げにイラムは薔薇とともに失せ、
ジャムシードの七輪の杯、ゆくえも知れず[#ウマル・ハイヤーム『ルバーイヤート』より]

 薔薇に薔薇に薔薇。庭園は薔薇に燃えたち、妖しく、泡だっていた。これに匹敵するものは、イラムの園にも、天国にさえ見いだせはしないだろう。波か貝殻の縁のようにうねる色淡い花びらを持ち、内側はえもいわれぬ上気した桃色に染まる薔薇、琥珀色の、あるいは杏色の芯の薔薇、カーフ山の雪より白く房をなして揺れる純潔無比の薔薇、格子づくりの四阿に這う繊細な黄色の薔薇。糸杉の蔭にひそかに燃える真紅の薔薇は、紅玉より赤く、葡萄酒より赤く、すばらしく堂々とした風格をたたえ――かといって自らの美に驕り、ひけらかすでもなく、ただ孤高の夢に、秘密の知識に没入するがゆえに、おのずと慈悲にも似た密かな誇りを持つに至ったものである……。
 これらの薔薇だけが王妃の忠実な参謀であり友だった。
 王妃は庭園の薔薇のただなか、大理石を格子に刻んだ四阿におり、頭上には黄色い薔薇が泡だつ天蓋をなしていた。王妃の姿をどうたとえよう、それは薔薇の園のあらゆる薔薇のなかの薔薇、十八たび巡った――わずか十八たび――ペルシャの春の日中とかぐわしい夜の粋を集めた美しさ。黒い瞳は濡れ濡れと輝いて、しとやかさ以上のものを湛え、見目よい頭を昂然ともたげたさまは、つよさと誇りをあらわしているが、その誇りには慎ましさがあり、その靱さは個性を欠くゆえの靱さだと感じられるかもしれない……。
 王妃の位、それは彼女の担うべき重荷だった――王国は亡き夫より遺され、いまだ生まれぬ息子のためにと託された。爛熟を迎えた王国では奢侈が好まれ、義務は総じて遠ざけられた。白い宮殿とモスクと美しい庭園の都はテュルクの傭兵に守りをゆだね、才に溺れる詩人たちが酒杯を重ねつつ蜜に毒を交えたルバーイやガザルでもって互いを刺しあうのをこぞって見物した。愛国心も徳も武勇もなき都。王妃にもよくわかっているとおり、身の守りとも頼りともなるのは、テュルクの傭兵たちしかいなかったが、彼らときては――手綱を抑えておくのは剛毅の王でなくては成らぬ難事業、すくなくともそれに近い仕事であろう。王妃は五百人を召し抱えていた。治安を保つのに五百は多すぎ、戦には数千の数百倍でも少なすぎる――とりわけ、まさに迎えようとしている戦にとっては。
 王妃が父祖代々の山城を下り、顔も見たことのない、若く猛々しい王の花嫁となるために旅をしてから、まだ一年も経たない。結局、婚姻は天のはからいだったとわかった。ふたりはたちまち相愛の恋人にして同志となり、ともに輝かしい偉業をなすだろうと予感した。あまたの勝利を獲得するだろう、外敵の征服にとどまらず、王国の民を更生させるであろうと。しかし結ばれて半年も過ぎぬうちに王は死に、王妃は独り、虫の好かない狡猾な宰相とテュルク兵たちの庇護に――そして恐るべきガズナのマフムードの慈悲にゆだねられた。
 その慈悲なるものが、降って湧いた問題であり、王妃の最たる重荷だった――おそらくは。王妃は五百人のテュルク兵をもって、かの世界を震撼せしむる者――獰猛なテュルク民族中随一の猛者にして偉大なる神のいかずちと対峙せねばならないのだ――彼を宥める方法がみつからないかぎりは。これには、つぎのようなわけがあった。
 マフムードが王のなかの王であるように、アブー・アリー・イブン・スィーナー〔(原注 アヴィセンナ)〕は哲人のなかの哲人であった。王妃が結婚生活を営んだいく月かのあいだ、この当代きっての寵児は、ありがたくも王妃の夫君の宮廷に来臨の栄を賜った。それは隠そうとしてもおのずから顕れる輝きであり、マフムードその人の誉れにも劣らぬ大きな名誉だった。イブン・スィーナーのいるところ、すなわち世界の知の首都である。そしてマフムードは、おのれの都ガズナが、いかなる点においても、地上のいかなる都市よりも優れていなければ我慢ならなかった。余こそ時代の太陽であり、対抗するすべての太陽は、その輝きを余の光輝に添えよ。
