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太陽が低くかかっていた。空と海は神の夢の色彩を帯び、無音の音楽を奏でていた。あえかな魔法の輝きを背景に、樹の幹と枝と葉叢がくっきりと際立っていた。三つの熟した実が、あらかじめ教えられていたとおり枝から下がっており、大きさも輝きも沈みゆく太陽と見紛うほどだったが、ただ色合いはいっそう深い紅だった。なかば透きとおり芳香を放つ林檎は夕闇を圧していた。枝の一本、葉の一枚さえ、そよとも動かない。神の領域の静寂が世界を支配し、海が遠くでそっと口ずさんでいる歌が、心臓の鼓動よりもかすかに聴こえた。栄光、誉れ、力、覇権――ゴンマー王ボルティンよ、震えあがるがよい! つまさき立ち、星々のごとく無言の歓喜に逸りつつ樹に近寄ると、実を一つもいで口に入れた――

沈黙が音楽の奔流に変わり、王は宇宙のあらゆるからくりを歌として理解した。足下の大地も、樹も、きらめく大海も、太陽も、自らの存在も、いっさいが倍音と反響であり、永遠の脈動であり、究極にはひとつの旋律をなす無数の振動にほかならなかった。幾千幾万の星座が外へ外へと連なり、同時に内へ内へと続き、幾千幾万の声が重なる音楽は、おのおのの声がさらに幾千幾万の声からなるのだった。頭上に、周囲に、己の中に、見よ! つぎつぎに生まれるあまたの世界がある。現にあり、生まれつつあり、歌の音符のひとつひとつが消えるように衰えゆく。すべてが生の中に投げあげられ、頂点の一瞬、陶酔のきわみに静止する。あらゆる瞬間のうちに永遠が燃え、時のどの刹那をとっても全体を孕み充溢せざるはなかった。天の栄光は王のうちにあった。低くかかった太陽は、王の内部のどこか遠からぬところで美を惜しみなく放射していた。王は海であり山であった。樹の中の樹であり魔法の果実だった。林檎に蔵されていた知識が王の思考の水路の隅々にまで流れ込んだ。王は源よりあふれだす歌の流れであり、流れに浮かぶ泡が目に見える世界だった。流れの底流をなすのは、ありとあらゆる存在の意識だった。

王は船に戻ろうときびすを返した。

するとなにかが目に飛び込んできた。湾のただなかをこちらに近づいてくる。それは王自身の船、さもなければよく似た別の船だった。竜をかたどり、九人の異界の王が櫂をとっている。ただ、ついさきほどまで王自身がたたずんでいた場所にいるのは、そうあれは、あらゆる世界のあらゆる人間のうちほかに誰あろう、ゴンマー王ボルティンだった。

もはや間違いない。王はボルティンが陸に上がり、砂浜を越えて山を登り始めるのを見守った。王の魂はこみあげる喜びを歌った。なぜなら、いま夕闇の中、宵の星々の下を小道をたどってこちらに登ってくるのだ――もうひとりの自分が。あるいは宇宙の栄光の極み、あるいは無限の世界の美、あるいは天の頂に座す、頭上に星座を戴き星の炎を纏った神が。しかし同時に、もうひとりの自分は拒まれ、閉じ込められ、苦悩にまみれていた。栄光と美は忘却に曇らされ、毒矢に貫かれた神は、己の存在のもっとも低い次元で臭い煙を盛んにあげて燃えるちっぽけな炎に苦しめられ、我を忘れているのだった。半身の心に、愛と崇敬とともに、あふれんばかりの同情がわきおこった。

全知のレイナアクはボルティンの心の声をありのままに聞くことができるだけに、同情もひとしおだった。ボルティンの思考は不可解だったが、なにか恐ろしいほど馴染み深くもあった。(あやつめ……世界から平和を奪った……飽くことを知らぬ野望よ……おぞましい残酷な……余が父の玉座を継いでからというもの、五百万の戦士、ゴンマーの精鋭たちの命が奪われた。それもあの、いにしえの半ば神であった征服者を気取ろうという愚かしい欲望のために……だがむざむざと殺されたわけではない。そうとも、氷の冥府には……)

