バロールの息子は喜びの炎とふたりで石榴の森に座っていた。真昼どきであたりは静まりかえり、ただ、ときおり弱い風が枝のあいだをそっと吹きぬけ、喜びの炎とバロールの息子が交わす言葉に耳を傾けた。
「きみは運動をするべきだと思うよ、だんぜんそうすべきだ」喜びの炎が言った。
「ぼく、いつもごはんを残さず食べるんだ。一の侍従が、それがぼくの王国に対する務めだって」バロールの息子は言った。
「ぼくはごはんの話はしてないよ。きみは食べすぎだ。きみに必要なのは、なにか痩せて格好よくいられるようなこと、たとえば走ったり、跳ねたり、虹宙返りをしなくちゃ」
「やりかたを知らないもの」
「そうか、このへんには虹がないからなあ、あれば見せてあげるんだけど。あそこ、陽の光が斜めに射しているのを見て。駆けあがるのにぴったりだ。ぼくをよく見ていて!」
たしかに、二本の石榴の枝のあいだに、斜めに陽の光が射していた。喜びの炎は身軽に光の上に跳び乗り、枝のあいだを駆け登った。すぐに彼の姿は見えなくなった。そのまま駆けつづけて空に消えてしまうつもりだろうかとバロールの息子が考えていると、ふいに別の二本の枝のあいだから斜めに射した光を滑り降りて、近くの苔の上に勢いよく着地した。
「いい運動だった」喜びの炎は言った。
「ぼくは陽の光を駆けあがったりしないよ」バロールの息子は言った。
「じゃあ、もっと簡単なことから始めてみたら。風みたいに走ってみたらどうかな、地面のちょっと上を走るんだ。こんなふうに」
喜びの炎は大きく息を吸って地面から跳び上がり、ふんわりした苔や星のように散らばるほっそりとした百合の花を踏みつけることなく、その上を走った。
見ていると胸が躍って、バロールの息子は歓声をあげた。喜びの炎はバロールの息子の脇をかろやかに駆け抜け、とおりすぎざま彼に手を伸ばした。
「おいで。大きく息を吸って、ぼくといっしょに走るんだ!」
バロールの息子は深呼吸して喜びの炎の手を固く握りしめ、いつのまにか自分が百合の頭を踏みつけることなく、その上をかろやかに走っているのに気づいたが、ふいに喜びの炎が苔のクッションめがけて跳び降りたので、ひっぱられて隣に落っこちた。
「初めてにしては悪くないね」喜びの炎は言った。「あとは練習だ。きみがうんと練習したら、ほかにもいろんなことを教えてあげるよ」
「もういっぺん走ってみてもいいよ」バロールの息子は言った。「手を貸して」
「だめだ。こんどはひとりでやらなきゃ。大きく息を吸って跳んで」
バロールの息子は深呼吸して地面から跳び上がった。何歩か走って「見てよ」と叫ぼうとしたところで、いきなりがくんと落ちて、額を打ちつけた。とっさに泣きわめくのを我慢したのは、こんなときいつも一の侍従が「威厳をもって」と言うのを思い出したからで、彼はおもむろに座りなおすとこう言った。
「今日はもうじゅうぶんに運動した」
「それっぽっちの運動、お話にもならないよ。ぼく、おもしろいこと思いついたんだ。きみの国に行こうよ、
「麒麟は乗るものじゃないよ。神聖な獣だもの。ぼくらの肉をごっそり噛みちぎるかも」
「姿を見えなくすれば、それに勇気を出して手綱をかければだいじょうぶさ。隠れマントが二枚ある場所を知っているんだ。借りてくるから、麒麟をつかまえに行こう」
「きみがそうしたいんなら、麒麟に手綱をかけたらいいよ。ぼくは麒麟には乗らない」
「いや、きみは乗るさ、マントを渡されたらね。ぼくが戻るまで、ちょっとそこの木に寄りかかって、苔に落ちた葉っぱの影でもかぞえていて」