 マフムードはイブン・スィーナーを欲した。そしてマフムードは、欲したものは求め、求めたものはかならず手に入れた。ガズナの四百人の詩人たちは、ある者は蛮族の真珠と黄金をもって誘惑され、ある者は征服された王国から貴賓待遇の虜囚として迎えられるなどして、イスラムの家じゅうからかきあつめられたのであるが、偉大なるイブン・スィーナーがガズナよりほかの宮廷や都に留まるあいだ、主人の心腑を噛むであろう嫉妬をやわらげる魔法を知るものは、四百人のうちにひとりもいなかった。詩人ども――は!――彼らの機知や口論は格好の慰みだ。彼らを養い、居並ばせ、闘鶏のように戦わせ、ときに鞭打ち、ときに黄金を口につっこんでやるのは、余が優れているという気持ちを膨らませてくれる。宮廷に二十の二十倍の詩人を飼って肥え太らせておくのは、インド征服に劣らぬ自慢の種になる――それに、詩人は美辞麗句のみなもとであり、彼らの奉仕がなければ、美名も時や距離を越えられない。しかしイランのどの宮廷にも詩人はごまんとおり、だれより優れていた余のフィルダウスィーはもうおらぬ。
 いっぽうイブン・スィーナーはといえば、唯一無二の人であった。詩人であること、しかも、もっとも才ある詩人であることも、彼の業績のなかではいちばん小さなものにすぎない。あらゆる学問に通暁し、神秘の知識でさえ例外ではなかった。中国からアンダルシアに至る世界に、彼の名声にほんのわずかでも比べられる者はいない。もっとも優れた医師であり、哲学においてはアフラートゥーンならびにアリストテレス以降の最高峰だった。――不羈にして贅沢と蕩尽を好む面もあり、暮らしぶりは王侯よりも王侯らしく、各方面に抱える門弟は数知れない。華麗きわまりない存在であるが、派手な生活の暇を割いて世に怒濤のごとく送りだす書物は、十人の思索家が束になって生み出すものよりも十倍も高遠かつ十倍も機知にあふれ、しかも十倍の量があった。なんなら、イブン・スィーナーと交換に、征服したヒンドゥスターンの地をまるごとくれてやっても安いものだ。あの男を手に入れたなら、余の野望もいくらか鎮められ、誉れはいやますであろう。マフムードは豪華な贈り物と有無を言わせぬ命令を持たせた使節を送った――イブン・スィーナーは、ただちにガズナに向かうべし。
 王と妃は哲人を呼びにやり、マフムードの使節の口から使いの旨を述べさせた。おそらく当時のイスラム世界に――すくなくともアッバース朝イスラム帝国に――マフムードの命令を一笑に付せる者がいるとすればただひとり、それがイブン・スィーナーだった。もっと器量の劣る人物の場合なら、そのような無造作な反抗は肥大した虚栄心ゆえであり、おのれの不滅の輝きと成功が仇になったとも考えられるだろう。だが、彼のうちに追従とも恐れとも無縁の造化の傑物を見てとらぬうちは、イブン・スィーナーを理解したとはいえない。ごく自然に世界の征服者を足下の塵とみなす――そして、そのとおり相手に告げるような人間なのだ。イブン・スィーナーは悠然と使節に向かい、主の宮廷は学者のいるべき場所ではない、優れた仕事など生まれようがないと告げた。このイランにさえ、文明の尊厳を損なうほどテュルクの兵隊があふれているというのに、いかでかテュルクの蛮風の海のただなかに溺れ、奴隷の奴隷の息子〔(原注 マフムードのこと。彼は事実そのとおりの者であった)〕の奴隷とならん。スルタン・マフムードは、みずからがフィルダウスィーに与えた侮辱や、アル=ビールーニーが二度にわたって真実を予言したばかりに被った災難を顧み、おのれより優れた者と交わろうなどという望みは捨てられるがよかろう。[#フィルダウスィーから『王書』を捧げられたマフムードは、はじめ充分な褒賞を与えなかった、また、マフムードがどこから四阿を出るかを正しく予言し、さらに宮殿の真ん中に投げ落とされることも予見していたビールーニーは、かえってマフムードの不興をかったとニザーミー『四つの講話』に見える。]
 これらの言葉すべてにアル=カーウース王は満腔の同意を示し、ガズナの王を愚弄するために、みずから辛辣な言葉を添えた。驕れる若豹のごとき君主たる彼自身も、和平の紐に繋がれながらも、しきりと東を狙って焦れていた。マフムードの野心は、意志と気概のある諸王にとっては看過しがたくなりつつあった……。もちろん、ゆきつくところは宣戦布告でしかない。そうなれば、彼、アル=カーウースはトゥラーンのテュルク兵を望むだけ調達できただろう。大平原の剽悍な弓使いに槍使いたち、その十人中九人は、サブクティギーンの息子に対して、すでに憎しみの火種を燻らせている。アル=カーウースは彼らを従え、率いただろう……勝利へと? それはわからない。マフムードに勝利した者はまだひとりもいなかった。とはいえ、マフムードが生きているかぎり、つねに勝機はある。すくなくとも、名誉ある敗北への道は開かれている。