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それは木曜日のことだった。月は満ち、サンザシは花盛り。鳥たちが岡辺に歌っていた。おりしも日暮れ時、夕日のとろけるような金の光が緑の野に長々と横たわっていた。
ショーン・アプ・シェンキンは農場の内庭の門のかたわらに立ち、物思いにふけっていた。あの夕日には何かがありはしないか、鳥たちの飛ぶ空には旋律が流れていはしないか、それとも何か――どうにかして、あれらを歌のひとくさりにできないものか。そのとき、豚どもがいっせいに金切り声をあげた。おれたちの夕飯の時間だと主張しているのだ。淡い黄色の壁の母屋から、女房のグウェンノがバケツを提げて出てくると、飼い葉桶を満たしにやってきた。
「ショーン」女房が言った。「あんた、ぶらぶらして恥ずかしくないのかい。あたしは一日働きづめで、夜は夜なべして、なんとか食卓におまんまを並べ、床が塵に埋もれないようにとあくせくしているのにさ」
「ああ、おまえの言うとおりだよ。ところでおまえ、何をしているんだい」
「何をしてるかだって? 豚たちだってわめいているじゃないか、あたしがいなけりゃ、はらぺこだってのに餌の一口にもありつけやしないってね」
豚どもは確かに何やらわめいていた。いっぽうショーン・アプ・シェンキンはささやかな平穏に浸りきって、頭の中は大気に漂う音楽やなにかでいっぱいだった。しかし女房に加えて豚たちが相手と来ては、逆らうつもりはさらさらなかった。
「それで、お次は何だい」
「わかってるでしょ。牝牛のブロンウェンが山のほうに登っていったんだよ。星の淵が原に行ったんだろうよ。あの子はまあ、あたしが乳を搾ってやろうと待ち構えているのを知っているくせにねえ。あんたがあの子らに余計なことを教えるからよ、いまいましい」
「わかった、わかったよ。たいしたことでもないから、ちょっと行って捕まえてくるよ」そう言って、ショーンはその場を退散した。
家の台所では、ショーンの母親のカトリン婆さんが、暖炉の脇のいつもの椅子に腰かけていた。「ショーン坊やは?」入ってきたグウェンに尋ねる。
「ブロンウェンを連れ戻しに、星の淵が原に行ってるんですよ」グウェンは答えた。
「それを聞いてなんだか胸騒ぎがするよ。今夜は五月祭の前夜、ほかでもない妖精の夜じゃないか」
ショーンはせせらぎの原をずっと登って行った。世界の美しさに胸は喜びであふれた。大気中の歌は前よりも近づいてきたが、それでもまだ捕えられなかった。さらに緑映ゆる谷地が原を抜けた。イグサの上に射す夕日の長い光は、これにかなうものなど見たこともないと思われた。そして生け垣の門を抜け、星の淵が原に至った。するとはたせるかな、牝牛のブロンウェンが先の方を歩いていた。呼びかけたが、聞きわけのない牝牛は止まらなかったので、後を追わざるをえなかった。呼べば呼ぶほど、ますます先へ行ってしまうので、ショーンもどんどん追いかけるはめになった。やっと牝牛に近づいた時には、農園を出てから七つの垣根を後にしていた。その間もずっと歌は近づいてきていた。ウェールズ広しといえども、こんな美しい歌はほかにないな、とショーンは考えた。
ブロンウェンに追いついたちょうどその時、見よ、尽きせぬ歌の湧き出る源はそこに、まさに彼の目の前にあった。それは満開のサンザシの木にとまった一羽の小鳥だった。ドルイド・レン*1ほどの小さな鳥だったが、白い羽は陽光を浴びて輝く山の雪のように眩しかった。翼を小さく羽ばたかせるたびに、さざなみのように歌があふれてどこまでも広がり、ついには山々が歓喜のあまりに深い胸の底から笑うのが感じられるほどだった。ショーンはしばし足を止め、聴き入らずにはいられなかった。
彼は足を止め、聴き惚れた。これまでに味わったくさぐさの悲しみが跡形もなく消え失せ、記憶の中で悲しみは喜びに変わった。それほどまでに豊かでこころよい歌だった。
