ある伝説がわたしのなかに浮かんでくる。武装を知らぬ安閑とした時代、半神と英雄たちが骨を折ってギリシャをつくりあげるより昔、ギリシャの栄光の盛りに神殿やきらびやかな宮殿が築かれるよりはるか昔の物語である。地はのどかで、森の上いちめんに夜明けのしずけさ、憩いのうちに深い息をつく未だ目覚めぬ美のしずけさが垂れこめていた。そこかしこに小さな村の煙が立ち、夢みるような人びとが行き来している。人びとは大人になり、少しばかり畑仕事に汗し、羊や山羊を追い、結ばれ、やがて灰色の老年におそわれるが、それでも子供であることをやめはしない。かれらは小さな木造りのやしろで、後の世には忘れられた古い儀式をもって神々を崇めた。
 そうした社のひとつの近くに神官が住んでおり――老人である――純朴で温和なたちで、誰からも尊敬されていた。ある夏の夕暮れに、住まいの小屋の前に座っていたかれのもとへ、見知らぬ人が訪ねてきたので、ともに食事をするよう誘った。訪問者は腰をおろし、さまざまな驚くべきことを語りはじめた――太陽の魔法について、日の門口に動く輝かしい者たちについて。暖かい陽の光に照らされているうちに神官はうとうとして眠りこんだ。するとアポロンである訪問者が立ち上がり、神官の姿を借りて小さな社に入り、ひとりまたひとりと村人たちが訪ねてきた。
 はじめに農夫のアガトンが来た。「師父よ、畑に屈んだりぶどうの蔓を結わえたりしていて、ときどき思い出すことがあるのですが、そういう仕事によっても、犠牲を捧げるのと同じように神々を崇めることができるとおっしゃいましたね。どういうわけなのでしょう、根に冷たい水を注いだり、蔓を導いてやったりするのがゼウスの糧になるというのは。火や蒸気によって届けられてもいないのに、どうやってゼウスの御前に捧げ物があらわれるのでしょう」
 神官の姿を借りたアポロンは答えた。「アガトンよ、万能の父はエーテルにのみ生きるのではない。目には見えぬが太陽や星々の中にも流れておいでだし、太陽や星々が巡り巡るにつれて、川に、森に、花に流れこみ、また薔薇の花びらが落ちるように、雲となって振りはらわれる。おおきく、あやしく、まばゆく、神は内にて働き、時の終わりに神の光は輝きわたり、人間はその光が炎の世界に動くのを見るであろう。されば、おまえが畑に屈むとき育んでいるものは何か、その内に湧きだすものは何かを思え。花のひとつひとつが森の静寂にうなだれるとき、内にそして彼方に、言葉には表せない生命の訪れを感じ、喜んでいるのだと知れ。小さな池が星々を映すように、花々はかの生命を映す。アガトンよ、アガトンよ、ゼウスは草の葉の中にいるとき、エーテルの中にいるときに劣らず偉大であり、おん自らの花のひとつに注がれるわずかな水は、人間の讃歌に劣らずゼウスにはこころよい」
 農夫アガトンは去り、夢みつつ果実やぶどうの木にやさしく身を屈め、以前にもまして作物を愛し、それらを見守るうちにより賢くなり、神々のために働くのを喜んだ。
 つぎに羊飼いのダモンが問うた。「師父よ、群れが草を食んでいるあいだ、わたしのなかに夢が湧いてくるのです。するとあこがれに胸が痛くなります。森が消えて、仔羊が鳴くのも毛皮がこすれるのも聞こえません。千もの深みからわたしを呼ぶ声がします。ささやいている、うったえているのです。地上の子よりいっそう美しい影から音楽が発せられ、わたしのためではないのに、聴いていると気が遠くなります。なぜわたしには、ほかの人には聞こえないものが――広い野原で正体知れぬ狩人たちに呼びかける声、あるいは牧人たちに、星の羊たちの牧者に呼びかける声が聞こえるのでしょう」