――そのころ、スルタン・マフムードはインドにかかりきりだった。いにしえのイスカンダル大王の偉業を超え、葡萄を喰らうように熟れきった帝国を平らげるつもりだった。マフムードは、当座はアル=カーウースの無礼を忍ぶしかなかったが、つぎはあれらペルシャの小君主たちの番だ、それも遠からぬうちに、と心に期した。そしてたしかに機は満ちたのだった。アル=カーウースは、マフムードがガズナに戻るのを待たずして死に、そのひと月の後、知らせが届いた。イブン・スィーナーとしかるべき貢ぎ物を引き渡すべし。さもなくば、わが軍勢がおまえたちの都を塵まで根こそぎにするものと心得よ。
 王妃になにができようか? イブン・スィーナーは王が身罷る前にすでに去っていたのであり、もしそうでなかったなら、あの痛恨の不幸も起こらなかったはずだ。なぜなら、かの偉大な医師はかならずやアル=カーウースを癒やしたであろうから。そして要求された貢ぎ物については、それほどの黄金はイランにもトゥラーンにもありはしない。逃げて、王国をマフムードにゆだねようか? 王妃は亡き夫を思い、忘れ形見のいまだ生まれぬ息子を思い、兆した考えをとんでもないことと退けた。では戦う?――ああ、でもどうやって? テュルク兵の長オグル・ベグになにができよう――そもそも、彼と部下たちが味方についたとしてさえ――五百人の手下でガズナの何千の何百倍という兵を相手に? さらに、もし軍勢がいたとしても、宰相のフセイン・アル=アジャミは――と王妃は考えた――勝手にマフムードと話をつけ、なんの良心の呵責もなく、わたくしと、息子と、王国を売り渡すだろう。
 王妃はスルタンの書状に、つぎのように返した。

 哲人アブー・アリー・イブン・スィーナーは、とうにわたくしどもの宮廷を去り、いまはメルヴかレイかサマルカンドか――わたくしどもは存じませぬ。スルタン・マフムードは信仰の偉大なる守護者、威光ならびなき君主にして、名誉を重んずる方でもあらせられますが、もしそのお方が軍勢を率いて此方においでになるとあらば、かよわき女性の身のわたくしも、一戦を挑まねばならなくなりますゆえ、スルタンのお手になさる勝利がいったいどのようなものであるか、とくとお考えくださいませ。わたくしが勝者とならば、わたくしにとっては最後の審判の日までつづく誉れ、いっぽうスルタンが勝者とならば、ひとびとは言うでしょう、「彼は女を征服したにすぎない」と。そして、戦の帰趨は神の御手にあり、前もって結果を知ることは叶いません。されば、強き者を相手に戦をなさいませ、さすれば、勝利のあかつきには、敗者の強さがあなたさまの強さとなりましょう。しかして、弱き者には寛大なる友情の手をさしのべてください、さすれば、ひとびとはあなたさまの度量を称え、あなたさまの栄誉は不滅のものとなるでしょう。陛下、わたくしどもは、あなたさまの友情を期待しております。なぜなら、疑いなく、わたくしどもは弱者でございますゆえ。
 されど、わたくしどもは、王国をさしだすことはいたしませぬ、それはわたくしどものものではなく、いまだ生まれぬハサン・アリー・イブン・アル=カーウースのものなのです。とはいえ、スルタンの賢明かつ鷹揚であらせられることを知る以上、この件でわたくしどもに心配はなく、ただ平穏と信頼の長椅子に寛ぐばかりでございます。

 これに返信はなかったが、マフムードが進軍をつづけているのはわかっていた。いま王妃は、兵を挙げてマフムードに対抗せんとの考えを巡らせていた。王妃は手を叩いて奴婢を呼び、宰相を探しにゆかせた。
 この宰相アジャミは、夫君の父王の下で地位を得て、老王の力が衰えてゆくあいだ、千の根を下ろしてみずからの権力を根付かせた。非常に老獪な宮廷人であり、たとえどこかで職権を踏み外しているとしても、彼自身の身内にさえ、しかとは悟らせなかった。アル=カーウース王はいずれ宰相を罷免したかもしれないが、その機会が訪れる前に亡くなり、王妃は彼に頼らざるをえない立場に残された。宰相にそれほど信がおけないとしても、では、ほかにいったい誰を信じればよいというのだろう? 彼は王妃には常に慇懃だったが、王妃の意志をそれとなく阻んで実現されぬようにしていたのも、すべて彼の仕業と疑われた。――端正な老人で、齢はおそらく六十ほど、優雅で如才なく、白い顎髭を蓄えた鷲鼻の男だった。高貴な容貌と言えなくはないにしても、自己愛と奸智を隠しおおせぬ眼の狡猾な沈着さ、そして下唇の好色なふくらみが、それをだいなしにしていた。彼の強みは陰謀に、執拗さに、なにものにも乱されぬ完璧なふるまいにあり、また、何年もひそかにつけねらい、けっして計画を諦めない意志の力にあった。