確かにその日、奇跡が世界を訪れたに違いない。聴き入るうちに、南の方からいっそう美しい歌が聞こえるのに気づいて振り向くと、イグサの繁みに小鳥がいた。冠のような羽毛を戴いて、蒼穹のように青く、宝石のように輝き、くちばしからこぼれる歌には星々さえも身を乗り出した。歌の続くかぎり、背を向けて立ち去ることなどできようはずもなかった。ショーンは讃嘆の念にうたれ、歌の力のなせるわざに目を瞠った。周りを取り巻く天地が一変した。山々はかつて見たどんな山よりも素晴らしく見えた。山肌や谷間をそぞろ歩む獣たちは、焔からなる胴に繊細な焔の冠を戴く頭をもたげ、その気高いことは人間にもまして慕わしかった。山々からは目もあやな光が噴きあがった。そして、ただ生きてあることの喜びが、これまでに知ったいかなる喜びにもましてショーンを圧倒した。牝牛のブロンウェンはおろか、女房のグウェンノや農場のことさえ頭から消し飛んだ。そこに三羽目の小鳥がやってきた。虹の色にいろどられ、その歌は前の二羽よりさらに美しい。流麗な歌声に耳を傾けていると、世界の深奥のありとあらゆる叡智が流れ込んでくるかに思われた。さらにショーンは、炎の衣を纏ったいにしえの驚異の王の幾たりかを目前に見た気がした。雄大な山々が王の宮殿だった。気づけば彼は、まことに諸王や古き世の獣たちに肩を並べ、自身も叡智と徳を備え、雲に包まれた峰のごとき威厳を漂わせているのだった。ショーン・アプ・シェンキンなる者がいたにしても、もはやそのような者を思い出すことはなく、天地四方、創世よりのあまたの代の記憶を呼び返しては、時を超越した美を愛でた――
三羽の小鳥は飛び去り、夜空に星が瞬いていた。ほんの数分にしか感じられなかったが、ゆうに一時間は聴き入っていたらしい。すっかり暗くなったあたりを見回すと、牝牛のブロンウェンが農場に向かって下って行くのが目に入った。明るい気持ちでショーンは後を追いかけた。今や歌の世界は彼に開かれており、これからは世界の美しさを歌うのに苦労することはないとわかっていた。「まるでリアノンの鳥が歌うのを聞いたみたいだった」そうひとりごちる。リアノンの鳥は、かつてウェールズにいた三羽の魔法の鳥であり、その歌に聴き入るうちに幾百年が過ぎてしまっても、ほんの一時間にしか感じられないのだという。
農場の台所から暖炉とろうそくの明かりが漏れており、扉は開いていた。戸口から中を覗き込んだショーンは、敷居のところで立ち止まった。そこに見たのは思いもかけぬ光景だった。たいそう年老いた男が暖炉のそばの長椅子に腰かけていた。その向かいの若者は老人の孫だろうか。二人の間の炉端の床には、三人の子供たちがいた。台所で立ち働く女は、声も姿もグウェンに似ていたが、やはりどこかが違っていた。
「まったく」女が言った。「どうして牝牛のブロンウェンを探しに行ってくれないの。あの子ときたら、また山をほっつき歩いているのに」
「無理強いはするな」老人が言った。「わしのじいさんのひいじいさんの身に起きたことを知らんのかね」
「そのお話をして」子供たちはいっせいに声をあげた。
「三百年も昔の話だ」老人は語りだした。「五月祭の前夜のことだった。一頭の牝牛がうちの農場から山の上のほうへさまよい出た。それでわしのじいさんのひいじいさんは――」
「その人の名前は?」と子供たち。
「ショーン・アプ・シェンキンといったな」老人が答えた。
「戸口に誰かいるわ」女が声をあげた。「いらっしゃい、どうぞお入りなさいな」
しかし入ってくる者はおらず、皆が目をやった時には、戸口には誰もいなかった。「風のため息だろう」若者が言った。それで老人は話を続け、ショーン・アプ・シェンキンの物語をしめくくった。
「リアノンの鳥が彼に歌いかけたのだと言われておる」
訳注 1: レン (wren) はミソサザイ。体長 10 cm ほどの小型の鳥
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