風の嘆き

      

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華々しくも過酷な《槍ヶ野の戦い》ののち、《歌のイー》とあだ名された琴弾きイーは、兵営に背を向けて森へと入っていった。

一年とさらにひとたび雪の季節が巡るあいだ、かれは森の中をあちらこちらとさまよい、風に吹かれる一枚の葉であった。

散り散りになった民の前にふたたび姿をあらわしたとき、褐色の髪は灰色に変わり、その眼は泣き疲れた女の眼、実らぬ愛に倦んだ若者の眼、そして生きることに厭いた老人の眼のようだった。

森から出てきたかれは裂いた鹿革をまとい、灰色の蓬髪には宿り木が絡まり、月皓の漿果が淡水真珠のごとく灰の髪を飾っていた。背後で二頭の痩せ狼が舌を垂らし、飢えた眼でひたとかれを見あげていた。

かれは王の御前にやってきたが、《寡黙のコンガル》がみずからの砦の座に腰を下ろし、盲目のドルイド僧バラハの言葉に耳を傾けているところへただ黙って立ちつくし、まるで黄昏の丘に佇みかつてはよく知っていた土地を見はるかす者のようなまなざしをしていた。

コンガルがかれに目を留めた。

「そなたの姿をふたたび見られようとは、今日はなんと佳き日だ、《歌のイー》よ」

イーはなにも言わなかった。

「そなたが森へ影のように消え失せてから一年と四分の一になる」

イーはなにも答えなかった。

「そのあいだずっと、われらの知らぬことを学んでいたのか」

イーは身じろぎし、王と、盲目のバラハの白皙白髪に真剣なまなざしを注いだ。それから傍らの二頭の狼に目をやると、微笑んだ。

「ああ、アルタンの子コンガルよ、おれは見、おれは聞いた」

「なにを見、なにを聞いたのだ」

「風の嘆きを聞いた」

「それなら、われらも聞いた。風の嘆きに、われらには聞こえぬなにがあるのか」

「草のため息を聞いた」

「それなら、われらも聞いた。草のため息に、われらには聞こえぬなにがあるのか」

「星ぼしから露が滴り、それからかすかな煙のようになってふたたび星へ昇ってゆき、月の光を浴びて跳ねる鮭の鱗のように濡れぬれと輝くのを見た」

「それもわれらは見た、《竪琴のイー》よ」

「星ぼしが昇り沈みゆくのを見た」

「それもわれらは見た、イーよ」

「ほかにはもうない」

「ほんとうにもう言うべきことはないのか」

「風の嘆きだけだ」

コンガル王は思いを巡らす表情で座していた。かれの前に立ったイーは、星ぼしが昇り沈みゆくあいだに目にしたものを視ていた。

「われらのために弾いてくれ、《森のイー》よ」

そこでイーは竪琴を構えて弦に触れ、歌った。

われは昏い森を深くさまよい 嘆きと悲しみと 孤独なる者らにつきまとう 数限りない歳月を知った 槍ヶ野のつわものどもは いまいずこ 尽きせぬ涙が 雨のごとく降り注ぎ 朽ち葉の下かれらはしずかに瞑る われは無数の死者を見た われもいつか、かのごとく横たわるさだめ コンガルよ、汝もまたかのごとく横たわるさだめ しずかに蒼ざめ 星ぼしをちりばめた空のもと 槍ヶ野へと勇みゆくことはまたとなく 朽ち葉の下にて ただ悲嘆と 尽きせぬ塩辛く苦い涙を知るのみ そしてわれは風の嘆きを聞いた そはわが胸のうちの嘆き 黒い瞳のウーナ、黒い瞳のウーナよ ウーナ、ウーナ、ウーナ、わが心の女よ だが空の静寂と 降りては昇る露と 悠久の歳月と 朽ち葉の掛布とを貫いて 変わらぬ悲しみと 尽きせぬ涙のために ただ風の嘆くのみ

