エヴァン・レイションは横になり、自分でもわかっているとおり、遠からず死を迎えようとしていた。前日の夜、仮住まいの家に戻ったときには、飲むのはもうこれきり、拘置所の厄介になることも二度とないと、はっきりと自覚していた。それから固い床で夜を過ごし、咳こんでは血を吐いて苦しんだ。それでも、ともかく屋根の下で雨露をしのげるのは、どん底にも恩寵はあるという証拠だった。かつて彼は、その家の女主人をあやういところで地獄行きから救ってやったことがあり、女主人は恩を忘れなかったのだ。
 死とは――なんだろう? 以前は知っていた。しかしいまは――まあ、どうだっていい。すくなくとも休息ではあるかもしれない。地獄へ落ちろ! 休息なんて、なにを期待しているのか。おれにも魂ってものがあった――昔は。死を求めはしなかった――似た境遇の連中は毎日のように死に急いでいるが。欲しいのはしがみつくチャンスだ。そう、心底の望みはそれだ。戦いつづけ、死ななくて済むかもしれないという、なけなしの希望にすがって――結局はくたばり、しまいには――後悔する。ああ、くそ、くそ、くそ、ろくでもない屑みたいな人生だった。
 走狗アーム・ダーネイ[#フランス語。字義的には「呪われた魂」]、まさしくそのとおりだろう。およそこれ以下はないほど卑小な人間――それでもまだ人間ではある。さらに低劣な種族もいる――社会的な成功と栄華という美々しい衣をまとい、いわば輝くこと――そして誘惑することを仕事にしている連中だ。エヴァン・レイションがそんな唾棄すべき高みに昇らなかったのはたしかだ。通りを歩けば子供たちに囃したてられ、治安判事の前へ“泥酔および風紀紊乱のかど”で引き出される、その手の輩だ。貧相な顎をして、情けぶかい聖職者さまとすれ違えば「哀れな奴」とのお言葉を頂戴するのは必定だった。
 横たわる彼を復讐の三女神が訪れて、罵り、嘲った。アイスキュロスの悲劇は

王侯の綺羅を纏いて堂々と来たる[#ジョン・ミルトン "Il Penseroso" より]

とはいえ、貧民街のみすぼらしいひと間にアイスキュロスの悲劇が繰りひろげられるのを目撃する者は少なかろう。しかし、たしかにそこで、縛られたプロメテウスを禿鷲が苛み、オレステースは暗い思考のエーゲ海を渡って逃走したのだ。はるか高みにプロメテウスのために嘆く神々の姿がなく、オレステースに応える楯持つパラスもいなかったとしたら驚きだ。
 負け犬! 負け犬! みじめな負け犬! 復讐の女神たちは責めたてた。おまえの高い徳はどこへ行ったのだ。繊細な詩の一節は。理想に燃えた修辞は。――返す言葉もなかった。街でも弁舌なら最高の説教師になれただろうにと、そう噂された頃もあった。もっとも、その当時でさえ、彼はすでに堕落し、高い望みは潰えた後だった。なれただろう?――じっさい、なったのだ! 〈酒のうちに真実あり〉と道学者たちも言っている。“なかば酔っぱらい”ながら、言うことは“まことにもっともらしい”と、もっぱらの評判だった。自らが語ることを心の底から信じていたし、おおいなることを語った。しかしそれも、むなしく蕩尽された宝の残骸にすぎなかった……。
 それで、どのくらい経ったんだ? 復讐の女神たちは嘲った。おまえがリゾルヴェンの灰色の家を出てから、詩を書き付けた紙の束を鞄に詰め込んで、あたりには何千という未だ書かれない詩が漂い、見いだされるのを待っていると確信していた頃から? どれくらいになるのだ、酒浸りの役立たずめ、おまえが世界にむけて新しい光と美を歌おうとしていたときから?
