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三十三章

岩の上の隠者

しばらく航海を続けていると、南の方の海上にぽつんと目に入るものがあった。はじめは大きな白い鳥が波に揺られているかに見えたが、近づいてみるとそれは人間だった。たいそうな年寄りで、真っ白な毛がくまなく身を覆っていた。草一本生えていない大きな裸岩に立ち、ひっきりなしに膝をついて祈りを捧げるのを繰り返している。

これは聖者にちがいないと見てとった一行は、老人に請うて祝福を授けてもらった。そののち言葉を交わして、どのような素性の方でどうして岩の上にいるのかと尋ねた。老人は次のように語った。

わしはトーリーの島†10に生まれ育った。成年に達し、僧院で料理番を務めるようになったのだが、邪な料理番ではあった。日々渡される食材の一部を売りとばし、その金でひそかに高価な財物を購った。それだけではない。教会や周りの建物の地下に秘密の抜け穴をこしらえ、たびたび忍び入っては金糸の祭服や真鍮と金で飾った本の表紙などの貴い宝を盗んだものだ。

ほどなくわしは金持ちになり、わが家は豪華な寝台やあらゆる色の麻や毛織の衣、真鍮の水差しや釜、黄金の飾り留めや腕輪でいっぱいになった。調度だろうと装身具だろうと、ひとかどの身分の者が持つべきもので足りないものとてなく、わしは驕り高ぶるいっぽうだった。

ある日わしは墓穴を掘るよう言いつけられた。島に埋葬するようにと本土から百姓の亡骸が送られてきたのだ。狭い墓地の片隅に見当をつけて掘りはじめたとたん、足元の地中深くから声が聞こえてきた。

「この墓を掘り返してはならぬ」

わしはびっくりして手を止めた。だが、すぐに気を取り直して、訳のわからぬ声などにかまわず掘りつづけた。するとふたたび同じ声が、今度はもう少しはっきりと話しはじめた。

「この墓を掘り返してはならぬ。わしは敬虔な聖者、わが屍はかぼそくもろいのだ。そのような肥え太った罪びとの重い屍をわしの上におくな」

だがわしは見得も意地もあり、こう答えた。「どうでもここを掘って、この死人をあんたの上に埋めてやる」

「もしわしの上に屍をおいたなら、おまえは骨から肉が剥がれ落ちて死に、三日ののちに地獄の窖に落とされるだろう。それに、屍を埋めたところでそのまま留まりはせぬ」

「では、もしおれが死体をあんたの上に埋めなかったら、何をくれる」わしは尋ねた。

「天国での永遠の生をやろう」声は答えた。

「おまえにそんなことができるのか。どうして確かに信じられよう」わしは言い募った。

すると声は答えた。「おまえがいま掘っているのは粘土だ。変わらぬかどうかよく見ていろ、さすればわしの言葉が真実だとわかる。わしが言ったことはきっと本当になると信じられるだろう。おまえはその男をわしの上に葬ることはできぬ、いくら試したところでな」

この言葉が終わらぬうちに、目の前で墓の土は白砂に変わった。そこでわしは死体をよそに埋めた。

しばらくして、わしは船を造らせた。隅々まで赤く塗った皮張りの船で海に漕ぎ出した。浜や島を経巡り、船より望む海や陸の景色に魅せられ、しばらく船で暮らそうと決めた。そこでわしは、ありったけの宝を船に積んだ。銀の杯に金の腕輪、細工を施した角杯など、大小さまざまの品々を持ち込んだ。

しばらくのあいだは、空は晴れ海は穏やかで、わしはおおいに愉しんだ。だがある日、いきなり風が起こって嵐が襲いかかった。船は沖に流されて陸地は見えなくなり、どこへ向かっているのかもわからなくなった。そのうちに暴風はそよ風にまでおさまり海は平らかになった。船はふたたび滑らかに進むようになった。

だがふと、風は優しく吹きつづけているのに船が動きを止めたような気がして、なにごとか確かめようと立ち上がったわしは、すぐそこの波の上に老人が腰掛けているのを見て驚いた。