喜びの炎は、行ったと思うともう帰ってきた。手にした二枚のマントは蜘蛛の巣のように繊細で、昼と夜のあらゆる色にきらめいていた。喜びの炎は一枚を自分で羽織り、もう一枚をバロールの息子に着せかけた。
「手を貸して眼を閉じて、麒麟のことだけ考えていて、ぼくが風走りで連れていくから」
バロールの息子が手を伸ばし、眼をつむると、走っているような、というよりは風に飛ばされる葉っぱみたいにかろやかに漂っている感じがした。すぐに、下のほうにざわめきが聞こえ、大勢の人の気配がした。喜びの炎が、握った手に力を込め、バロールの息子を軽く引き寄せて言った。
「着いたよ」
バロールの息子は眼を開いた。マントを着た喜びの炎はとても立派に見え、あらためて自分の姿をたしかめると、こちらも立派なものだった。けれど、ほかの人にはふたりの姿が見えていないのはあきらかだった。バロールの息子ははじめ、まわりにこんなにたくさんの熱心な観客がいるのに、自分を見てもらえないのが残念な気がした。ふたりがいるのは、バロールの都の中央広場だった。バロールの輿が見え、まわりを貴族や奴隷が囲んでいた。広場はどこを見てもフォモールの貴族や戦士だらけだった。魔法使いたちが、クルアハンの猫に敬意を表すために神聖な獣の行列を率いて進んでくる。クルアハンの猫は、それはもうおおいに崇め奉られるべき存在だった。クルアハンの猫を祀るヒヤシンス石と玉髄の神殿は、広場のひとつの辺まるごとを占領し、どんよりした空に見せつけるようにそびえていた。神殿はいくつもの円屋根を戴き、いくつもの小塔に飾られており、どの塔も銀を叩いて延ばしてつくられたうえに孔雀石が嵌めこまれ、どの円屋根も赤い黄金でできていた。
金の首輪と鎖につながれた獣たちが、つりあがった眼をした黒衣の魔法使いたちに引かれて通る――マロコットは大きな図体でのっそりと歩き、耳を地面に引きずっており、双頭のスァニトスは雪の白さ、グリフォン、炎を吐く竜、鱗のあるキマイラ、二頭ずつ組になって歩く麒麟、青い麒麟の隣に緑の麒麟。広場の真ん中でひときわ豪華に目立っているのが、宝石と黄金をちりばめたバロールの輿だった。そこに座るバロールはなにも見ていない――なぜなら、バロールが額の真ん中にひとつだけついた恐ろしい眼を開くことはないからだ。その眼は都を壊し、軍隊を滅ぼす力を持っている。その眼は稲妻よりもすばやく殺す。バロールは輿に座り――なにも見ないまま――獣たちは彼の前を二頭ずつ引いてゆかれる。バロールが獣たちに手をかざして唱える。
「おまえたちにわが祝福を。力と誇りと永い命を。喜びをなせ、クルアハンの猫の祭に喜びをなせ!」
「ねえバロールの息子、いまあそこに二頭の麒麟が来るだろ、しっぽと牙が金色でたてがみが黒いやつ。ぼくら、あれに乗るよ。あれがぼくらの前に来たら準備して。きみは緑の麒麟を捕まえて。ぼくは青いのを捕まえるから」
「あの鉤爪、見てよ。あの歯を見てよ! ぼくらなんか、ひと呑みにされちゃうよ」
「そんなことにはならないよ。きみにはまだ言ってなかったけど、いいものがある。アンガスの喜びの庭の近くにある榛の森から、榛の杖をふたりぶん持ってきたんだ。この杖で麒麟をぶてば、やつらはおとなしくなるよ」
「ぼく、まっさきに麒麟をぶつことにする」
「そんなことしたら、楽しみがだいなしだ」
「ぼくはきみの麒麟を見てるだけでじゅうぶん楽しめるよ」
そうこうするうちに麒麟が目の前にやってきた。バロールの息子は手を伸ばして緑の麒麟を榛の杖でぶった。獣はびっくりして立ち止まり、身動きもしなくなったので、バロールの息子はおそるおそるその背中に登り、黒いたてがみを握って、さっそく獣の頭と眼のところをマントの端でくるんだ。喜びの炎は榛の杖を腰帯に差すと、青い麒麟の背に跳び乗った。