「三十年」エヴァン・レイションは呻き、惨めな気持ちで眩しい日々を思い出した。その頃、彼にとっては、外界も澄みきって、輝かしい聖霊の放つ光に満たされていた。余人の目には見えない夜明けと日暮れに親しみ、おのれの目に映るものを他の人間に感得させる才にもこと欠きはしなかった。彼は大いなる希望を歌いあげた。作品には、若書きゆえの欠点もありながら、なにか現代の枠には収まらない、驚嘆にあたいするものがあった。彼はなんの変哲もない市井の人々に、いにしえの半神たる英雄たちにも似た美と威厳を見た。彼にシェリーの再来、「美しくすばやい豹のごとき魂」[#シェリー "Adonais" より]を予感した者もいたのだ。
 しかし予感は無に帰し、豹のごとき魂は息の根を止められた。それには、ほんの数年の都会暮らしでじゅうぶんだった。いらい、堕落するいっぽうだった。彼には世界でなすべき仕事があったのに、なにもなしえなかった。
 傍目には極北のオーロラを冠として戴くように見え、内面では茨の苦しみに悶える、そんな人間がいる。“破滅的な天稟”と呼ばれるものは、身に備わった特質というよりは、ときに訪れる美の幻影である。オシリスとティフォンが同時にひとつの国に現れることはまれとはいえ、繰り返し繰り返し、ひとつの肉体の中に現れる。エヴァン・レイションの場合もそれだった。冠は輝きだしていたが、茨の苦しみだけが増した。彼にはたしかに天稟があり、それが破滅のもととなった。そしていまビュート・ストリートの裏小路、埠頭ちかくのみすぼらしい部屋に横たわって死んでゆこうとしているのは、ティフォンの勝利だった。
 それでもなお、オシリスは千の命を秘めており、ときに殺しても死なないしぶとさを見せる。たとえ四つ辻にオシリスの屍が埋められるのを目のあたりにしたとしても、その場所を通るたびに足下に蠕動を予期せずにはいられない。またオシリスの墓穴の上に石が据えられるのをたしかに見たとしても、その後あたりから聞こえてくるのは、ただハイエナが吠え、うろつきまわる音にすぎないのかどうか、けっして確信は持てない。エヴァン・レイションは自分が死にかけているのを知っており、哀れっぽい泣きごとを並べた。それはただひたすら己の境遇を嘆いたにすぎないが、同時に彼の奥底でオシリスが反攻に転じたことの顕れでもあった。堕落と転落の三十年、どん底としか言いようのない十年近い歳月も、オシリスに自分は死んだのだと納得させるにはじゅうぶんではなかったのだ。
 そんなふうに午前中が過ぎてゆき、午後になって、神の僕であるキャプテン・イライアス・イライアスがやってきた。


 まず、ケルト的な霊界観と、いわゆるカレディグルウィズ・カムリ――つまりウェールズの農民に特有の人情があった。少年時代を過ごしたカーディガン湾岸のカルヴァン派教会が前者をはぐくみ、後に海上で長い夜の見張りをするあいだ、霊魂や精霊と取っ組み合った経験が仕上げをした――そうしていまの彼ができあがった。十年前に商いへの奉仕から足を洗い、グレインジタウンに家を借り、自身の言では、主への奉仕に身を捧げるようになった。つまり、足繁く貧民街に通い、病人や半死人――彼の情けにすがるほかない寄る辺なき者なら誰でも――を探しだしては、情愛深い気質からくるこまやかな気配りで生活の援助を与え、病状がそれほど酷くなければ、船乗り時代の薬箱とカーディフの立派な船オーヴィンガム号の船長兼船医だった経験を活かし、みずから治療を施すかたわら、病人の枕もとで炎のような想像力をふるって大嵐と血の雨を解き放った。「炎のような」想像力という言葉がまさにふさわしい。ホーン岬沖をはじめ、あちこちで嵐に揉まれ、陸では荒っぽいこときわまりない洗礼を幾度となくくぐり抜けたおかげで、地獄ゲヘナの地理なら知らぬ所はないといっても過言ではなかった。海を知り、貧民街を知り、ムーントとアベルポルスのあいだにある崖や細道を知り尽くしている、すくなくとも以前はそうだったが、地獄にはさらに詳しかった。彼は心のうちで冥界のあらゆるホーン岬を回った。それも一度ならず、十に余るほども。極地から押し寄せる猛り狂う風と黒い波濤が、灼熱地獄の炎の嵐を、永遠の破滅の圧倒的な荒廃を描写するすべを教え、そそり立つ波の山に挟まれた恐るべき谷間から、底なしの地獄のなんたるかを学んだ。ダンテも、いっそう荘厳な陰鬱さで身を鎧ったミルトンでさえも、キャプテン・イライアス・イライアスの興が乗ったときほど鮮烈な描写はできないだろう。いかれた、斜視の、茶色い顎髭の、心優しい断罪の使徒よ、これほど疲れを知らぬ慈悲と忌まわしい残酷さの報いに、どんなカルマを負うのだろう!
