目の見えない鳥の巣は、神がお作りになる。このことわざは、いつどこで聞いたものか、そもそも誰かから聞いて憶えたものだったかも定かではないが、小鳥の心臓に胸の柔毛が寄り添うように、子供のころからずっと私のそばにあった。
 この言葉を胸のうちに繰り返すとき、私はひとりそっと呟く。闇に惑う心に太陽と月を昇らせ、翼ある光の聖霊に命じて盲いた魂のために巣を作らせるのもまた神である、と。
 このごろ繰り返しこのことわざを思い起こすようになったのは、昔、アラステル・アハナという名で私が知っていた、以前「選ばれし者」という題で記したことのある人のためだ。今では、ロスのトリドンからアイラ島のリンズまで、彼はただひとつ 〈アラン・ダウル〉 という名でのみ知られているのだが。
 昏い星の下に生まれた者の末路は誰にもわからない。彼らは常の人とは違った、しかしいずれにしても暗い運命に生まれついているのだという。ごく若いうちに物狂いになることもあり、あるいは長じて鬱勃とした狂気に襲われることもあるが、ついには生まれ故郷の人々の許を去り、はみ出し者としてさすらい、丘を吹く風の声よりほかに声も聞こえない、寂しく見捨てられた土地をうろつくことになる。邪悪な性を持った者が不可思議なめぐりあわせで光の使いとなることがある。善美に恵まれた者が翼ある死の霊となることもある。ただひとつたしかなのは、彼らがいつどのような最期を迎えるかは誰にもわからないということだ。
 私の友達、〈アラン・ダウル〉 ことアラステル・アハナは、そんな昏い星の子らのひとりだった。
 〈アラン・ダウル〉 は――ゲール語で盲目を意味する名のとおりの身となっていた。明けることのない暗闇がアラステル・アハナを閉じ込めることがあろうとは、にわかには信じられなかった。見ることを禁じられたこの世の美を、彼はなににもまして愛していた。それでも、たとえ人生の川辺をさまよう盲目の旅人であろうとも、私は彼をうらやむ――なぜなら、あの美しい魂は、ついにほんとうに夢の王国へと入っていったのだから。
 偶然のめぐり合わせで再び彼に会ったときには、双方とも深く驚いた。向こうは私が外国に行ったものと、南の英語が話されている地方か「どこかずっと遠く」へ行ってしまったのだと思っていた。いっぽう私は、彼はもうこの世の人ではないのだとばかり思い、言い伝えのとおり妖精に誘われて行ってしまったのだろうかと思いを馳せたことも一度ならずあった。
 私たちは、いまは無人のエランモアについてあれこれと取り沙汰し、雨や風は、私たちがそこにいたときと同じように今も島に悲しみを投げかけているのだろうかと懐かしんだ。また話題はアラステルの従妹で私の大切な友人でもあったアン・ギレスピー、マーナス・マッコドラムとともに遠くに行ってしまい、ほんとうに若くして亡くなったアンにも及び、さらにはマーナス自身とその恐ろしい最期にも触れた。アラステルの弟のグルームが死の運命を奏で、マーナスが海豹たちの棲む海の深みに沈んでいったとき、マーナスの耳はただひたすら恐るべきダーン・ナン・ローンの調べを聴いていたのだった。それから私たちはグルームについても語り合った。グルームが西方の島々から行方をくらまして以来――これはほとんど真相を知る者もいないマーナスの死の後ではなく、血を分けた弟にして意中のカトリーン・マッカーサーの恋人だったシェーマスと誤って、湖を泳いできた男を殺した後という意味だが――それ以来彼の消息を知る者はなかった。私は、もうグルームはこの世に放たれた悪の軍勢のひとりとして地上をうろついてはいないのだろうと考えていた。というよりはむしろ、そう思いたかっただけかもしれない。しかしアラステルは、グルームは生きており、いつの日かまた姿を現すだろうと私に告げた。情けを知らず、罪も知らない――なぜなら存在そのものが罪であるから――そんな人間は、自らが災いをもたらした場所を長く離れてはいられないものだから、と。
 後に、アラステルの霊的な知識がどれほど正しかったかを思い知ることになった。しかし今は、そのとき 〈アラン・ダウル〉 が口にしたことや、奇妙な恐ろしいやりかたでグルーム・アハナが再び姿を現したことを語るべき時ではない。それは今から三年ほど前のことで、グルームがずっと愚弄しつづけてきた兄は、すでに地上を目に見える姿で歩む人々のうちにはなかったのだが。
 そのときは無論そんなことよりも、アラステル自身の口から聞く、亡き者と思われた者が生きており、別の名前で知られるようになったいきさつのほうが、私にとっては大きな関心の的だった。いずれまたその話をしよう。アラン・ダウルの物語、いかにして盲目の身となり、みずからのうちに湧き出る霊視の力にめざめたかを、そしてまた他のさまざまな不思議を。しかし今は、彼を愛と死へ、また夢の門へと導いたものについてだけ語ろう。