金切り声とともに獣は棒立ちになった。鉤爪の生えた前足で宙を掻きむしり、ひどく苦しんでいるように跳ねたり身をよじったりした。
「杖でぶつんだ」バロールの息子は言った。
「いやだ。ぼくはこいつに手綱をかける」喜びの炎は叫び、みごと、獣のかっと開いた口にマントの端を噛ませて手綱にした。
青い麒麟はぐるぐると目も回る勢いで身体を揺らし、甲高い声を放っては、あたりの人や物をなぎ払った。獣のお目付役の僧侶たちは、黄金の鎖をほうって逃げ出した。いたるところで人が叫び、逃げ出した。ごったがえした広場は、海の波が盛り上がっては崩れるような騒ぎだった。
解き放たれたスァニトスとグリフォンは爪をふるい、引き裂いた。マロコットは脚を踏み鳴らし、いなないた。キマイラはのたうち、打ち壊した。そのあいだもずっと青い麒麟は吼え声をあげて回転していたが、ふいに、噛ませたマントの端がおたけびをあげる口からはずれて、頭をすっぽり覆ってしまった。激怒した獣は固まり、吼えるのもやめた。まわりの人たちは、この隙にふたたび獣に近づいた。
「麒麟の頭がないぞ!」人々は叫んだ。「聖なる麒麟は二頭とも頭がないのに生きている! 魔法使いのしわざだ! 邪悪な魔法使いがいるぞ! 姿を隠してうろつく奴がわれわれを滅ぼしに来た! 攻撃だ! われわれはおしまいだ。バロールの都に破滅がやって来た!」
「バロールに眼を開けていただき、敵を倒してもらおう!」だれかが大きな声で言った。
「だめだ、だめだ」ほかの者たちは必死に叫んだ。「それこそ最悪の破滅だ、焼き尽くす炎だ! バロールの眼を前にしては、われわれは灰と火の粉になるばかりだ。クルアハンの猫に、大いなる者に請い、われわれを救ってもらおう!」
「クルアハンの猫に請え、クルアハンの猫を呼べ」いたるところで声があがった。「地に伏せよ。衣を掻き破れ。クルアハンの猫に請え!」
人と獣の叫び声より大きく銅鑼の音が鳴りわたり、混乱を鎮めた。
バウン――バウン――バウン――バウン――
僧侶の長が猫の神殿のなかで銅鑼を鳴らしているのだ。銅鑼の音に合わせて、僧侶たちがあちこちから声をあげて唱和した。
大いなるクルアハンの猫よ
聞きたまえ
救いたまえ
守りたまえ
聖なる獣を守りたまえ
聞きたまえ、クルアハンの猫よ!
聞きたまえ
救いたまえ
守りたまえ
聖なる獣を守りたまえ
聞きたまえ、クルアハンの猫よ!
「聞きたまえ!」群衆が叫んだ。「聞きたまえ、クルアハンの猫よ! 救いたまえ! 守りたまえ! 聞きたまえ! 聞きたまえ! 聞きたまえ!」
バウン――バウン――バウン――バウン――
ふいに空気が震えた。空が膨らみ、天幕の垂れ布のようにばたついた。山の根をも揺り起こす轟音が響き、その轟音のなかから、なにもないところから、瞬く間にクルアハンの猫があらわれた。とてつもなく大きい。その輝きはおそるべきものだった。引き裂かれた旗やひっくり返った輿の散らばるなか、猫は目も眩むほど神々しくきらめいた。
「クルアハンの猫! クルアハンの猫!」群衆は叫び、ひれ伏した。
「もうおしまいだ」喜びの炎が小声で言い、麒麟の背中で身体を丸めてしゃがんだ。「クルアハンの猫にはぼくらが見えるんだ。妖精界の者だから」
バロールの息子は、もっとマントに隠れようと縮こまり、喜びの炎を真似してしゃがんだ。
流星の速さで猫が近づいてきた。頭をひと振りして喜びの炎を背に投げあげる。もうひと振り、するともうバロールの息子も猫の背の上だった!