 形式ばった挨拶が済むと、王妃は宰相に下問をはじめた。伝令たちはもう発ったのか? 返ってきた答えは? 領内の男子は集結しているか? 集められたのはいかほどか? ――ああ、われわれは慎重にことを運ばねばなりません、と宰相は答えた。とりかえしのつかぬ一歩を踏み出し、とりかえしのつかぬ災いを招く前に、よく考えなければなりません。マフムードとその軍勢が近づいており、対抗のすべはほとんどありません。進軍のすばやさ、マフムードの名に対する畏怖、長く彼を打ち破った者はいないこと――これらすべてを計算に入れなければなりません。国中に蔓延する気分、貴族たちの考えは――王妃さまのしもべたるわたしが周到に聞き出したかぎりでは――かくのごとしでありまして、王が亡くなられた以上――
 王妃は宰相をさえぎり、王は、いまだ生まれぬながら、たしかにいると思い出させてやった。
 宰相は深く頭を下げたが、なにか思うところのあるようすだった――そつなく、耳に痛いことはあとにしようとでもいうように。このようなことがらは神の御手にあり、だれが不確実な運命の上に楼閣を建てられよう。宰相は気をとりなおして搦め手に向かい、王妃の美しさについて、如才なく――いとも如才なく口にした。それとなく、しかし言わんとするところははっきりと悟らせ――しかも脅しつけるように――このような美しさがマフムードに知れたら、どうなることかと仄めかした。しかし、その言葉の真実であることは、だれに疑えよう。王国は併合され、王妃そのひとはガズナへ、スルタンの後宮へと連れてゆかれるだろう。そして王妃の息子は、生まれたあかつきには、奴隷にされるか殺されるか――よくて、なんであれマフムードの選んだ取るに足らない地位につけられるだけのこと。――「ではアジャミよ、そなたの提案は?」王妃は訊ねたが、意に染まぬ答えが返ってくるのは、もうわかっていた。――宰相の提案は、このうえなくうやうやしい献身の言葉に載せられていた。多くの有力者たちがすでにわたしに持ちかけた話でありますが、このようなことを申し上げるわたしの言葉が、謙譲の真珠、愛の紅玉となりますよう! つまりは、王を定めるべきだということです。王の不在ゆえに無関心と不安が広がり、ますます大きくなろうとしているのであり、王がおわせば、民は彼を中心にして結束するでありましょうし、サブクティギーンの息子も、おそらく彼をむげには扱わないのではありますまいか。どうか王妃はしもべを玉座に登らせ、王としてマフムードにまみえられるようおはからいください。さすれば、王妃さまの輝くばかりの美しさは、世界の征服者の焼き焦がすまなざしから隠れたままでいられましょう……。
 宰相の口上を聞いているうちに王妃は寒気を覚えたが、内心の嫌悪を抑えて平静な声と表情をよそおい、言葉を返した。わたくしは寡婦となってからまだふた月も経ちません、まだ喪に服す時間が必要です。けれど、その提案については考えてみましょう……賢明な案に思えます……すこし経てば最良の案だと思えるようになるかもしれません。わたくしに仕え、忠実でいてくれるそなたが、わが君アル=カーウースにも、アル=カーウースの父君アル=アミーンにも忠実であったことを思うと、おおいに心が慰められます。ああ、名誉と忠誠とは、なんとすばらしい宝でしょう! それに比べれば、王国中の富も、王位でさえも、ムンキルとナキルが墓を開く日には、人の徳を量る天秤に蟻ほどの重さも加えません。友人らが、彼はいかなる富を遺したかと訊ねるところ、天使たちは、彼は生前にいかなる善行をなしたかと問うのです。そなたが王子の安全のために何でもしてくれると信じてかまわないのだと、わたくしは知っています。――これに宰相は重ねて王妃への献身を口にすると、その場を去り、さらに陰謀を巡らしに行った。あやつがわたくしをマフムードに売るであろうことは信じて間違いあるまい、と王妃は考えた。