 エランモアを出てからは、幾週も幾月も、あてもなく西の島々をさすらった、とアラステルは語った。若き日の憂愁は狂気にまで膨れあがったが、それは魂の孤独を揺るがすことなく吹き過ぎてゆくそよ風にすぎなかった。彼は額に星を戴いていた。私はこの目で見て知っている。ずっと昔、美はあらゆる場所に宿る精霊なのだと教えてくれたときに、その星を見たのだ。彼を見て、選ばれし者なのだと悟ったときに。彼は常に星の光に照らされて、神の約束のうちに歩んでいた。その星は美の星だった。
 彼は夢みるようにさまよった。夢を後にし、夢を追い求め、自ら夢となった。どこへ行こうとも常に魂の輝きが照らし、癒しを、安らぎを、そして千々に乱れた喜びをもたらした。ずっと独りでおり、血縁の者や内諸島のあちらこちらにいる数少ない知り合いを除いては彼を見知る者もいなかったため、ルイス島のバット岬からバラ岬にいたるヘブリディーズ諸島のうちで、彼は異邦人として遇された。ゲールの男であり島の民であることは言葉や訛りからも確かだったが、それでも異邦人には違いなかった。彼はヘブリディーズ諸島の全土、とくに南の島々ではよく知られたある人物に似ていた。背の高さを除いては、アラン・マッキアン神父、どこででも単にアラン神父という名で通っていた聖職者と生き写しだった。それで彼はアラン・モール、すなわち大きなアランと呼ばれるようになった。
 千の湖の島ベンベキュラで彼は弟のグルームに会った。それはマーナス・マッコドラムの非業の死からまだ幾日も経たないころのことだった。色浅黒くほっそりとした、獺のようにすばしこい弟の姿がヒースの茂みと茶色の羊歯の群生を楽々と縫って動いていた。アラステルは地面に寝転がったまま、近づいて来る相手を見つめた。その顔には笑みがあり、それは不吉な兆しだった。グルームがそんなふうに微笑むのは、気分が高揚している徴だった。
 グルームはすぐそこまで来て立ちどまった。他には特に警戒するようなものは見あたらなかったが、キアオジがハリエニシダの枝の先から脇へ跳んで、ひとこえ啼いた。どこかで死が生に狙いを定めたらしい、とアラステルは考えた。
 動くものもない静けさがしばしの間続いた。キアオジはさきほど止まったキイチゴの茂みの天辺に跳びあがり、軽やかな歌であたりの空気を震わせた。
 とうとうグルームが口を開いた。ひそやかな笑みを浮かべて、ちらちらと横目をくれつつも、兄の顔をまともに見ようとはしない。
「なあ、おい、アラステル。もうすぐエランモアにはアハナ一族は誰もいなくなるぞ」
 アラステルは痩せたひょろ長い身体を起こし、もつれた白髪交じりの髪の下から夢見るような青い目を覗かせて立ち上がった。挨拶代わりに右手を差し出したが、グルームは目もくれなかった。今度は、沈黙を破ったのはアラステルだった。
「では、おまえもベンベキュラにいたのか。おれも皆も、おまえはエランモアを出た後、海の向こうに行ったとばかり思っていた」
「古巣は駄目になったのさ。そうだろう、でなきゃ兄貴もマーナスも、それにこのおれだって、今頃ここではなく島にいただろうよ」
「南から来たのか、それとも南へ行くのか?」
「さあて。なぜそんなことを聞く?」
「何かマーナスのことを聞いているかと思ってな。おれたちのかわいいアンは、今は草の下に眠っているのを知っているか」
「ああ、アンは死んださ。それは知っている」
「マーナスは? まだバルナハナル・サ・モーナにいるのか。変わりはないか」
「いや、マーナスに変わりはないとは思わないな」
「今頃は漁に出ているんだろうか。昨日はクレイギニッシュ岬の沖では一マイル以上も鯖の群れで海が泡立っていたと聞いたが」
「ああ、やつは海が好きだったよな。マーナス・マッコドラムという男はな。海に憑かれていたといってもいいくらいだ、アラステル・アハナよ」
「おれはこれからマーナスを訪ねるところだ」
「おれなら止めておくがな」そっけない口調で、のんびりとグルームは言った。
「それはまた、どうして」
 グルームはぶらぶらと歩みを進め、さっと地面に横たわると天を仰いだ。
「世界は美しく、すばらしいものだな、アラステル」
 アラステルは弟を見やったが、何も言わなかった。
「世界は美しく、すばらしい。おまえがそう言うのを、何度も聞いたぞ。何度も何度もな」
「それで?」
「それで、だと。世界は美しく、すばらしいじゃないか」
「ああ、美しく、すばらしい」