 キャプテン・イライアスは、ずっと以前から獲物としてエヴァン・レイションに目をつけていた。ときには獲物が泥酔して、すっかりおとなしくなったところに行き合いもし、内心で歓喜の叫びをあげたこともあった――またひとつの魂をサタンの鉤爪から奪い返してやれそうだ。しかし、たいていの場合、哀れな男は発作的なエネルギーの閃きを見せて刃向かってくるのだった。墓穴で身じろぎするオシリスというわけだ。その日の午後、キャプテン・イライアスはひと目見て、小競り合いの時は終わり、本格的な戦いが始まるのだと理解した。まずは、浮き世の義理と良心に照らしてしかるべき、いわば予選を終えることだ。彼は最寄りの医者――個人的な知り合いでもあった――を呼びにやり、予期したとおりの答えを得た。レイションはあと一日も持つまい。救貧院の施療所? それでは計画に都合が悪い。彼ひとりで、その場で、すべての面倒を見るつもりだった。まあ、落ち着いて。ともかく、わざわざ病人を動かしたところでどうしようもない。それに、カーディフじゅうを探しても、気のいいイライアスほど優れた看護人はいない――例の忌まわしい特技さえ控えるなら。「じゃあキャプテン、哀れな男に慈悲をかけてやれよ、自分だったらして欲しいようにな」ドクター・バーナムは帰り際に言い、最後に独り言でつけくわえた。「けったいな奴だ――タフィ[#ウェールズ人全般のあだ名]はみんなそうだが」
 慈悲深くあること、それこそキャプテンの意図だった。いつでもそうだ。今回はあきらかに、キャプテンの神学の恐ろしい面ではなく、穏やかな慰撫のほうの出番だった。いつもそうだ――つねに思いやりをもって情け深く――そこで彼は仕事にとりかかった。まず家の女主人を呼んで気前よく金を渡し、しばらく外出するあいだ病人を看ていてくれるよう頼んだ。それから辻馬車で出かけ、小一時間ほどで、野宿用の簡易寝台と寝具、そのほか要りそうなものをすべて運んで戻ってきた。家政婦がいなければ、レイションを自分の家に連れて行っただろうが、やせぎすの家政婦は潔癖で、過去の例では、毎回おかんむりだったから、このほうがよいと思ったのだ。熟練の看護師の手際と母親のこまやかさで患者の服を脱がすと、体を拭って寝かせ、そのあいだもずっと、ふたつの言語で優しい慰めの言葉をかけつづけた。それが終わると、眼鏡と大判の聖書を取り出し、朗読を聞かせ、朗読のあとには長々とした説教を聞かせた。キャプテン自身は、依然として優しく親切にしているつもりで、心は憐れみでいっぱいだった。神はかくも世界を愛したまえり[#『ヨハネによる福音書』三章十六節]。それがキャプテンのお気に入りの聖句だった。
 しかし、長年の習慣と生来の気質を前にしては、善意などなにほどのものだろう。カーディガンの小さな教会のフウィル〔(原注 エネルギー、説教者の霊感または流れ出る弁舌、そして船の帆がはらむ風を意味する)〕が彼をとらえた。帆をふくらませる風は、ホーン岬を巡る烈風だった。天国のくだりを早々に片づけ、地獄に下ってゆくと、嬉々として習い性の面目躍如たるところを発揮した。彼には言葉で絵を描く力があったし、実際にそうした。滔々と狂気のあらゆる面の恐怖を描写した。灼熱地獄のおそるべき栄光のかぎりが貧寒とした小間にもたらされた。意識の水面のほんのわずか下でエヴァン・レイションは聞き、見て、感じ、震えあがった。黙せるオシリスは微動だにせず墓所に横たわり、勝者ティフォンは生来の性である瞋恚と陰鬱の滾るままに猛り立ち、のたうちまわった。