 王妃は友なる薔薇のあいだを歩みつづけた。ひょっとして、薔薇たちが慰めや助言を囁いてはくれないものか……。ああ、この厭わしい対価を支払わなければならないのだろうか、マフムードか、あるいはアル=アジャミに! ……アジャミについてはある程度わかっていたので、要求を呑みさえすれば、彼がその奸智で自分を守ってくれるだろうことは疑わなかった。アジャミはおそらくマフムードにもまして確実に、彼のやり方で戦いに勝利するだろう。しかし、アジャミはわたくしの息子をどうするつもりだろう。王妃は身を震わせた。おのれ独りの身なら、むしろガズナの後宮のほうが好ましい……しかしやはり、心配は息子のこと……。――白薔薇が王妃に花房をさしのべ、杏色の芯の薔薇が芳香を送り、真紅の薔薇は、とおりすぎざま、そよ風に揺られて、その誇らかな花をもって王妃の頬を撫で、移った涙の露に濡れた。わたしたちはともにイランの女王! 薔薇は囁いた。
 いいえ、わたくしはこの価を支払いはしない。衛兵の長、オグル・ベグがいる。金さえ積めば頼れる相手――宝物庫の中身で話をつけて、配下のテュルク兵たちとともに、わたくしも戦場にうって出て、死を求めよう。そうすれば、わたくしも息子もともに天国でアル=カーウースに会えるのだし、あの人が褒めてくれるのはわかっている。――王妃はテュルクの長を呼びにゆかせた。
「オグル・ベグよ」まかり出た大男に、王妃は切りだした。「そなたの生業の如何は、そなたの信義と武勇の評判にかかっている。そなたはこれまで、わたくしの夫と、それにわたくしからも報酬を受け取ってきたけれど、いまじゅうぶんな働きをしてくれるなら、報酬を倍にもしよう。倍?――わたくしの宝物庫のすべてをやってもよい、サブクティギーンの子マフムードを負かしてみせたあかつきには」
「御前」男は思考の巡りの遅いたちらしく、口重く答えた。「それは大軍勢を募らねば叶うまい。それでもおれは、すぐにでもやろう、権限さえ与えられるなら。しかし、たいへん困難な仕事になる。ガズナの奴隷の子は名高く、恐れられているから。トゥラーンの男たちは王より低い身分の者の旗印には集まらぬだろう。そしてこのおれも、金などよりは素晴らしいもののためになら働こう……あなたを愛している。おれを王にしてくれ、そうしてくれるなら、ともに行き、マフムードに対してさえ勝ち目のあるだけの軍勢を集めよう。さもなくば、ガズナに剣を捧げるしかない。ほかのところでは旨味がないからな」
 そのようなことは珍しくもなかった。テュルクの傭兵の頭目たちはペルシャにあまたの王朝をうちたて、侵略を進めるのと同じくらい精力的に――知的にとは言えないにしても――美術と文芸を後援した。この鈍重な、がに股の戦士は、おのれと配下の兵士らを敵に売る用意があると白状したにもかかわらず、洗練を極めた自国の男の口説きに感じたような恐れと嫌悪をかきたてはしなかった。この男のぶしつけさは、宰相の如才なさよりましだった。傭兵はおのれを売るのが仕事であり、そうするだろう。しかし彼は、女主人を売らぬだけの規範は備えている。
「条件は絶対ですか?」王妃は訊ねた。
「条件は絶対だ」男は答えた。「愛のためだけではない、あらゆる見込みを考えた結果だ。これ以外の方法では、兵を集められない」
「では、配下の者たちを率いて、わたくしとともにマフムードを迎え撃つつもりはない――見返りにわたくしの宝を受け取るつもりもないと?」
「死んでは富も意味がない。条件は絶対だ」
 それでは望みはないのだと、王妃は男を下がらせた。だがその姿が視界から消えるまぎわに、ふと気まぐれで相手を呼び戻した。
「オグル・ベグよ、そなたが来る前、ここに宰相のアル=アジャミがいた。彼もわたくしに案を奏上したのだけれど、それはそなたのものと同じだった。彼もまた王に、そしてわたくしの夫になりたいと」
「地獄に奴の寝椅子が用意されるように!」テュルクの男は唸った。
「聞きなさい」王妃は言った。「わたくしの背の君は、ほかの男たちとはまったく違っていた。わたくしがあの方に与えたものを、ほかの男に与えるつもりはない。オグル・ベグよ、わたくしはアル=アジャミとは結婚しないし、そなたとも結婚しない。だから部下とともにマフムードのもとへゆき、わたくしとわが君に仕えたように、マフムードの報酬を受け取るあいだは彼に仕えるがよい。それでも、ゆく前にひとつ約束してもらいたいことがあります」
 テュルクの男は頭を垂れた。
「ガズナの王が門前に現れるまではここにいて、それから彼のもとへゆきなさい。アル=アジャミからわたくしを守ってもらいたいのです」