「黙って横になれよ。マーナスの話をしてやる。おれが愛したアンと一緒になったマーナスのことをな。おまえさえよければ、あの晩のことからはじめよう。アンがマーナスと結ばれるつもりだとおれたちに打ち明けて、おれがフェタンでダーン・ナン・ローンを吹いてやったときのことだ。憶えているか」
「憶えている」
 そしてグルームは、ゆったりと地面に背を預け、ときおり空を見上げては微笑みながら、アンとマーナスの身に起こったできごとを、アンの死にいたるまで物語った。さらには、マーナスが己の血に潜む海豹の呼び声を聞き、海の仲間の許へと行ったこと、フェタンの奏でる秘密の運命の歌、ダーン・ナン・ローンと呼ばれるその歌によって狂気に陥ったことを。そしてまた、今も沖の岩礁の潮溜まりは血に赤く染まり、海豹たちもあえてかき乱そうとはせず、上げ潮にさらわれ灰色の波に混じることもないということを。
 グルームが語り終えると、沈黙が落ちた。アラステルは弟のほうを見なかった。グルームはあいかわらず仰向けになったまま空を見つめ、ひっそりと微笑んでいた。アラステルの顔は夜闇に浮かぶ泡のように白かった。とうとう、アラステルが口を開いた。
「マーナスの死がおまえの良心の扉を叩いているぞ、グルーム・アハナ」
「おれは海豹じゃない。海豹に訊いてみろ。やつらにはわかっている。マーナスはやつらの仲間だったんだ。人間じゃあない」
「嘘だ。マーナスは人間だ。おれたちと同じように。おれたちの友人で、アンの夫だった。マーナスの死がおまえの心の扉を叩いている、グルーム・アハナよ」
「われらが弟シェーマスは、まだエランモアにいるのかどうか知っているか」
 アラステルは急に話を逸らされ、けげんな顔で弟をじっと見つめた。
「どうしてシェーマスが島にいていけないわけでもあるのか」
「何も聞いていないのか、シェーマスと、それに、そうだ、アートの娘カトリーンのことを――」
「スカイ島のスレイトに住むアート・マッカーサーの娘、カトリーンのことか」
「そうだ。シェーマスと、カトリーン・マッカーサーのことだ」
「二人がどうかしたのか」
「どうもしない。ああ、どうもしないさ。だが、シェーマスがかのうるわしのカトリーンの話をするのを聞いたことはないのか」
「シェーマスは彼女を深く愛している。とても深い、ほんものの愛だ」
「ふん」
 そう吐き出すと、グルームはふたたび笑みを浮かべ、ヒースと羊歯の茂みに寝そべったまま、ぼんやりと空を眺めた。懐からすらりとフェタンを取り出すと、息を吹き込んだ。冷たく冴えた音の螺旋が、あえかな青い煙のように昇っていった。
 そしてふいにグルームはダヴサ・ナ・マラヴ、すなわち 〈死者の踊り〉 を奏で始めた。
 アラステルは身を震わせたが、口に出しては何も言わず、じっと地面を見つめていた。激しく妖しい、身の凍るような旋律に、ヒースの枝の先にまで暗黒の音楽――墓場の音楽――が充満するころ、ようやく弟に目を戻した。
「グルーム、シェーマスに対して何を企んでいるのか教えてくれないか」
「シェーマスは島を出たくてしかたがないんじゃないか」
「そうかもしれない。おれは今のエランモアがどうなっているのか、まったく知らない。カタコル港に砕ける白波を見たのは、もうずいぶん前のことだ」
「さっきの曲を聴かせてやったら、シェーマスのやつは慌てて出てゆくだろうな。だが行き先はカトリーン・マッカーサーの許ではあるまい」
「どういうことだ」
「それはだな、アート・マッカーサーの娘カトリーンが従うことになる男は、われらが弟シェーマスではないからだ。その男の名を教えてやろうか、アラステル。それはグルーム・アハナというのだ」
「なんと酷いことを考えているんだ。マーナスに、おれたちの友人で身内でもあったアンの夫にしたことを、シェーマスにもしようというのか。おまえの心には死が巣喰っている。麦を蝕む青黴のように、おまえの心は蝕まれている」
 グルームはそっとフェタンを奏でた。邪悪で無慈悲な音楽が小さく渦を巻いた。それはクサリヘビの舌のように、すばやく身を咬み毒を滴らせる音楽だった。
 アラステルは唇を噛んだ。罠にかかった鳥が雪の下で血を流すように、蒼白い顔にさっと血の気がのぼった。
「おまえはあの娘を愛してなどいない。エランモアで、おまえははっきりとアン・ギレスピーに焦がれていると言っただろう。あれはただ、マーナスがアンを愛しているのを嗅ぎつけたからだったのか? 今度も同じだろう。おまえは鷹みたいな眼で彼方のスレイトに棲む哀れな小鳥に狙いをつけたが、それはシェーマスが彼女をほんとうに、ほんとうに愛していて、彼女もシェーマスを愛していると、そう聞いたかなにかしたからだろう」
