黒い瞳のエーニャ

      

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七つの砦のフィルビス――またの名を白のフィルビスといったのは、肩に流れ落ちる長い白髪と、白癩のごとく蒼白い顔色のためだった――その彼が朱い唇を開いてカーバ・モールの子カーバにむかい、我が娘を娶るがよいと告げた日、黒い瞳のエーニャの姿はどこにも見えなかった。

はじめフィルビスは笑っていた。しかしカーバが顔をしかめて不平を漏らすと、にわかに怒気を漲らせて娘を捜しだせと命じた。

エーニャを見つけたのは長追いのクランだった。それはフィルビスの砦の背後に広がる深い森の奥のことで、傍らには歌い手イーの姿があった。北方の山地の民というほかに、イーの素性は誰にもわからなかった。なぜなら彼は課せられた誓いゲッシュのゆえにつねに仔鹿皮で顔を覆い、切れ目からわずかに眼と口と鼻腔がのぞくばかりであり、誓いを破って仮面を取ることはけしてなかったからである。彼の歌の美しさは比類なく、これに優る歌はアルパにはなかった。彼が琴を奏でるとき、その調べは人々のうえに魔力を及ぼしたがゆえに、彼は 〈緑の琴弾き〉と呼ばれた。人々の間で彼は 〈琴弾き〉より他の名を持たなかった。あるときカーバは衆人の面前で彼を嘲り、誓いは真正のものではあるまい、この男は間者だと言い放った。槍がもたげられ、一迅の風が吹き込んだかのようにいっせいに剣が揺れるなか、イーは静かに立っていた。彼は琴を構えて奏ではじめた。人々が水を打ったように静まりかえると、ふたたび弦に触れ、いにしえより伝わる歌をこのうえもなく美しくうたった。うたい終えたとき、すべての武器は眠りこんでいた。

しかしいま、長追いのクランが見いだした琴弾きは、鹿皮の仮面をはずして緑の苔に横たわっていた。

倒れた樫の枝に黒い瞳のエーニャが身体をのばし、ものうげに枝を揺すっていた。イーを見つめる瞳は輝きに満ちていた。

「我が君、我が王よ」感に堪えぬように漏らす声の胸を騒がす甘やかさに、いまだ年若く夢みがちなクランは身震いした。そのとき、彼女に歌をうたっていたイーの声がふいに途切れた。

クランは背を向けて羊歯の間に屈んだ。しかしイーの耳はすでに物音を聞きつけていた。飛矢が甲高い笛の音を引いて疾り、若者の白い背を貫いて胸の下の樫の根に矢尻を喰いこませた。

イーが近づいて若者を見下ろした。

「矢を射たことが悔やまれる」悲痛な面持ちで言う。「そなたは若く美しい」

「クランだわ」斃れた男の傍らにすばやく寄ってエーニャがささやいた。「長追いのクランです」

「そうだ」血の泡を吐いてクランは答えた。顔を振り向けもしなかったのは、矢柄に縫い留められた身にはかなわなかったからだ。「いかにも、クランだ。そしてこれが私の最後の追跡だ」

「どうかそのままに」琴弾きが槍を構えたのを見てエーニャが小声で言った。「殺さないでください。我が君、イーよ。まだしばらくは息があるかもしれません」

「最期の苦しみを和らげてやるつもりだった。だがエーニャ、そなたの望むとおりにしよう」そして二人は森の奥に姿を消した。

のちほど伝令たちがクランを見つけたが、すでにこと切れていた。日が落ちるころ、フィルビスは枝角の広間の向こうの離れでエーニャが歌う声を聞いた。フィルビスは娘を呼び、明日の朝、おまえはカーバの妻になるのだと告げた。エーニャはなにも言わなかった。ただ、月が昇るころ森のはずれまで忍んでゆき、三度、白梟の声を真似た。

「誰が婚礼の歌をうたうのか」翌朝、麦酒の祝宴が済むとフィルビスは呼ばわった。「琴弾きはどこにいる」

しかし琴弾きの姿を見た者はいなかった。ゆうべ月の出ごろに見かけたが、白い牡馬を駆って北の星々を目指して去って行ったと、そう話した老人がいた。

その日の正午にカーバはエーニャを娶った。花嫁のあまりの美しさに、人々はあやぶむようなまなざしを花婿にむけ、老人たちは恐れに押しつぶされて黙って座っていた。

「私のためにうたってくれ」カーバが言った。

エーニャはうたった。それは愛の歌だった。花嫁が浮き彫りのある小さな金の竪琴を置くと、花婿は笑って額の髪をかきあげた。

「俊足のカーバよ、なぜ笑うのですか」

「そなたが、みずからは意味を知りもせぬ歌をうたったからだ。だがまあ、そなたがうたったとおりになればよいものだ」

エーニャは身をかがめてふたたび竪琴をとりあげた。身を起こしたとき、その瞳に炎が点った。彼女はふいに笑い声をあげた。

「黒い瞳のエーニャよ、なぜ笑うのだ」

「歌い手イー、王者イーがここに、妻である私を迎えに来たからです」

カーバは弾かれたように立ち上がった。しかし狼皮の紐を巻きつけられ、身に帯びた金の柄の短剣の鞘を払う間もなく手足を縛められた。

イーはカーバの上に身をかがめて彼を宙に持ち上げると、さきほどまでエーニャが身を横たえていた鹿皮に投げ落とした。

「そなたには花嫁の新床をやろう」イーはからかうように言った。「花嫁は私がもらう」

館の外の剣戟と槍の触れ合う音、人々の嘆きの声と怒号が止んだ。丘の民はごく少数で、さもなければ砦は焼け陥ちていただろう。フィルビスは和議を呼びかけ、黒い瞳のエーニャを連れて立ち去るようイーに告げた。

このようにして丘の王イー、歌い手イー、誇り高きイーは愛するエーニャを勝ち得た。

だが彼は愛に溺れた。王たる身にふさわしいことではなかったが、イーは詩人であり、どんな夢にも優る夢を手に入れたのだった。

丘の邦々の上王アルトリーが没した日、誇り高きイーのもとに伝令がやってきた。イーが上王に選ばれたのだった。エーニャに知らせを告げようと捜したが、森かあるいは丘にでもいるのか見つからなかった。しかたなく王は愛するエーニャには会わずに東へとむかった。

上王の砦に滞在するイーのもとに、カーバがイーの砦を襲い、黒い瞳のエーニャを虜として連れ去ったという知らせがもたらされた。

一夜と一日のうちに王は自身の領土に戻った。誇り高きイーの呼びかけに応えて丘の民が続々と集まった。山あいを出たところで軍勢はカーバの戦士や捕虜たちに追いついた。こうして丘の辺の戦いが始まった。

      

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