そして猫は力づよい胴体を伸ばし、大きな弧を描いて宙に跳んだ。この跳躍でサーベルのように尖った不毛の山脈を越え、バロールの国をとり巻く毒の海を越えた。
ふたたび猫は力づよい胴体を伸ばし、大きな弧を描いて宙に跳んだ。この跳躍でハルモトラサンを越えた。この黒曜石の山は世界の半分に影を落とし、月の暗い光を一身に集めている。
みたび猫は力づよい胴体を伸ばし、大きな弧を描いて宙に跳んだ。この跳躍でゴルミドンを越えた。この玉髄の山は星々に向かって花開き、月の明るい光を一身に集めている。
四度めの跳躍で、銀のユニコーンの山フロンディサンデを越えた。月はゆったりとした足どりでこの山を歩き、空にかかっていない夜は、ここを散歩して過ごすのだった。
この山を越えると、そこはもうクルアハン、猫の支配する国だった。クルアハンの猫は肉球のある足の指の股を広げ、鎌のように鋭い鉤爪でうれしそうに地面をばりばりとひっかいた――いかにも猫らしいしぐさで、自分の国への愛情を表しているのだ。それから大きな頭を下げたので、喜びの炎とバロールの息子は、手を握り合ったまま地面に転がり落ち、情けない顔で身を縮めて、ひとかたまりになっていた。
「あのような騒ぎを起こしたわりには、おまえたちは小さく無邪気に見えるな」猫は言った。
「地面がぽっかり割れたらいいのに」バロールの息子は言った。「それで、麒麟なんか、みんな呑みこまれちゃえばいい、そうなればいいんだ!」
「おまえは聖なる獣に無礼をはたらいた」猫は言った。「獣たちはわたしの守護下にある。これは侮辱だ」
「麒麟に無礼をしなければよかった。ぼくなんか生まれなければよかった。ほんとに!」バロールの息子は言った。
「ぼくが麒麟に乗せたんです」喜びの炎が言った。「彼は乗り気じゃなかった。ぼくが考えたいたずらなんです」
「ああ、おまえたちふたりのいたずらだ、そしておまえは、プーカといっしょに常若の国を走り回っている奴だな。どうしてフォモールの国に悪さをしようとしたのだ。どうしてそんないたずらを思いついた?」
「ぼくたち、運動が必要だったんです」
猫はしばらく喜びの炎を真剣に見据えた。そして言った。
「ときには、わたしだって運動を必要とする。おまえたち、おまえとバロールの息子に許しを与える。クルアハンから自力で帰るがいい。運動になるだろう、たっぷりいい運動に」
喜びの炎は身体を投げ出し、地面に額をこすりつけて叫んだ。
「おお、ふたつの世界の宝石よ、太陽に愛される力づよい王よ、森の栄光よ、天国のあらゆる星に慕われる者よ、ぼくたちを見捨てないでください! ぼくたちは銀のユニコーンの山を生きては越えられません」
「ハルモトラサンとゴルミドンなら越えられると思うてか?」猫は訊ねた。
「試してみようと思っております」
「ああ、いやだよ」やっぱり身を投げ出して額を地面にすりつけていたバロールの息子は、べそをかいた。「いやだよ、試してなんかみないよ。偉大なクルアハンの猫、ぼくらには山は越えられない。ああ、ぼくはうちへ帰りたいんだ」
「おまえたちふたりのうち、知性のひらめきを多く持っているのはどちらだ?」
バロールの息子は座りなおしてクルアハンの猫を見つめた。喜びの炎もそれにならった。
「知性って?」バロールの息子は訊ねた。
「おまえたちがここにいなかったとしたら、どこにいる?」
「うちに」バロールの息子は答えた。