「そんな嘘っぱちは聞いちゃいない。アラステル・アハナよ」
「では、いったい何を聞いたんだ」
「ああ、東風が草の間で囁いていたのさ。草の間からすいと鳥が飛び立って、はるか高みの青い野原で歌ったのさ。それから細い細い雨になって落ちてきて、滴がおれの耳に転がりこんだのさ。そうやっておれは、おれの知っていることを知るのさ、アラステル・アハナよ」
「それでアンのことは――おまえはアンを愛していたのか」
「アンは死んだ」
「おまえの愛は鰊のように移り気だ。今日はここに影を見せたかと思えば、明日はあちらに影を見せる。おまえに味方する潮などないぞ。おまえのような者には安らう港もない」
「おれの欲しい女はただ一人、カトリーン・マッカーサーだ」
「おれが聞いたことが本当なら、おまえはもう、ある女性に恥と悲しみをもたらしたはずだ」
 グルームがはじめて動揺の色を見せた。アラステルにちらりと目をくれ、神経質な白い手がひきつった。おびえた狐が神経を研ぎ澄ませ、逃走に備えてたわめた筋肉に震えを走らせるさまを思わせた。
「いったい何を聞いたというんだ」グルームは声をひそめて尋ねた。
「おまえが、おまえを愛していない娘に呪文をかけて家から引き離したと。娘はおまえに従って悲嘆を味わい、おまえのものになって恥を嘗めたと。そのために娘は行方をくらましたか、とうとう身を投げて溺れたかしたのだと」
「その娘が誰だか聞いたか」
「いや。この話をしてくれたのはサザーランドのカーンドゥのオーリィ・マコーリィだ。娘が誰だかは知らないと言っていたが、ほんとうは知っていたのだと思う。かわいそうに、目が泳いでいたし、震える手でひげをいじって、慌ててどもりながら、その朝、岬の沖に来た鰊の群れのことをまくしたてた」
 グルームは微笑んだ。束の間の、あるかなきかの笑みだった。それから寝転がったまま身体をひねって、隠しから一通の手紙を取り出した。
「ああ、オーリィ・マコーリィは兄貴の昔からの友達だったよな。そうだった。ときどき漁船でエランモアに来たっけな。ところで、今の話を続ける前に、おれがシェーマスに宛てて書いた手紙を読んでやるよ。やつは、今おれが生きているのか死んでいるのかも知らないんだ」
 そう言うと便箋を取り出し、折々ちらと笑みをのぞかせつつ、誰か他人の書いたもののようにゆっくりと確かめながら読み上げた。

 さてシェーマス、弟よ、おれが死んだのかどうか、頭を悩ませていることだろう。答えは、あるいは然り、あるいは否だ。この手紙を送るのは、おまえの行動も考えも、すべてお見通しだと知らせるためだ。おまえはエランモアを見捨てて、アハナ一族が誰も住まないままほうっておくつもりなのだな。そしてスカイ島のスレイトに行くのだろう。では、言わせてもらおうか。行くな。血が流れるのが見える。それにもうひとつ。おまえも、ほかのどんな男も、おれからカトリーンを奪うことはできない。おまえはわかっているし、イアンも、カトリーンもわかっている。これは、おれが生きていようが死んでいようが変わらない。忠告してやる。行くな。それがおまえのためだし、みなのためでもある。イアン・マッカーサーは、エランモアにおれたちを訪ねて来たことのある、捕鯨船の船長と一緒に北海にいて、あと三ヶ月は帰ってこない。やつにとっては、帰ってこないほうが身のためだろうよ。もし帰ってきたら、カトリーン・マッカーサーをわがものと宣言する男と、決着をつける必要があるだろう。おれは、男二人と話をつけねばならないのが、嬉しいわけじゃない。ひとりは実の弟とあってはなおさらだ。おれがいまどこにいるかは、どうでもいい。いまのところ、金はいらない。だが、おれの分はとっておけよ。必要になったとき、いつでも用意ができているようにな。必要となったら、おれは悠長に待ったりしないからな。ちゃんと準備しておけ。おれはいまいるところに満足している。おまえは尋ねるだろう。なぜ兄さんは遠くにいるのか(言っておくが、ここはセント・キルダより北ではないし、キンタイアのマルより南でもない)、いったい何のために、とな。答えはおれと死者のみぞ知る。ひょっとすると、おまえはアンを思い出すこともあるかもしれないな。アンはいま緑の塚の下にいるのを知っているか? マーナス・マッコドラムのことはどうだ? マーナスは海に泳ぎだしていって溺れたことになっている。みなが海豹の血のせいだとひそかにうわさしているので、牧師殿はたいそう憤慨しているそうだが。牧師殿に言わせれば、狂気のせいだと。ああ、おれはその場に居合わせた。おれのフェタンで狂気に追い込んでやったのさ。なあシェーマス、おれがどの旋律を奏でてやったか、おまえにわかるか?