 オグル・ベグには、修辞を操る能力など犬ほどもなかった。他の者なら「おお素晴らしき月よ」だの「天国の園より生いし鬱金香チューリップよ」だのと言うところ、彼はただ「留まろう。そして御身を悪魔イブリスの子から守ろう」としか言い得なかった。それから、しばらく考え、こう言った。「おれはマフムードのもとへは行かない。御身が望むなら、マフムードも追って来ないところへ連れてゆこう。エジプトか、アフリカか、スペインにでも。道中、だれにも御身に害を加えさせはしない。このおれにせよ、ほかのだれかにせよ」
 しかし王妃は、どこにも逃げるつもりはなかった。

***
 その夜、ふたつのできごとがあった。まず、伝令がマフムードの野営地から戻り、知らせをもたらした。スルタンは王妃の手紙に大笑いしたという。七日のうちに彼は都の門に至るであろう。「われらの友情を期待するだと」スルタンは言った。「疑いなく弱者であるゆえにとな。王妃に伝えよ、われらの友情の価は」――ここで意見を求めて座を見渡した――「何にするのがよいかな、詩人らよ?」ひとりが桁外れの金額を挙げ、別の詩人がそれを倍につりあげ、三人目の、より想像力に恵まれた詩人が声をあげた。「ジャムシードの杯!」――「奴の口にルビーを詰めてやれ!」神に嘉された王は叫んだ。「ジャムシードの杯だ。王妃が杯をよこすなら、王妃か、あるいはわれらが死すまで、われらの友情は王妃のもの、だが、よこさぬとあらば――」マフムードは、フィルダウスィーが壮大な叙事詩に綴ったいにしえの伝説を伊達に読みふけったわけではなかった。詩に詠われたジャムシードの杯は、はるかな神秘に輝く聖杯、アラブに先立ち、ササン朝に先立つ――クセルクセスが兵を率いてギリシャに攻めこんだときになお先立つ、上代の至高の神器だった。条件はただの戯言であり、交渉の余地はない。マフムードはアル=カーウースとイブン・スィーナーから受けた屈辱を拭い去るため、征服を、それも苛烈きわまりない征服を期していた。
 もうひとつのできごとは、つぎのとおりである。オグル・ベグは食事を摂り、一時間ののちにもがき苦しんで死んだ――ようよう練りあげた計画をまさに実行に移そうとしていたときだった。彼はずっと頭の巡りの遅い男だったが、このたびはそれが命取りになった。とはいえ、息絶える前にかろうじて副官である弟に遺志を伝え、自分の仇を取るよう命じた。弟は五人のテュルクの衛兵を連れ、首斬り人の敷物を持ってアル=アジャミの部屋に押し入った。こうして、王妃は夜が明けるまでに求婚者をふたりながら失った。昼前には、オグルがいなくなって規律のゆるんだ衛兵たちが、すこしばかり略奪を働いたのちに逃げ出し、ガズナのマフムードの旗印のもとに走った。
 スルタンは七日のうちに着くと宣言したが、すくなくともこの手のことに関しては、沽券にかけても、言葉よりはるかに上をゆかねば気が済まないたちだった。その日はひっきりなしに、東から馬を飛ばしてやってくる者たちがスルタンの接近を知らせては、都には留まらず、安全を求めてさらに遠くへと落ち延びていった。そして一日じゅう、西の門から都の民が流れ出した。権威を揮う者のいないいま、混乱は恐るべきものになるかと思われたが、夕暮れまで恐怖がまずまずの秩序を保たせた。陽が落ちるころには、王宮の塔から東の地平線上に土煙が見えた。翌朝には、ガズナのマフムードは都の門に至るだろう。昼までには都の中におり、日暮れには――。なすすべもなかった。マフムードのごとき世界を震撼せしむるテュルクの梟雄には、いつの世においても雷光イルデリムの名がふさわしかろう。その打撃は雷のようにすばやく恐ろしく、逃れるすべはない。
 王妃は黄昏の薔薇の園を歩んでいた。しごく平静にして誇らか、いまだ絶望には屈していない。やれるだけのことはやり、ただ、どうにもならなかっただけのこと。策は尽き、明日を生きながらえるすべもなく、ながらえるつもりもなかった。この期に及んで、女王としての覚悟のうえの落ち着きが残った。いかなる運命が体を見舞おうとも、魂は拠り所を手放すまい。天国で背の君とまみえるとき――それも明日にでも!――恥じ入る理由はなにもなく、息子に許しを乞わねばならぬこともない。息子? まだ生まれてもいないが、心の眼には、夫と同じくらいはっきりとその姿が映っていた。死者と未生の者が王妃の伴侶だった。生きて地上に立つのは彼らのため、未来と過去のため。ふたつの世界に同時にいる心持ちがした。ひとつは外側にある幻惑の世界であり、おそろしい幻影と混乱に満ちている。もうひとつは内側の確固とした世界であり、そこには安らぎがある。その内側の世界からは、下の、あるいは外の混乱したできごとを静かに見おろすことができた。なぜならアル=カーウースが隣を歩み、来るべき日の若き英雄ハサン・アリー・イブン・アル=カーウースがおり、三人のために薔薇が咲くゆえに。彼女と薔薇はふたつの世界に存在した。いにしえのペルシャのあらゆる偉業と夢をまとって美しい、これらペルシャの薔薇たち、そしておそらくは彼女もまた、ペルシャの土より花開いたのだ(天幕造りウマルも言うように)