老人がわしに話しかけたとき、聞きおぼえのある声だと咄嗟に思ったが、どこで聞いたのかは憶い出せなかった。なぜか知らぬが妙に落ち着かない気分になり、身体が震えだした。

「どこへ行くのかね」老人が尋ねてきた。

「わからんね」わしは答えた。「ただ言えるのは、おれの船がこうやって波の上を滑らかに進んでゆくのは爽快だってことだ」

「この瞬間にもおまえさんを取り囲んでいる軍勢が見えたなら、爽快などとは言っていられるまい」

「軍勢とはなんのことだ」わしが尋ねると、老人は次のように答えた。

「おまえのぐるりは目路のかぎり、上は雲に届くまで、おそろしく大きな塊のように悪魔が群がっておる。それというのも、おまえの強欲、おまえの犯した盗み、おまえの高慢、そのほかおまえのもろもろの罪と悪徳ゆえだ」

老人は続けて言った。「なぜおまえの船が止まったかわかるか」

「いいや」わしが答えると老人は言った。「わしが止めたのだ。わしの言うとおりにすると誓うまで、ここから少しも動かぬぞ」

ひょっとして自分の手に余るようなことではないのかと、わしは尋ねた。

「そんなことはない」老人は言った。「もし拒んだら、おまえは地獄の責め苦を受けるのだ」

老人は船に近づいてきて、わしに両手をかけ、なんでも言うとおりにすると誓わせた。

「おまえは、船に積んでおる不正に得た財物を、いますぐ一つ残らず海に投げ捨てねばならぬ」

老人の言いつけどおりにするのはつらかったから、わしは抗った。「このような貴重な品々がすべて無駄になってしまうのはもったいないことだ」

それに答えて老人は言った。「無駄にはならぬ。あとで人をよこして引き揚げさせよう。だがいまはわしの言うとおりにせよ」

しかたなく、嫌々ながら高価な素晴らしい品々をすべて海に沈め、手元には水を飲むのに使う小さな椀だけを残した。

「ではまた航海を続けよ。船が固い地面に辿りついたら、そこが留まるべき場所だ」

老人は旅の糧として焼き菓子を七切れと乳清を一椀くれた。船は動き出し、老人の姿はすぐに見えなくなった。そしてふいにわしは憶い出したのだが、老人の声は、百姓の墓を掘っていたときに地下から聞こえてきた、まさにその声だった。わしは驚いてどういうことかと頭を悩ませ、また富を失ったことで胸を塞がれてもいたので、櫂をうっちゃってわが身を風と船に任せ、どこへなりとも行けと開き直った。それから長いこと波に揺られていたが、どこへ向かっているものか見当もつかなかった。

とうとう船が止まったように思えたが、陸地は影も見えないのでわしは首を捻った。それでも、船が止まったところに留まれという老人の言葉を忘れてはいなかったので、よくよく気をつけてあたりを見回した。すると船のすぐ傍、ほとんど水面すれすれに小さな岩があるのがわかった。波が笑いさざめきながら岩の面に戯れていた。わしは岩に降り立った。とたん、波が逃げ去ったかのように、岩が海から高く顔を出した。いっぽう船は岩を離れてすぐにどこかへ消えてしまい、二度と姿を見なかった。そのときから今にいたるまで、この岩がわしの住処だ。

はじめの七年のあいだは、わしをここへ送った老人がくれた七切れの焼き菓子と乳清の椀で命を繋いだ。焼き菓子がなくなってしまうと、三日のあいだは食うものもなく、ただ乳清で唇を湿した。三日目の夜遅く、海から獺が現れて鮭をおいていった。だが飢えに苛まれてはいたものの生魚を食う気にはなれなかったので、手付かずのまま波にさらわれるにまかせた。

それからまた三日にわたって、何も食べずに過ごした。三日目の午後、獺が鮭を運んで戻ってきた。今度は別の獺もいて、こちらは薪を運んできていた。獺が岩に薪を積みあげて息を吹きかけると、火が点いて燃え上がった。そこでわしは鮭を炙って食らい、飢えを鎮めた。