雌伏して時を待つ兄より
グルーム

 よく憶えておけ。おれは〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉を吹かずに済むものなら、そのほうがいい。マーナスにとっては、〈ダーン・ナン・ローン〉を聴いたのが運の尽きだった。あれがやつの運命の歌だった。そしておまえの運命の歌は〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉だ。

 最後まで読み終えると、グルームはアラステルを見つめた。兄のたじろがないまなざしに、グルームは心ならずもひるんだ。
「そうだな」何気ないふうをよそおいつつも、われながらぎこちない調子で、グルームは続けた。「これでシェーマスも、カトリーンと夫婦になりたいなどとは思うまい」
 ゆうに一分かそこらの間、アラステルは沈黙を守った。そしてついに口を開いた。
「おまえがまだ小さかったころ、モーラク婆が言ったことを憶えているか」
「いいや」
「お婆は、おまえの魂は生まれつき真っ黒だと言った。おまえは子供のときからすでに子供ではないとも。愛想の良いうわべと如才のない振る舞いと、さらに如才のない舌で、生きている限りずっと男にも女にも非道をなすと。おまえは不吉な星の下に生まれたのだと言っていた」
 グルームは笑った。
「ああ、おまえもな、アラステル。忘れるなよ。おまえも同じ運命に生まれたのだとお婆は知っていた。おれたちは――おれとおまえは、二人とも昏い星の子供たちだと、そう言った」
「だが、お婆はおれのことは悪く言わなかったぞ。よく知っているはずだ」
「そうか、だったらどうした」
「その手紙をシェーマスにやるな。シェーマスは心からカトリーンを愛している。あの娘のことはほうっておけ。おまえは彼女を愛していないのだろう、グルーム。おまえがあの娘を追い求めれば、彼女は悲嘆と恥を味わうだろう。あくまで手紙を送るというのなら、おれは明日、エランモアに発つ。シェーマスに警告して、一緒にスカイ島のスレイトに行くつもりだ。そして、カトリーンをおまえから守ってやる」
「いや、そんなことにはならないさ。なぜかって? おまえは明日、はるか北のストーノウェイに飛んでいくからさ。ストーノウェイでも、やはりここでと同じように、おまえは皆にアラン・モールと呼ばれるだろうが、ただひとりにとってはアラステル・アハナで、だがたったひとりだけだ、これからずっと永久にな」
 アラステルはあっけにとられて弟を見つめた。
「ばかばかしい、いったいおれに何を企んでいるんだ、弟と呼ぶのも嘆かわしいおまえは」
「おまえに読ませようと手紙を書いたんだ。ずいぶん前に書いたものだが、読めばすっかりわかるだろう。今これを渡してやったら、おれが行ってしまうまで中を見ないと約束するか? おれの姿も、おれの影の影さえも見えなくなるまでだぞ」
「約束する」
「じゃあ、やるよ。それじゃあな、アラステル・アハナ。もし次に会うことがあれば、おまえはおまえの道を外れるなよ、おれもおれの道を行くからな。そうすれば、兄弟の間で血が流れることもあるまい。だがもしもおれの行方を知りたいと言うのなら、おれは海の向こうにいるだろうよ。たぶん、カトリーンか――そうだな、カトリーンか、それとも他のだれかと一緒にな」
 そう言うと、兄に手を差し出すことも目をくれることもせずに、グルームは立ち上がって踵を巡らし、ゆっくりとした、しかし軽やかな足取りで草の生い茂る野原を歩み去った。
 アラステルは弟の姿をじっと見送った。グルームはいちども振り返らなかった。百ヤードほど行ったところで、フェタンを唇にあてがって吹き鳴らし始める。二つの調べが、たがいに追いつ追われるように入れ替わった。妖しいこの世のものならぬ旋律は、アラステルの心に恐怖を呼び起こした。ひとつの調べに、アラステルはアンの嘆きと、海豹の群れに囲まれたマーナスの絶叫を聴いた。そしてもうひとつには、弟のシェーマスとカトリーン、それからもう一人の誰かに忍び寄る災いを。