 日が暮れる頃、キャプテンはようやく一息ついた。悔い改めた罪人が目の前に横たわっており、キャプテン自身もいくらか疲れたところで、当初の意図を思いだした。すぐさま情深い看護人に戻り、患者の肉体的な欲求を満たしてやると、声に優しい慰めをこめて話しかけた。「だが坊や、おそれることはない。忘れるでない、いかに神が愛し――」云々。薬を一服、それで呻き声と煩悶は収まった。ろうそくを灯し、患者の眼に障らないよう光を遮る。残りについては黙って――すくなくともところどころは黙って――主と議論を交わすこととし、夜通し腰掛け代わりのせっけん箱の前にひざまずいて過ごす腹づもりをした。主はいにしえのファラオの心をかたくなにされた。いま、キャプテン・イライアス・イライアスが主の御心をやわらげられないわけがなかろう。キャプテンは、もっともよく神に理解してもらえるだろう言語としてウェールズ語を選び、あたうかぎりの能弁をふるった。自分の奮闘は天のあらゆる区画と階層にあまねく届くであろう……。
 そうして彼は没頭し、時間が過ぎていった。そのあいだ、やすらかにほうっておかれたエヴァン・レイションの魂は冒険をつづけていた。

 彼は夥しい人々の列に連なって長く退屈な道のりを歩いており、道の左右に広がる湿地は、すこし先であいまいになり、どうやら不可視の領域に消えている――ペナース・ロードと言えば、土地勘のある者には見当がつくだろう。しかしやはり、ペナース・ロードではないのもわかっていた。それは死んだばかりの者たちが通る道で――彼もその一員だった。なぜといえば、前方には――ただし、せいぜい三マイル先などというものではなく、徒歩で何日もかかるほどの距離だが――それでもはっきりと見える――天の都、新エルサレムがそびえ立っているのだ……崖の上高く、目印となる聖アウグスティヌスの教会が中心に他を圧して鎮座するさまは、まるでうずくまったアヒル、首を切られたアヒルのようだった。みなすでに延々と歩きつづけていた。どれほど経ったころだろうか、その天上的な光景が見えてきたのだ。たぶん、クライヴ・ストリートのはずれ、路面電車が曲がるところで鉄道の高架の下をくぐってからではないかと思ったが、はっきりとは思い出せなかった。
 あらゆる種類の人間がともに歩いていた。前のほうから司祭がやってくる途中で、アイルランド人やちらほらといる外国人を列からひっぱり出していた。なかなかに堂々としたようすで、どこか新兵を従えた曹長を思わせた。バプティスト前進運動にも加わっていたティモシー・スリムギル師は、福音派全般のために礼拝もどきを執り行っていた、あるいは執り行おうとしていたが、司祭とは違って規律には頼れず、権威の代わりに熱情と弁舌を駆使しなければならないだけに分が悪かった。後ろのほうで、遅ればせにタンバリンの音があがった。エヴァン・レイションはそういった活動にはほとんど興味を覚えなかった。浪費された年月と魂を思って塞いでいたし、もうすぐレックウィズ・ヒルのふもとかペナース・ドックのあたりで角を折れ、寂しい道を選ぶことになるだろうと知っていた。