 アポロンは羊飼いに答えた。「ダモンよ、いまだ神々がおわさぬときに静寂から歌が漂い出て千代ちよの時が過ぎたのち、音楽に呼び起こされた神々がやって来た。神々は千代にわたって聴きいり、それから歌に加わった。すると神々のまわりで世界はおぼろに光りはじめ、輝く者たちが神々の前に頭をたれた。これら、神々の子らもまた歌をうたいはじめ、それが生命を呼び覚ました。かれらの歌を学んだ者はあらゆるものの主となる。ダモンよ、影ではなく声に心を向けよ。声は神々のさらに彼方からおまえに知らせを伝える。かれらの歌を学び、人びとにくりかえし歌って聞かせよ。人びとの胸もまたあこがれに痛み、それぞれの内に歌を聞くことができるようになるまで。おお息子よ、わたしには見える、はるか遠くで、合唱に加わるように国々が歌に加わり、それに耳を傾けるうちに、猛進する惑星も急ぐのをやめ、不動のものとなるであろう。人間は星々を制するであろう」
 神の顔が老人の顔を透かして光を放ち、謎をたたえていたために、羊飼いダモンは畏怖に満たされ、現在を通り過ぎ、その胸に不可思議な炎が燃えた。それからというもの、かれがうたう歌は森の住民たちの幼年時代と安逸を過ぎ去らせた。
 つぎに、恋人どうしのふたり、ディオンとネアエラが来てアポロンの前に立ち、ディオンが問うた。「師父よ、いとも賢いあなたなら、愛とは何かをわたしたちに教え、愛を失わずにいられるようにできるでしょう。老ティトノスは、わたしたちとすれちがうたび、白髪頭でうなずいてみせるのです。かれが言うには、変わることのない神々の愛だけが永遠で、人間の愛する時は短く、悦びはすぐに終わるのだそうです」
 ネアエラが言い足した。「でもそれはちがいます。あの人がいまのわたしたちのように恋をして、幸せで満ち足りていた昔のことを思い出しているとき、眠たげな目が輝いていますから」
 アポロンは答えた。「わが子らよ、愛がどのようにしてこの世にもたらされたのか、どのように永らえるのか、おまえたちに言い伝えを聞かせよう。高きオリンポスで神々が人間を創るための相談に集まり、おのおのが贈り物を持ち寄って、それぞれのさがに応じたものを与えていった。このうえなく美しく優雅なアプロディテは、少し考え、容貌にあらたな優美を与えようとした。しかしそこでエロスが声をあげた。『外側をそのように美しくなさいますな。内側をより美しくなさい。母上、あなたの魂を込めるのです』おおいなる母は微笑み、そのとおりにした。さればこそ、愛がアプロディテの愛のように見返りを求めず、すべてを照らすべくして照らすとき、その愛の内にアプロディテが住み、彼女の存在によって愛は不滅のものとなるのだ」
 ディオンとネアエラは出てゆき、夕べの光のなか紫色に霞む森を抜けて帰る道すがら、互いに寄り添った。ディオンはネアエラの眼を覗きこみ、そこに新しい光が、菫色に、魔法のように輝くのを見た――アプロディテが存在していた。女神の社がそこにあった。
 そのあと、アポロンのもとに老ティトノスのふたりの孫が来て叫んだ。「見て、お花を持ってきてあげたよ! とくべつに、いちばんきれいに咲いている谷から摘んできたんだ」「子供たちがずっとおぼえていられるような、どんな智慧をやればよいだろう。われらのもっとも美しい智慧をこの子らに!」アポロンが立ち上がり、子供たちを見つめるうちに、老いと謎の仮面が消え失せた。神は燦然と光に包まれた。子供たちは美しさに喜びの笑い声をあげた。身を屈め、ひとりずつひたいに口づけすると、アポロンは本来の住処である光の中に消えていった。
 青い山並みの陰に陽が沈むころ、老神官はおおきく息をついて目を覚まし、嘆声をあげた。「おお、人間、夢の中ほど賢く話せたらよいものを」



底本:Imaginations and Reveries (http://www.gutenberg.org/ebooks/8105)
翻訳:館野浩美
2021年1月3日公開

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