 消え入る寸前の狂おしい顫音は、もはやダーン・ナン・ローンでもダヴサ・ナ・マラヴでもなく、旋律にひそむ邪悪な魂そのものと思われた。最後のかすかなこだまが絶え、ただ丘辺の冷たく清浄な風が優しいため息のようにヒースの荒野を吹き下ろすばかりになると、アラステルは立ち上がった。手紙は後で、炉端に落ち着いてからでもいいだろう、そうつぶやく。
 身を寄せている家に戻ると、百姓のおかみさんが粥の椀とぼそぼそしたライ麦のパンを出してくれた。
「アラン・モール、それを食べてしまったらさ」肩掛けを頭から被りながら、戸口のところでおかみさんが言った。「悪いけれど、寝床に入る前に泥炭に灰を被せておいてくれないかい。もうだいぶ眠たそうだけどさ」
「ああ、わかったよ」アラステルは優しく言った。「今夜はよそへ行くのかい」
「そうだよ。亭主のラナルドの姉さんが熱で寝込んでいてさ。姉さんの旦那は、うちのと一緒に漁に出てるもんだから、今夜は姉さんのところにいてやろうと思ってね。でもあんたが起きるまでには戻ってくるよ。じゃあよくおやすみ、アラン・モール」
「親切なおかみさん、あんたに神様のお恵みを、それに良い夜をね」
 食事を終え、赤々と輝く泥炭の炎の前に腰を据えると、しばらく物思いにふけったあと、グルームに渡された手紙の封を切った。そしてゆっくりと読み始める。
 数分ののち、取り落とした手紙を、赤みを帯びた砂岩の炉辺から拾い上げた。もういちど、声に出して読み上げる。低く張りつめた声には、凍てついた痛切な嘆きがあった。けっして涙に溶けることのない、ただひとたび咽んだきり凍りついた嘆きが。

 わが兄アラステルよ、忘れはしないだろうが、おまえはエラン・ローナのマーサル・ニヒク・アルヒペンを愛していたな。そしてアルヒペン・マハカルヒペンがマーサルの手をおまえに与えるつもりはないと言ったとき、おまえは出て行って口を閉ざしたのだったな。それはおまえが愚か者だったからだ、アラステルよ。それにマーサルも、そう、彼女もおまえを愚かだと思った。おれは、おまえがああしたのは、それがマーサルの望みだと、マーサルは自分を愛していないと考えたからだというのを知っている。いったいそれがどうしたというんだ。おれは訊きたい、だからなんだというんだ、おまえはマーサルが欲しかったんだろう? 男のために女がいるのであって、女のために男がいるわけじゃない。おまえは詩人だから、教えてやろう。これは大昔からの真実で、おれだけが知っていることではないが、詩人が愛するような女は、詩人に誠を尽くすことはできないのさ。女というものは、みな芯は臆病で、詩人を愛せるほど立派な女なんて、おれもおまえも会ったためしはない。詩人を愛するとは、険しい山道を選んで、百合の咲く楽な谷間を捨てるということだからな。ほんとうによろこんで百合の谷間を後にして険しい山道を行く女など、まず見つけられるまいよ。まあ、まずな。
 ああ、おまえはこう言うんだろう――「女は男よりもずっとよく苦しみに耐え、勇敢だ」とな。おまえがそう言うのを聞いたよ。上げ潮に笛魚が鳴くのを聞いたことがあるが、すぐに潮がもっと高くなった。女たちは勇敢さ、おまえたち詩人が語る女たち、そしておれたち男が決して出会うことのない女たちはな! これだけは言っておこうか。女はいつも愛を求めるが、愛を女は恐れている。そして心の底では詩人を憎んでいる。そうさアラステル、なぜなら詩人は「誠実であれ」と命ずるからな。だが女は誠実にはなれない。恋人に誠実であることはできるかもしれないが、愛に誠実であることはできない。愛はいかなるところにも夜明けと真昼を望むもので、嘘はどこにも隠れられない。だから女は愛を恐れるのだ。
 おれがこんなことを考えるのも、おまえが愛したマーサルと、いつかおまえが女の勇気についてうたった歌のせいだ。もうよく憶えていないが、たしか最後の行は「海の泡」だった。
 いったい何のために。この手紙を読んだら、おまえはそう言うだろう。それはだな、これがおれのやりかただからだ。おまえが女を欲しいと思ったら――もっとも、おまえのような幻ばかりを頭に詰め込んだ老いぼれ馬みたいなやつに、そんな望みが抱けるとは思えないが――女のところに行ってそう告げるだろう。だがおれのやりかたはこうだ。女の誇りと意思の塔の前でおれのフェタンを吹いてやる。思いのままに足を踏みいれられるようになるまで、ぼろぼろと塔が崩れ落ちるのを眺めながら待って、そしてまたフェタンを吹いて、もういちど大声で笑ってやれば、女はおれのものだ。