「ほんとうにそうかな。広場の群衆に踏まれて見分けもつかぬ姿になっていたかもしれん。あるいは、麒麟に八つ裂きにされるか、キマイラの角にかかって月への道の半分まで放り投げられるか」
「ぼくになにか訊ねてみてください」喜びの炎が言った。
「そうしよう」猫は言った。「探さないのに見つかり、探しても見つからない、厄介払いできないから共にゆく、それはなんだ?」
「考えてみます」喜びの炎は言った。
「ぼく知ってる」バロールの息子は言った。「夜にぼくがさびしくなると、一の侍従が教えてくれるなぞなぞに似てる。なぞなぞには、たったひとつの正しい答えがあるんだ」
「これはなぞなぞだ。おまえたちのうちどちらでも、答えられたら、銀のユニコーンの山の向こうへ連れていってやろう」
「探さないのに見つかるものはなにか?」喜びの炎がくりかえし、頭を抱えこむと、座ったまま前後に身体を揺らした。「見つかるもの――ひょっとしてプーカかな、いつも思いもしないところで会うから」
「プーカではない」猫は言った。
「風だろうか」喜びの炎は言った。
「風ではない」
「ぼくわかるよ」バロールの息子は叫んだ。「答えを知ってる。前に一の侍従が言ってたなぞなぞに似てる
『森に行ったらついてきた
座って探してみたけれど
見つからなくて
いっしょに家に帰ってきたものはなに』
座って探してみたけれど
見つからなくて
いっしょに家に帰ってきたものはなに』
このなぞなぞの答えを知ってるよ。正解はこうさ、
『足に刺さった棘!』」
「運が向いているな」猫は言った。「一の侍従はもういちどおまえの姿を拝めるかもしれん。おまえはわたしのなぞなぞに答えた。おまえたち、わたしの背中に乗ってしっかりつかまれ、そうしたらゆくぞ」
くりかえして言われるまでもなかった。ふたりは喜んで絶対安全な背中に登った。
「しっかりとつかまっておれ」猫は言い、すばらしい跳躍で宙へ飛び出し、ユニコーンの山を越えて玉髄の山の一番高い峰に降り立った。
喜びの炎とバロールの息子が猫の背から見渡すと、どこまでも山がつづいているように見えた。山の横腹はアメジストの薄紫と
「山を越えるのに良い考えはあるのかね」猫は言った。
「ぼくは風走りができます」喜びの炎が答えた。「バロールの息子も、ぼくが手を握っていれば。ぼくらは風走りで山が尽きるところまで行こうと思います」
「道のりは長いぞ」猫は言った。「だが、風走りはいい運動だ。わたしの背に立って走りだせ」
ふたりは猫の広い背中で立ち上がった。
「クルアハンの高貴な猫、ふたつの世界の宝石よ、ぼくらを助けてくださってありがとうございます。あなたの影が――ひとつの世界では金色で、もうひとつの世界では黒檀の色をしたその影が――薄くなることがありませんように!」喜びの炎が言った。
「風がおまえたちをかろやかに運んでゆくように」クルアハンの猫が言った。
「ほら」喜びの炎が言った。「手を出して。息を深く吸って。眼を閉じて――さあ行くよ!」
バロールの息子は差し出された喜びの炎の手を固く握り、大きく息を吸い、眼を閉じ、ふたりして猫の背から跳んだ。
ふたりは風走りで駆けていた。ふたりは風走りで玉髄の山の上を駆けていた!
すばらしい速さでふたりは駆けた――速く、速く、もっとうんと速く。
すばらしい風走りだった。喜びの炎は大股に足を伸ばし、バロールの息子はせいいっぱい力と心を合わせた。
ふたりはすばらしい風走りの選手だった。速く、もっと速く。玉髄の山を風走りで駆けてゆく!