ときに思えらく かくも赤く薔薇は咲かず
いにしえの帝王の血を流せし処ならでは――[#ウマル・ハイヤーム『ルバーイヤート』より]

帝王とはホスローであろう。この薔薇が白いのは、あるいは、ザールの白髪の記念ではないのか、そしておそらく、若きイスファンディヤールが七里程の旅で七つの偉業をなし、運命から黄金の智慧と慈悲を勝ち獲ったがゆえに、これらの薔薇は檸檬色の、あるいは杏色の芯を持つのではないか、そしてこちらの薔薇がかくも赤く、類なく完璧であるのは――斃れた息子ソホラーブに寄せるロスタムの嘆きが凝ったのか、それとも、放たれる輝きは、天国とペルシャのあいだのさらに古い絆を反映したものか――ファリードゥーンの剣、ザールの巨鳥スィームルグの羽根、鍛冶屋カーヴェの前掛け、はたまたジャムシードの七輪の杯の輝きか……ああ、内奥の世界では、貴石や水晶を刻んだ宝や、あらゆる神器がいかに霊験あらたかであれ、これらに優る、あるいはこれらに等しいのは、神秘な霊の美、人の眼が眺められるようにと、庭園に咲く薔薇のひとつひとつをもって神が顕わした美ではないのか? ……ハサン・アリー・イブン・アル=カーウースよ、汝もまた、薔薇に新たな美をもたらさんことを!……
 市中からの荒々しいどよめきが薔薇の園の平安を破って押し入り、恐慌に駆られた官女たちが走り寄ってきた。都に残った住人たちが宮殿を襲う暴徒と化したのだという。どこに身を隠せばよいのか、どうやって逃げればよいのか、だれがわたしたちを守ってくれるのか? 「わたくしがおまえたちを守ります」王妃は言った。「恐れることはない!」宮殿に戻り、宝冠と正装を身につけ、王笏を手にして門までゆくと、すでに暴徒の群がる門を開け放たせ、群衆の前に姿を現した。威厳に満ちた仕草で静粛を求めると、みなが従った。そこで王妃は民に語りかけた。胸襟を開き、彼らを我が子と呼ぶと、聴衆はそのとおりだと感じた。王妃は亡き王がこの場にいるかのように話し、彼らの忠誠を求め、彼らの王となるべき者、王妃がその胸の下に養う者について語った……。盗人や、さらに卑しい生業の男たちが頭を垂れ、毒婦と呼ばれるだろう女たちが子供のように泣き崩れ、王妃が戻るよう命じると、みな黙って立ち去った。この夕べ、王妃をつねの彼女以上のものにしたのは何だったのだろうか? もはや希望の存在しないところまで追いつめられて、彼女はあの神々しい揺るぎなさ、希望がただむなしく約束し、追い求めるだけの揺るぎなさを手に入れた。王妃は希望を必要としなかった、なぜなら内面の真実を我がものとしていたのだから。
 大嵐が夜を吹き荒れ、朝になってみると王宮はひとけもなく、王妃が故郷の山より伴ったふたりの侍女だけが残っていた。王妃はふたりに手伝わせていちばん豪華な衣裳に着替え、王権のしるしを残らず身につけた。世界の征服者マフムードに嘆願者としてまみえるつもりはなかった。謁見の間、玉座の足下に、王妃は自分を見捨てなかった三人目の者を見いだした。それは侏儒のアル=アウフで、杯と鞠をもてあそびつつ、独り喋りちらしていた。このアウフの心はだれにも窺い知れない。言葉を覚えたばかりの子供のようでもあれば、まったくの白痴のようでもあり、またときには愚鈍さを破って叡智がきらめき、彼をとおして天使が喋っているかにさえ思えた。
 王妃はマフムードを謁見の間ではなく、庭園で待つことにした。いまや宮廷の成員のすべてである三人もそれに従った。夜中に吹いた風が狼藉のかぎりを尽くし、王妃が見いだしたのは、灰色の空の下の無惨な光景だった。地面は落ちた花びらでいっぱいで、庭園の美は失われ、薔薇も慰めとはならなかった。白に黄色、杏色、真紅、長い花枝は翻弄され、蹂躙され、夜が明けてから咲きほころんだ蕾はただのひとつもなく、花はどこにもなかった。いちばんのお気に入りの茂み、あの糸杉の蔭の紅玉色の芯を持つ輝かしい薔薇のもとへゆくと、高貴な花はすべて美しい花びらの雨となって散った後で、たったひとつ蕾が残っていた――しかしこのひとつは、花開いたとき、どんな薔薇となることだろう! 王妃は蕾を折り取り、悄然と四阿の長椅子へ歩みを進めた。前途を暗示するかのような薔薇の凋落があまりにこたえ、昨晩に彼女を支えた真実は、もう心の目に映らなかった。