 だがおまえはやっぱり言うだろうな。なぜこんなことを、と。なあ、憶えているだろう、マーカスもマーサルを愛していたことを。今はマーカスは波の下だ、おまえは言うだろう。そうだ、マーカスは波の下だ。だがこのおれ、グルーム・アハナは違う。そしておれもマーサルを愛していた。ほら、おまえは出て行くとき、マーサルに手紙をやって、決して他の女を愛することはないと書いただろう。あの手紙はマーサルに届かなかった。手紙は今、エランモアの農場とグレイ・ロッホの間の茶色の沼地で、模様の彫られた大昔の黒い岩の下敷きになっている。もういちど、ずっと経ってから、また手紙を書いてマーカスのところに寄こして、マーサルにじかに手渡してくれと頼んだだろう。おれはマーカスが死んだ日、あいつが前の日に着ていた毛織の外套の隠しに手紙があるのを見つけた。あれが今どこにあるかは、おれにもわからない。鴎なら知っているかもな。それとも、ひょっとしたら海の底の蟹どもなら。おまえには言葉があり、おれにはフェタンがある。
 そうさ、おれはエランローナに行った。マーサル・ニヒク・アルヒペンを囲む白い壁の外で、フェタンを吹いてやった。壁が崩れ落ちたところへ入っていって「来い」と言い、マーサルは来た。
 いや、アラステル、おまえだって彼女と一緒になって幸せになれたとは思わないな。あの女は夕暮れにも、夜の闇の中でも、いつも涙を流していた。真っ昼間から啜り泣いていたこともある。美しい娘だが、放浪の生活には馴染まなかった。おれたちはアメリカに渡るためにコールレインに向かっているのだと思っていた。アメリカは遠い――めそめそした女のために行くには遠すぎる路だ。マーサルは、自分に呪いをかけたのだといって、おれを責めた。ちぇっ。おれはかわいいマーサルにフェタンを吹いてやっただけさ。なんにも悪いことなどしちゃいない、そうだろう、アラステル兄さん?
 半年ばかり、あちこちをさまよった。マーサルは英語が話せないから、黙らせておこうと思って、インヴァネスから北東に向かい、吹きさらしの寒村から灰色の石造りの町へと旅して、はるかピーターヘッドやフレイザーバラよりも先まで行った。寒くて、しけた連中ばかりのところだよ。とても奨められないね。でもまあ、行ってみるといいだろう。「選ばれし者」にはふさわしいかもな。ちょっとばかり、冷たい風や火のない炉辺や、つらい旅路に慣れることができるだろう。
 長い、長い手紙になった。こんなに長い手紙を書いたのは初めてだ。書くのは楽しかったよ。ずいぶん時間をかけて、少しずつ、あちらこちらと書き散らしてきたが。そろそろ終わりにしよう。まず言っておこうか。マーサルには飽き飽きした。もう何週間も前からだ。もうすぐ子供が生まれる。彼女はストーノウェイの女商人ベン・マルサンタマハキリャヘン(なかば英語が話されているあそこでの言い方にならえば 〈マクリーン未亡人〉)のところにいる。裁判所のある大通りのすぐ裏を走っている通りだ。子が生まれるまで、マーサルはそこにいるだろう。みすぼらしい、むかつくような臭いのするところだが問題はあるまい。金さえ握らせておけば、カトリーンおかみは面倒見のいい女だからな。おれはたんまりと払っておいてやった。しばらくはもつだろう。ずっととはいかないだろうが、当面は。マーサルは、もうかつてのように見目うるわしいとはいえない。気の毒なことだ、マーサルにとっては。
 エランモアで、最後におれに言ったことを憶えているか? こう言ったよな。「おまえなど塵を喰らえ、グルーム・アハナよ。おまえは死神みたいなやつだ」と。そしておれはこう言ったはずだ。「まあ見ていろ、おれより先におまえが、その塵だかを喰らうことになるだろう」
 そして言ったとおり、塵を喰らったのはおれではなく、おまえだったようだな。おまえの弟、
グルーム

