七つの砦のフィルビス――またの名を白のフィルビスといったのは、肩に流れ落ちる長い白髪と、白癩のごとく蒼白い顔色のためだった――その彼が朱い唇を開いてカーバ・モールの子カーバにむかい、我が娘を娶るがよいと告げた日、黒い瞳のエーニャの姿はどこにも見えなかった。
はじめフィルビスは笑っていた。しかしカーバが顔をしかめて不平を漏らすと、にわかに怒気を漲らせて娘を捜しだせと命じた。
エーニャを見つけたのは長追いのクランだった。それはフィルビスの砦の背後に広がる深い森の奥のことで、傍らには歌い手イーの姿があった。北方の山地の民というほかに、イーの素性は誰にもわからなかった。なぜなら彼は課せられた
しかしいま、長追いのクランが見いだした琴弾きは、鹿皮の仮面をはずして緑の苔に横たわっていた。
倒れた樫の枝に黒い瞳のエーニャが身体をのばし、ものうげに枝を揺すっていた。イーを見つめる瞳は輝きに満ちていた。
「我が君、我が王よ」感に堪えぬように漏らす声の胸を騒がす甘やかさに、いまだ年若く夢みがちなクランは身震いした。そのとき、彼女に歌をうたっていたイーの声がふいに途切れた。
クランは背を向けて羊歯の間に屈んだ。しかしイーの耳はすでに物音を聞きつけていた。飛矢が甲高い笛の音を引いて疾り、若者の白い背を貫いて胸の下の樫の根に矢尻を喰いこませた。
イーが近づいて若者を見下ろした。
「矢を射たことが悔やまれる」悲痛な面持ちで言う。「そなたは若く美しい」
「クランだわ」斃れた男の傍らにすばやく寄ってエーニャがささやいた。「長追いのクランです」
「そうだ」血の泡を吐いてクランは答えた。顔を振り向けもしなかったのは、矢柄に縫い留められた身にはかなわなかったからだ。「いかにも、クランだ。そしてこれが私の最後の追跡だ」
「どうかそのままに」琴弾きが槍を構えたのを見てエーニャが小声で言った。「殺さないでください。我が君、イーよ。まだしばらくは息があるかもしれません」
「最期の苦しみを和らげてやるつもりだった。だがエーニャ、そなたの望むとおりにしよう」そして二人は森の奥に姿を消した。
のちほど伝令たちがクランを見つけたが、すでにこと切れていた。日が落ちるころ、フィルビスは枝角の広間の向こうの離れでエーニャが歌う声を聞いた。フィルビスは娘を呼び、明日の朝、おまえはカーバの妻になるのだと告げた。エーニャはなにも言わなかった。ただ、月が昇るころ森のはずれまで忍んでゆき、三度、白梟の声を真似た。
「誰が婚礼の歌をうたうのか」翌朝、麦酒の祝宴が済むとフィルビスは呼ばわった。「琴弾きはどこにいる」
しかし琴弾きの姿を見た者はいなかった。ゆうべ月の出ごろに見かけたが、白い牡馬を駆って北の星々を目指して去って行ったと、そう話した老人がいた。
その日の正午にカーバはエーニャを娶った。花嫁のあまりの美しさに、人々はあやぶむようなまなざしを花婿にむけ、老人たちは恐れに押しつぶされて黙って座っていた。
「私のためにうたってくれ」カーバが言った。
エーニャはうたった。それは愛の歌だった。花嫁が浮き彫りのある小さな金の竪琴を置くと、花婿は笑って額の髪をかきあげた。
「俊足のカーバよ、なぜ笑うのですか」
「そなたが、みずからは意味を知りもせぬ歌をうたったからだ。だがまあ、そなたがうたったとおりになればよいものだ」
エーニャは身をかがめてふたたび竪琴をとりあげた。身を起こしたとき、その瞳に炎が点った。彼女はふいに笑い声をあげた。
「黒い瞳のエーニャよ、なぜ笑うのだ」
「歌い手イー、王者イーがここに、妻である私を迎えに来たからです」
カーバは弾かれたように立ち上がった。しかし狼皮の紐を巻きつけられ、身に帯びた金の柄の短剣の鞘を払う間もなく手足を縛められた。
イーはカーバの上に身をかがめて彼を宙に持ち上げると、さきほどまでエーニャが身を横たえていた鹿皮に投げ落とした。
「そなたには花嫁の新床をやろう」イーはからかうように言った。「花嫁は私がもらう」
館の外の剣戟と槍の触れ合う音、人々の嘆きの声と怒号が止んだ。丘の民はごく少数で、さもなければ砦は焼け陥ちていただろう。フィルビスは和議を呼びかけ、黒い瞳のエーニャを連れて立ち去るようイーに告げた。
このようにして丘の王イー、歌い手イー、誇り高きイーは愛するエーニャを勝ち得た。
だが彼は愛に溺れた。王たる身にふさわしいことではなかったが、イーは詩人であり、どんな夢にも優る夢を手に入れたのだった。
丘の邦々の
上王の砦に滞在するイーのもとに、カーバがイーの砦を襲い、黒い瞳のエーニャを虜として連れ去ったという知らせがもたらされた。
一夜と一日のうちに王は自身の領土に戻った。誇り高きイーの呼びかけに応えて丘の民が続々と集まった。山あいを出たところで軍勢はカーバの戦士や捕虜たちに追いついた。こうして丘の辺の戦いが始まった。