バロールの息子には、何時間も――何日も――何年も駆けつづけている気がした。はじめは、自慢で鼻が高かった。自分の身体が軽くて気がしっかりしているのがうれしかった。冒険が楽しかった。けれどあまりに長い年月が過ぎた。夜食の時間と火をともされたろうそくのことを考えた。柔らかい枕、そして暖かいかけぶとんのあるベッドのことを考えた。一の侍従のことを考え、腹をたてながら心配しているだろうと思った。一の侍従のことを考えると元気が出た。ともだちの
そのうちにもう眼を閉じていられなくなった。彼はちらりと眼を開けた。下のほうに玉髄の山がきりもなく流れていった――小川のように、早瀬のように、滝のように、大海のように。深い谷から立ち上がる峰は波頭だった。谷底は波の下の空洞だった。白と紫の山は複雑な模様を描いてうねる海底だった。バロールの息子は恐ろしさに捕らわれた。心臓がねじれた。
「落ちちゃう」彼は叫んだ「山に吸いこまれる。ねえ喜びの炎、ぼくを掴んで、しっかりつかまえてよ!」
喜びの炎がしっかりと彼を掴み、ふたりはいっしょに落ちていった。したたかに身体を打ちつけたものの、打ったところをさするひまもなかった。ふたりが落ちたところ、山の斜面は氷のようになめらかでつるつるだった。ふたりは滑りに滑りに滑って――たがいにしがみついたまま滑っていった。しばらくすると、青く突き出た岩に当たって止まった。なんとか気をとりなおすと、ふたりは立ち上がろうとあがいた。
「もういちど風走りしないと」喜びの炎は言った。「それもすぐに! ぼくにしっかりつかまって、深呼吸して、跳ぶよ!」
「深呼吸できないよ――だめ――だめだよ」バロールの息子はべそをかいた。「息をすると苦しくて。足が痛い。ああ、足が滑りそう――落ちちゃう。また落ちちゃうよ!」
「しっかりして!」喜びの炎は叱った。「ちゃんと足は地面に着いてるよ。やってみれば跳べるよ。ほら、大きく息を吸って――身体を軽くするんだ」
バロールの息子は大きく息をしようとしたけれど、どれだけがんばっても跳べなかった。身体を軽くすることはできなかった――風走りできなかった。
「ああもう」喜びの炎は言った。「麒麟のことなんて思いつかなければよかった。ぼくたち、きっとこの山で終わりを迎えるんだよ」
「ねえ喜びの炎」バロールの息子が声をあげた。「ぼくをおいていかないで。きみは風走りできるけど、ぼくをおいていかないでよ――ぼくをおいていかないで!」
「だれがきみをおいていくなんて言った? 落ち着いて、ちょっとは静かにしたまえ。いま、歩いたらどれくらいかかるか考えてみるから」
喜びの炎はあたりを睨んだ。どの方角にも高い峰がそびえ、まわりをすっかり囲んでいる。あるのは山と空――空と山だけ。ふたりがいるのは透きとおった石の土地だった。陽のあたるところは半透明のアメジストと空の青の色で、影になったところはスミレと野生のアヤメの濃い紫色に沈んでいる。小枝や草の葉もなく、ただところどころで、石の広い範囲が霜の花に覆われているように見えた。
「裸足で行けば滑らないかも。靴を脱いで」喜びの炎が言った。
バロールの息子は突き出た岩のくぼみにしゃがんで、豪華な毛皮の縁取りと刺繍のある靴の紐を慣れない手で不器用にほどきはじめた。
「足を怪我するくらい尖った石ばかりのところがあったらどうする?」バロールの息子は訊ねた。
「それは我慢するしかないよ、ほかのどんなことだって。どうしようもないもの」
「ねえ喜びの炎」バロールの息子は手を休めて言った。「きみは風走りできる」
「だったらどうだって言うんだ、きみはできないのに」
「きみは自分の国に帰ったらいい。アンガスを連れてここに戻ってきて。ぼくはきみが戻ってくるまで、ずっとこの岩の蔭で待っているよ」
「アンガスを確実に見つけられる者なんていない。アンガスは世界中を気ままに歩き回っているから。それに、こんな広大で荒れ果てたところで、どうやったらもういちどきみを見つけられる?」
バロールの息子は天を仰ぐと、断固として盛大な泣き声をあげた。
「ぼく歩けない。この岩のほかは、どこもかしこもガラスみたいにつるつるなんだもの」
「ぼくが先に行くから、つかまっていいよ。ぐずぐずしている時間はない。さあ」
輿に乗せられ、奴隷に世話を焼かれるのに慣れたバロールの息子は、歩くことがほとんどなかった。裸足で釣り合いを取るのは難しく、最初の一歩を踏み出すがはやいか、つまずいて喜びの炎にしがみついた。喜びの炎はよろめいたが、身が軽いおかげで、かろうじて姿勢をたてなおした。
「気をつけてよ」喜びの炎が言った。「でないと、この斜面を四つん這いで降りていくはめになる」
案の定、いくらも経たないうちにそのとおりになった。ただし、四つん這いではなく、滑り落ちていくのだった――速く、もっと速く、もっともっと速く!