 こうして彼の夢は破れた。来るべき幸い、ありえたかもしれない幸いの夢は。彼はもはや己への報いを夢みはしなかったが、より貴い幸いを願っていた――マーサルの幸福だけを願い、最後には自分であれ他の誰かであれ、彼女の心を勝ち得ることになればよいと。願いはいまや無に帰し、過ぎにし年の草の露と消えた。一度ならず、彼は夢みつつうち震えたものだった。日ごと夜ごとに、彼の愛の野ばらは美と香気をもたらした。多くを望まないようになり、マーサルはすでに誰かと幸せに結ばれ、おそらくは胸をまさぐる赤子の小さな手を感じているのだろうと信じた。彼の愛は、世の常の男の愛とは異なっていた。
 灰になってゆくグルームの手紙から燃え移った真実が胸を灼くのを感じながら、アラステルはうつろなまなざしを燃える泥炭に向けて座っていた。おれはなんと愚かだったのか、そう自分に呟く。なんと愚かな。これほど夢みがちではなく他の男のようだったなら、魂の渇望ではなくもっと肉体の渇望を向けていたなら、マーサルを勝ち得るのはそれほど難しいことではなかっただろう。たしかに高みの斜面に足を踏み入れようとはしなかったとしても、谷間でなら、マーサルはアラステルといるのを厭わなかった。喜びと悲しみの入り混じった気持ちでアラステルは思い返した。たしかにマーサルは自分を愛していた。そしてほんとうのところは、彼が想像から創りあげたのは虹の鳥ではなかった。その翼は人々が経験、あるいは肉体の智慧と呼ぶ苦い水の飛沫を浴びていた。大いなる愛は恋人の瞳の死にゆく星の背後に永遠の星を求め、ちっぽけな人間の心の奥の〈広漠たる夢の領土〉に足を踏み入れる。だが、かくのごとく愛するものはまれだ。マーサルが、そのような大いなる愛の伴侶となるだけの強さを持っているとは考えられなかった。多くの者は手近な安心を愛するものだ。
 一晩中、アラステルは火の傍で悶々とした。夜明けが近づくころ、腰を上げて戸口に立った。空の無限のうつろは数えきれない星々の香煙に満ちていた。さまよう視線を、明けの明星と〈猟犬〉と呼ばれる星々が捉えた。躍り上がる星々は絶え間なく震え、とこしえに光を湧き出させながら、けっしてその流れる炎のような輝きをあふれさせることはないのだった。息詰まるような沈黙が空の深みを支配していた。
 ヒースに覆われた荒野の起伏の向こうからは、ゆったりと寄せ返す海の波に浜の小石が洗われる音が聞こえた。アラステルはしばし真剣に耳を傾けた。姿は見えないながら、列をなす雁の群れが頭上の空を極北の海を目指して渡っていく。寂しげな啼き声が黙した空の端から端へと闇の中に鐘の音をふりこぼしていった。
 沈黙の露のように、心に平安が降りてきた。たしかに、肉の愛より深い愛は存在するのだ。マーサル、ああ、いたわしくも打ち砕かれた心、いまわしくも踏みにじられた人生よ。愛もその傷を癒すには足らないのか、どんな慰めも悩める心に無邪気な安らぎをもたらすことはできないのか、乱れた水面がまったき静けさを取り戻し、昇る月を迎えることもないのか。
 もう彼女は自分を愛してはいないかもしれない。自分が彼女を愛するように自分を愛してくれることは、けっしてないのかもしれない。生を顧みず死にも耳を貸さない、そんなふうには。だが、彼女を自分は愛している。それで十分だ。彼女の悲嘆とそして恥辱を分かち合うことならできるだろう。彼女の望みを自分の望みとし、倦み果てて望むこともできないのなら、その倦怠も我がものとし、倦怠に導かれて天上の安息を求めよう。そして彼女が安息をさえ求めないのなら、安息を夢み希うこともなく、ただ闇雲に彼女を塵にまみれさせた愛を求めて泣き叫ぶなら、そう、それもまた我がこととして受け入れ、甘やかなありうべからざる夢で慰め、彼女の恥を誉れの冠で飾り、自分の愛を涼やかな緑の草のように彼女の足元に敷こう。
「あのひとはすべてを失ったわけではないぞ」そう言い、優しい微笑みを浮かべた。夜明けに発つ準備をしようと室内に向き直りながら、そっと付け加える。「なぜならたしかに、目の見えない鳥の巣は、神がお作りになるのだから」




底本:The writings of "Fiona Macleod" Volume 3 by Fiona Macleod, Duffield & Company:New York, 1910
翻訳:館野 浩美
公開日:2010-03-28
改訂日: 2018-02-28

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