 王妃の足下にアル=アウフが駆け寄った。彼は庭にいるあいだずっと、きょろきょろしながらお喋りをつづけ、尋常の人間には理解できない彼だけの――あるいはアッラーより課された――務めに忙しかった。こんどは、侏儒はなにかとびきりの考えを思いついたらしく、さも得意げにそっくりかえった。この世の奇跡よ、ご安心めされ、と彼は言った。ごらんください、ここに天があなたさまを守るために遣わした勇敢なアル=アウフがいます。このアル=アウフが出て行って、おなじみのお喋りでサブクティギーンの子をあしらってやりましょう、王妃に代わってあの悪魔シャイターンの子と話をして――奴を押さえつけてやりましょう、それもきつく! そこで侏儒は雄鶏のごとく、ときの声をあげたが、なんのつもりか、なんの意味があるのか誰に知れよう。いやいや、押さえつけるのではだめ、それではマフムードが萎れてしまう、こういうことには、もっと微妙な手を使わないと、真珠のなかの真珠は、天の使いアル=アウフの智慧を信じてくださらなければ。アル=アウフはマフムードのもとに、奴の所望するおもちゃを持ってゆきましょう。どうぞジャムシードの杯を届けさせてください。つまらないものですが、あの悪党を宥めるにはじゅうぶんでしょう……。そして侏儒はひざまずき、王妃の手にした薔薇の蕾を受け取ろうというのか、両手をさしだした。侏儒の霊感だか痴想だかにかまう気分でなかった王妃は、蕾を渡して告げた。「よろしい、行きなさい!」もし彼がマフムードのもとへゆくなら、宮廷に居場所を与えられ、手厚く、すくなくとも公正に扱われるだろう。侏儒はふんぞり返って出て行き、静寂を取り戻した王妃は眠りに落ちた。

***
 王妃が目覚めてみると、庭園は明るい陽光に照らされ、美々しい近衛兵たちがたむろし、目の前に堂々とした武人らしい男が黄金の鎧に金襴と緋の寛衣で総身を包んで立っていた。猛々しい風貌だが、いまは尊敬と畏怖に表情が和らいでいるため、他のときであったなら隠れていたのかもしれない温情と寛容をも具えているのが見てとれた。
あて なるイランの月よ」男は言った。「ゆめ疑いめさるな、われここに来れるは恭順を誓うため。汝こそは征服者、汝こそは豊かなる富より、われに神聖なる賜物を頒け与えし者……」
 それまで王妃の眼はひたすらガズナのマフムードに注がれていたが、マフムードの指さす方を見やり、アル=アウフが豪華な衣裳を着せられてスルタンの左に立っているのを認めた。侏儒が庭園を去った後、彼の口は三たび褒美で満たされた。一度は菓子で、一度は真珠で、一度は黄金で。さらに彼は――王妃からマフムードへの贈り物であるゆえに――イスラム世界でもっとも強大な王朝の宮廷侏儒の主席に据えられたのだった。
「侏儒のやからの宝玉よ、覆いを取りたまえ、王妃がいまいちどご自分の賜物をごらんになり、マフムードの友情がこのような宝に価するかどうか、仰せになれるように」スルタンが言うと、アル=アウフは手に捧げ持った物から金襴の覆いを取り去った。
 ガズナの貴族の精鋭たるマフムードの美々しい近衛兵たちがいっせいに平伏し、恭順の意を示した。スルタン・マフムードは頭を垂れ、眼を覆って耐えがたい光輝を避けた……。落日よりもまばゆい紅玉、燦然と光を放つ器、その輝きは世界に喜びを送りだし、麝香と精油と白檀の妙なる香り、イズラフェルの歌声のごとき、ガブリエルの天国のリュートのごとき音楽を漂わせた。それはたとえようもなく美しい七重の輪に囲まれて輝いた……そしてかの真紅の薔薇、イランの花のなかの花だけが、いかなる魔法によって王妃がジャムシードの杯を花開かせたかを知っていた。



底本:The Secret Mountain and other tales Faber & Gwyer, London 1926
翻訳:館野浩美
2017年5月6日公開

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