目で瞬きもせずにマーナスを見つめ、小さな耳をそばだてた。

このおれはマーナス・マッコドラム、
おまえたちに告げる、わがゆかりのアンドラよ、
そしておまえ、わが祖父ニール、それにおまえ、おまえ、
おまえにも
そうだ、おれの名はマーナス、マーナスの子マーナス
ほかの何者でもない
おまえたちの同胞だ、海の海豹たちよ
赤魚の血をよこせ、
それに飛び跳ねる鰊スカタンの一口も
腹の上には緑の波、
目の中には海の泡
おれは仲間だ、海の獣の男たちよ、
おまえたちより強い牡だ、唸り声も恐ろしい牡たちよ
こい、おまえ、柔毛の腹の海豹よ、
いまは白いおれの身が、じきに赤く染まるだろう、
流れる血汐に染まるだろう、おれに歯向かうやつがいたならば
アオゥ、アオゥ、アオゥ、アロー、アロー、ホーロー
かつては人間、今は海豹、
おれの牙の間から黄色い泡が唇にあふれる
道をあけろ、道をあけろ、海豹たち
道をあけろ、海に憑かれたこのおれに
彼方に見えるのは海の乙女、
そしておれの名は、そう、マーナス・マッコドラム、
かつては人だった海豹の牡だ、アラー、アラー

 マーナスは大きな黒い海豹の近くまで来ていた。あいかわらず血まみれの頭を単調に揺らし、盲いた目をさまよわせている。他の海の民は魔法にかけられたかのように固まっていた。月光の下を舞うマーナスに踏みつけられたときでさえ、ぴくりともしない。マーナスは大海豹に手の届く距離まで近づいて立ち止まった。「おまえはキェウン・キニーか」大声でたずねる。「おまえはこの海の民の一族の頭か」
 巨体の揺れが止まった。まくれあがった唇が牙を剥き出しにする。
「答えろ、呪いをかけられているのでなければな。ひょっとして、おまえはアンドラ、わが父の兄だろう。答えろ! 待て――あの岸のほうから来る音楽が聞こえるか? あれはダーン・ナン・ローンだ。我が魂の破滅の歌、ダーン・ナン・ローンだ。そうとも。グルーム・アハナが墓からよみがえってきたのさ。そこをどけ、けだもの。おれを通せ!」
 そう言い放ったが、相手が退かないのを見て、固めた拳で獣の顔をまともに殴りつけた。腹の底から絞りだすような低い唸りをあげ、海豹は牙を剥いてマーナスに襲いかかった。
 マーナスはふらふらとよろめいた。もはや周りで狂ったように海豹たちが唸り、吼え、むせぶような鳴き声をあげるのしか耳に入らない。マーナスが倒れると、海豹たちが殺到した。マーナスの叫びは、狂った鳥の群れのように夜闇を旋回した。死に物狂いで身を自由にしようともがく。群れの頭がマーナスを岩に釘付けにした。他の海豹たちが白い肌を引き裂き、ほとばしる血に紅く染まった岩を月の白い光が照らし出した。
 しばらくの間、マーナスはなおも激しく抗い、爪や歯を突きたてた。いちど、もはや見分けもつかぬ赤い塊となったマーナスが膝をついて身をおこした。岩礁の岸に近いほうから、高くはっきりと運命の旋律が響いてくるのを聞き、ひとこえ憤怒の叫びをあげる。
 次の瞬間、身体を引き倒され、岩礁から海に投げ落とされた。ずたずたに引き裂かれた身体が沈んで見えなくなってゆく周りで、海豹たちは沸き立つように伸び上がり、身をくねらせた。その目は恐怖と怒りに燃え、牙は人間の血に赤く染まっていた。
 そしてグルーム・アハナは岩礁の上でくるりと向きを変えると、足取りも軽く陸のほうへと戻っていった。道々、ひそやかにフェタンを吹き鳴らしながら。




底本:The writings of "Fiona Macleod" Volume 3 by Fiona Macleod, Duffield & Company:New York, 1910
翻訳:館野 浩美
公開日:2009-10-20
改訂日:2010-02-20
改訂日:2018-02-28

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