今度ふたりの落下を受け止めたのは、岩角ではなかった。なにか温かく、柔らかく、毛の生えたものだった。それはクルアハンの猫の肉球のある大きな足だった。
山の水晶とアメジストの色を背景に、混じりけのない金色に映える猫は、裂け目の走る斜面にながながと身を伸ばして寝そべっていた。
「地上も海も同じ速さで進み、乗り手はなく、走った跡も残さないものはなにか?」猫は言った。
「マナナーンの白い馬」即座にバロールの息子が答えた。
「マナナーンの馬には乗り手がいる」猫は言った。
「風かな」とバロールの息子。
「風ではない」
「ぼく知ってる」喜びの炎が言った。「よく見るよ、丘の斜面から湖へ滑っていく。それは雲の影だ」
「しっかり見ていたな」猫は言った。「おまえはなぞなぞに答えた。ハルモトラサンの山を越え、その先まで連れていってやろう、石を投げれば石榴の森に届くところでおまえたちを降ろしてやるつもりだ。わたしの背に乗れ」
ふたりは猫の背に登り、嬉々として首根っこにつかまった。
猫はのんびりした足どりで、長い裂け目が青紫色から底知れない暗黒に落ち込んでいるところに近づいた。裂け目の縁に足を掛けて力を溜め、どんな距離も無にしてしまう、力づよい跳躍で巨体を宙に躍らせた。
足が地についたとき、そこは石榴の森のはずれだった。ルビーの色をした実に混じるように、低く太陽がかかっていた。午後も遅い時間だった。
猫はバロールの息子と喜びの炎をそっと背から降ろした。ふたりは息つく間もない移動と戻ってきたことが嬉しくて、言葉も出なかった。
「おまえたちふたりにわが祝福を」クルアハンの猫が言った。「聖なる獣をいじめるでないぞ。目上の者の言うことを軽んじてはならぬ。良い子でいれば楽しく暮らせるだろう。さらばだ」
一瞬にして猫は消えた。
「あんなに急に行ってしまうなんて」喜びの炎が言った。「お別れのあいさつを考えていたのに」
「それは心にしまっておいたら」バロールの息子は言った。「そしたら、いつかプーカがあわててどこかへ行こうとしたときに使えるじゃないか」
「きみは、わきまえってものがないんだね。クルアハンの猫にはふさわしい讃辞でも、プーカには馬鹿にしているのと同じだよ」
「讃辞って?」
「いいかいバロールの息子、これ以上なにか訊かれたら、ぼくは草に寝転がってくたばっちゃうからね。きみは、宮殿に戻ったら一の侍従と二の侍従とそのほかみんなに、なんて言い訳するか考えておいたほうがいいよ」
「ぼくはなにも言わないよ。きみと会ったあとはなんにも言わない。このごろは、どこに行っていたのかとか訊かれないんだ、ぼくが不機嫌になるから。一の侍従はぼくを怒らせないようにしてる――怒るのはぼくの身体によくないんだって。二の侍従と、庭園に隠れがでも見つけたんだろう、てきとうに話を合わせておくのがいいって話していたよ」
「でも、麒麟や広場でのことを訊かれるだろう?」
「ぼくは隠れマントにくるまっていたもの。きみはきみのマントを着てたよね」
「きみって賢いねえ、マントのことは忘れてたよ、ぼくらまだマントを羽織ったままじゃないか。きみのを返してもらうのを忘れるところだった。さあ返して。じゃあ――ぜったいないしょ!」
「ぜったいないしょ」バロールの息子はきっぱりと言い、バロールの庭園の壁に以前に見つけた魔法の破れ目に向かって歩きだした。