「哀れなる神の心よ」レイナアクは心のうちで嘆いた。「だが、彼が林檎を口にすればわかるだろう。そうすれば、あの有限の命の病は、あとかたもなく癒されるだろう」そのとき、レイナアクは忽然と悟った。有限の命とはかくのごときもの、なべて人間の心はすでに病んでいるか、さもなくば病に瀕しているのだと。そして彼自身も人の子であり、生身の体を負うているうえは、もしかくも大きな智慧と喜びを我がものにしていなかったなら、かの不幸、身を蝕む宿痾は彼をも苦しめただろう。ああ、世界中の人間をここ霊峰トルマスラニオンに連れきたりて、この樹の果実を分け与えることができたなら。しかしこの樹には、時の果てまでただ三つの実が生るだけなのだ。一つはすでに自らが口にした。もうひとつはゴンマー王ボルティン、かつては敵であり、これより後は永遠の友となるべき男のもの。ただひとつ残った林檎を持ち帰り、誰か一人を選んで食べさせ、智慧を与えたところでなんになろう。どうにかして世界を変えねばならぬ。そして我とボルティンは――。

「きさまか、タルガスの王よ」

「ああ兄弟、兄弟よ。来てくれてどれほど嬉しいことか。いざ我らで――」

「さよう、いざ」ボルティンは剣を抜いた。

「早く林檎を取って食べてくれ、兄弟。そうすれば――」

「剣を、剣を抜け。タルガスめ。早くしろ、さもなくば――」

「剣を? 抜けだと? なんのために」あらゆる知識を得た身にもかかわらず、そのようなことは思いつきもしなかった。おかしなことだと一瞬虚を衝かれ、思わずほほ笑んだ。「いや、ともかく林檎を食べてくれ、親愛なる兄弟よ。それから――」

「その無礼な兄弟呼ばわりは四度目だ。抜かぬのか?」

レイナアクはこれから起こるであろうことを知った。抜き差しならぬ局面に相対して、彼は短く笑い声をあげた。死ぬのもまた幸福だろうと思ったのだ。そして一度だけ涙を流した。彼が防ぎえなかった大きな悲しみのために。まだ猶予があるものなら、忌まわしい武器を抜いて打ち砕かんものと、剣の柄に手をかけた。しかしその隙は与えられなかった。ゴンマーは憎しみに猛り狂っていた。わずか一閃ですべては終わった。

ボルティンは死者のマントで刃を拭い、鞘におさめた。余を罠にかけるには遅すぎたようだな。もし余が樹に向かい、林檎に手を伸ばしていたなら、タルガスめの剣が余のわき腹に突き刺さり、いまわの際にやつの勝ち誇った笑いを聞かされていたに違いない。ボルティンはいたって無造作に樹に近づいた。いまさら林檎を口にしたところで、このうえ得るものはなにもない。すでに望みはかなった。旅の目的は果たされたのだ。ドルイドたちは正しかった。言われたとおりに国を後にし、いまや宿敵を斃したからには、あとは思いのままにタルガスを平らげるのみだ。とはいえ、聖なる教えは教えであり、それがこの山や樹や林檎について、あれこれ指図しているのだ。それにともかくも林檎は渇きをいやしてくれよう……。ボルティンは実を一つもいで歯を立てた――

歌と、喜びと、宇宙の大いなる栄光の中に、たった一つ瑕が、ひび割れが、不協和音があった。ただ一つ疼く傷があった。毒に侵されたただ一つの汚点から、苦痛が全体に拡がっていく。それは王自身と王の所業だった。おお、タルガス! 兄弟よ! 我が兄弟よ!


彼の誉れは世界中にとどろき、かつてのタルガスの民ですら彼を愛した。彼らはほめたたえて言う。王は素晴らしい方だ。我らが最後の王、憎しみに身を滅ぼした哀れなレイナアクなどよりずっと。人々は言う。世界帝国の開祖ボルティンより賢明な支配者はいない。また神かけて、あれほど慈悲深く公正で心の温かい方もいない。すると王をよく知る者は付け加えて言うのだ。あれほど悲しげなお方も、と。

  

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