 たしかミセス・チャーチル=ペンドルトンといったか、以前に会ったことがある相手がしきりにまとわりついてきて、反なんとか運動に彼をひっぱりこもうとした。何に反対しているのかは、よくわからなかった。たぶん、いろいろなのだろう。夫人はパンフレットを押しつけてきたが、手持ちはまだどっさりとあり、道々ずっと配り歩くのをやめるつもりは毛頭なさそうだった。「たくさん持っていって」夫人は言った。「また印刷できるから、ほら、あっちへ着いたらね」おそらく、天使たちにも反対運動をひろめ、天国を改革しようと夢想しているのにちがいない。レイションが口を開くたびに発音を注意するくせに、話の中身はどうでもいいらしい。そのうち、ティモシー師と口論しているのが聞こえてきて、夫人は居丈高に、あなたの見解は粗野で時代遅れだと決めつけた。ふたりの若い坑夫がサッカーの話をしていた。イングランドとの国際試合が終わるまで、生きていたかったというのだ。グランフ上級議員は、過去の慈善活動について、くどくど話しつづけていた。首尾よくティモシー師をつかまえて五分間ほどねばり、なんとか希望の持てる言質を引きだそうとした。しかしグランフ上級議員の所属は国教会だったし、ティモシー師はうんざりしてきたようだ。師は横目でエヴァン・レイションを見やると、すり寄ってきた。もう改悛の必要はないのが明白な廉直なる議員より、これから悔い改める可能性がある罪人のほうが好ましかったのかもしれない。「親愛なる友よ」ティモシー師は言った。「きみは自分の行き先がどこか、承知しているのかね」「承知だとも」レイションは答えた。「おれは地獄に行くんだ」
 言いきると、まわりにかすかなざわめきが起こるのがわかった。みなが首を巡らし、だれかが口笛を吹いた。近くにいた人たちが、なんとなく距離をおくようなそぶりを見せた。あきらかに、彼と見通しを同じくする者はひとりもいなかった。しかしティモシー師は、あくまで職務に忠実で、レイションの側を離れなかった。師の献身ぶりは一日ほど遅きに失していると思われたかもしれないが、この人物の場合もやはり、一途な情熱は死に際しても――また死後においても衰えなかったのだ。世に言う――

木は倒れれば、そのままそこに横たわる
未来永劫、永遠に[#『コヘレトの言葉』十一章三節をふまえた諺]

そしてこの木は紛うことなく倒れたのだが、師はすっかり失念しているようだった。なにはともあれ、俄然エヴァン・レイションの頭に血がのぼった(肉体を離れた状態で、こういう言い方ができればの話だが)。肉体のうちにあった最期の日々の惨めさが――その鋭いやいばが――消え失せ、力強く足を踏み出した。自分の中には、あの高みにそびえる、うずくまったアヒルの教会を戴いた天の都にそぐわないなにかがあるとわかった。あそこでは伝統的な慣習、伝統的な装い、道徳や信仰、そして――最悪も最悪――伝統的な安息日が守られているのだろう。レイションはハレルヤの合唱などに用はなかった。彼は地上にいたとき、地獄に天国を――ほんものの天国を――片鱗でも歌い描こうとして、それはもうみじめに失敗した。とはいえ、失敗のつけが、お上品にとりすました天国かと思うと、おぞけに身震いがした。ほんとうのところ、身震いを起こさせたのは、彼に残された小さな火花――真摯さ――だった。もし地獄が実在するなら、そこが彼の行くべき場所だった。地獄に正義はないとしても、正義に限りなく近いものならあるだろう。弱さとあやまちに罰が下されるところにゆき、どんなものであれ、与えられたチャンスを掴もう。オシリスは、天国の高みに昇ればティフォンをさらに勢いづかせるだけだと確信していた。これまでとは異なる、しかしもっと致命的な優位を与えるだけだと。彼と相手はともに宥められ、怠惰な融和に誘いこまれ、ひとつ莢の中のエンドウ豆のようにぬくぬくと暮らすことになるのだろう。ティフォンのねらいはつねにオシリスとの和解であり、そのためにこそあがきつづける。いっぽうオシリスは、繰り返し繰り返しうち負かされながら、それでも戦いを望んでいる。