毎日そうして獺が鮭を持ってきてくれるようになり、七年のあいだ生き永らえることができた。また日増しに岩は大きくなり、いまの大きさにまでなった。七年が過ぎたとき、獺はぱったりと鮭を運ぶのを止め、わしは三日のあいだ何も食べなかった。三日目が過ぎようというころ、きめ細かな小麦の菓子が半分と一切れの魚がもたらされた。またこの日、乳清の椀は海に沈んだが、代わりに上等の麦酒が満たされた同じ大きさの椀が岩の上におかれてあった。

このようにして祈りを捧げ、犯した罪を償いながら、わしはいまも暮らしている。日ごとに椀は麦酒で満たされ、小麦の菓子が半分と一切れの魚をいただける。雨風も暑さ寒さも、この岩にいるわしを襲うことはない。

そうみずからの生涯を語り、老人は口を閉ざした。その日の夕方、船の一行にもめいめい老隠者と同じだけの食べ物、すなわち小麦の菓子が半分と一切れの魚がもたらされた。また水差しにはみなにゆきわたるだけの上等の麦酒が満ちていた。

次の日の朝、隠者は一同に向かって言った。「そなたたちはみな無事に故郷に辿りつくだろう。そしてマールドゥーンよ、そなたは途上の島で父を殺した男を見いだすだろう。だが男を殺してはならぬし、どんなことであれ意趣返しを企んでもならぬ。そなたは罪深く、死を賜るに価したにもかかわらず、神は数々の危険からそなたをお救いくださったのだから、そなたも敵が犯した罪を許すがよい」

一同は隠者に別れを告げて漕ぎ去った。

老隠者の物語

風は吼え海は猛るとも この黒き裸岩にて 改悛の祈りを唱うるわれは 嵐の暴威をよそにす

慈悲深き主はわれを憐れみ 護りの手をさしのべ給う 厳寒酷暑、風雨に凍雨も われを冒すあたわず

かつてわれ御堂に盗みをはたらき貧者を虐げ 日々懐を肥やせり されどいまはこの黒き裸岩にて ただ罪を償う

思い上がれる罪びと赦しを得ずして死せり ひとその骸をわれにゆだねていわく 「墓を掘りて死者をうずめよ しかしてその魂の救いのために祈るべし」

墓穴を掘るわが手をとどめしは 畏く厳かなる声 かすかなる死者の声 大地の腹より出でき

死せる僧、墓より声をあげていわく―― 肥え太れる屍をわが奥津城におくべからず わが屍はかぼそくもろければ いかにしてよく堪えん 罪に穢れたる屍の重みを

われは敬虔なる聖者 食を断ち夜もすがら祈りを捧げたり 罪びとの屍の穢さんこの土は わが亡骸の臥所なり

老隠者つづけていわく―― 声はたとやみ、二度と聞かず 請い嘆く声のおどろの響きを さればわれ墓を閉じ老僧を独り 柩のうちに憩わせり

わが船は西の海原を滑りゆき はるか海路を見渡せば 年経りたる翁波の上に居り われにひたとまなこを注げり

翁声をあぐればわが血潮は凍り 身はおののきふるえたり こはまさに死せる僧の かつてこの耳に響いたりしかの声かな

死せる僧、ふたたび声をあげていわく―― 罪びとの屍はわが奥津城より遠く 不浄の土に深く横たう 穢れを知らぬわが柩にて われは永遠にやすらう

行きて黒き裸岩にて祈るべし 嵐の海のかなたにそはあり 重き罪には重き償い さすればついに天の御国は汝のもの

老隠者の物語これにて終わる―― さればわれここに年を重ね 祈りと改悛と苦行に明け暮る 日々獺に養われ ついに天の御国を慕う

嵐は吼え波は猛る されど主は手をさしのべ給う 厳寒酷暑、風雨に凍雨も われを害するあたわず

原注 10: ドニゴール沖のトーリー島。聖コルムキルに捧げられた修道院があった。

      

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