歌と竪琴の音が止んだとき、言葉を発する者はいなかった。《槍ヶ野の戦い》ののち、煙のくすぶるうち捨てられた王の砦に戻ってきたイーが、愛する黒い瞳のウーナの両胸のあいだを槍に貫かれた骸を見いだしたことは、みなの知るところだった。イーは長いあいだなきがらを見下ろし、しかしなにも言わなかった。その夜、ウーナは大地に葬られたが、白い衣を纏い、白い林檎の花を黒い髪に飾り、まっすぐ誇り高く身を起こしたさまは、みずからに注がれる考え深げなまなざしを見返すかのようだった。イーは彼女に歌を捧げたのち、夜が明けるまで黙して過ごした。その調べはだれも聞いたことのないほどあやしくもの狂おしく、また打ち合わされる剣の鳴るごとく傍若無人に詞の響く歌は、かつて聞かれたためしのないものだった。翌朝、ドルイド僧デュアハが、石にオガム文字でウーナの名を刻んだ。イーは薄明から朝日が昇るまでのあいだ墓石の傍らに立っていた。それから低く笑いを漏らし、石を撫で、ささやいた。「おいで、白き者よ、おいで」そうしてかれは森へとわけいった。

この帰還の日にも、イーはまっさきに樫の木のあいだのひらけた場所に立つ墓石を訪った。「来たよ、白き者よ、来たよ」そうささやきかけると、ゆっくりといとおしむように白い石を撫でた。

その後砦に向かい、上王コンガルの御前に通されたが、その貌には光が宿っていた。

王の求めに応じてイーが嘆きの歌をうたうと、かれがなにを歌っているのか皆が理解した。それゆえ、言葉を発する者はいなかった。沈黙のなか、イーは夢の中にいるように、あの弦、またこの弦とゆるやかに竪琴をつま弾いた。

ふいにかれは目を覚ましたかのようだった。

「おれの三匹の犬はどこにいる」

コンガルは厳粛なおももちでイーを見つめた。

「イーよ、そなたの愛は大きかった。そなたが美しきウーナに抱いた愛ほど大きな愛はまたとない。しかし、大きな悲しみがそなたの眼を曇らせたようだな」

「コンガル、風の嘆きが聞こえる」

「そうか」

「わけても月のうるわしきかな、白くめでたく星ぼしのあいだを渡りゆく」

「《フィンの星》を除いてはまだ星は輝いてはおらぬし、月も出てはいない、《歌のイー》よ」

「月のうるわしきかな、白くめでたく星ぼしのあいだを渡りゆく。ああ、白くめでたき《美》のかんばせよ。ウーナ、ウーナ、ウーナ!」

王は黙した。言葉を発する者はなかった。

「コンガル、風の嘆きが聞こえる」

「そうか」

「王よ、おれの三匹の犬はどこにいる」

「森からそなたに従いて来た二頭の狼ならいた。雄と雌の狼だ。二頭とも行ってしまった」

「三匹いたのだ」

答える者はなかった。

「三匹いたのだ、王よ。いまは一匹だけがおれの許にいる」

「わしにはまったく見えないが、《歌のイー》よ」

「三匹の犬がおれとともにいたのだ、アルタンの子コンガルよ。そいつらの名は、《死》と《生》、それに《愛》という」

「わしには二頭の狼しか見えなかった」

「風の嘆きが聞こえる、《寡黙のコンガル》よ」

「そうか」

「嘆きに混じって、あんたが見た二頭の狼が吠えているのが聞こえる。《死》と《生》だ。暗い森をうろついている」

「いまここに狼だか犬だかがいるというのか、《歌のイー》よ」

イーは答えなかった。ただ脇を向き、泉のほとりに佇む牡鹿のように耳を澄ませていた。

盲目のバラハが立ち上がり、そして告げた。

「かれの傍らに白い犬がおります、王よ」

「その犬は《愛》か」

「その犬は《愛》でございます」

沈黙がおりた。王が口を開いた。

「なにを聞いている、《歌のイー》よ」

「風の嘆きが聞こえる」

      

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