 後ろから叫び声が響きわたり、群衆のあいだに狼狽が走った。追いたてられ、泣きながらやってくる者がいて、心正しい人々はみなあわてて道をあけた。やってくる者は、異様に深く頭を垂らしていた――肩より下、胸のあたりまで。だれかが小声で言った。「今朝がた、刑務所で。スプロットランズの殺人犯だ」「あの連中」エヴァン・レイションは言った。「まだ法に名を借りた犯罪を繰り返しているのか」彼は哀れな異形の者と追跡者たちのあいだに割って入ると、追われる者を庇うように腕を回し、追手に罵声を浴びせてしりぞけた。人の流れが分かれ、ふたりは中洲にとり残された。レイションはかたわらの相手に向かって、胸の裡から溢れる言葉を口にしつづけた。内容はなんであれ、話しかけられた相手はだんだんと人間らしくなり、不思議なことに、レイションのほうもだんだんと力が沸いてくるのを感じた。そこでふたりは歩きだした。
 レックウィズ・ヒルのふもとを過ぎ、十字路にさしかかると、鉄道の引き込み線に石炭を積んだ貨車がたくさん停まっていた。ふたりは他の人々とは違う方向へ角を曲がった。暗がりへ分け入ってゆくあいだ、後ろからは、選ばれし者たちの歌声が、だんだん小さくなりながら聞こえてきた。いまは、どこか気のない〈黄金のエルサレム〉――実体のない、目には見えないハルモニウムの、ぜいぜいいう音に合わせて歌っているようだ――それから朗唱につれてばらばらと鳴るドラムやシンバル、そして今度は意気揚々とした葬送歌、あるいは悲愴な凱旋歌ともいうべき〈エルサレムの丘からオ・ヴラニアイ・カエルサレム[#ウェールズの説教師デイヴィッド・チャールズ(一七六二~一八三四)作の賛美歌]。石炭を積んだ貨車と石炭の山のあいだを通って先へゆくと、音楽は途絶え、ますます濃くなる闇の中、苦役を担う人ならぬ者たちの不気味な影がうごめいていた。
 そして気がつけば、不思議なことに、ふたりの役割が入れ替わっていた。いまはエヴァン・レイションではなく、道連れのほうが保護者だった。「怖くはないね?」連れが言った。「いいや」エヴァンは答えた。「おれにもいっぱしの魂ってやつがあったんだぜ」「その話をしたまえ!」道連れが言い、口調にはっとさせられたレイションは思わず相手を見返し、その変貌に驚いた。連れの姿はいまはヴェールに包まれ、まっすぐに頭をもたげ、なにか神々しい光を放っており、あきらかに、人間の加えた冒涜の痕はどこにもなかった。「その話しをしたまえ」相手が言い、エヴァンの腕に手をかけると、そこから数々の気高い記憶が流れこんできて、エヴァンの歩みは堂々としたものに変わった。「先へ進もう」エヴァンは言った。「おれたちふたりで地獄を征服しよう」かたわらをゆくのは大天使さながらの存在だったが、ヴェールをかぶっているため、顔は見えなかった。
 開け放された巨大な戸口に着き、中の広大な空間へ入ると、影に囲まれて、いくつもの高くまがまがしい玉座があり、死者の裁き手たちが座っていた。彼らの前のがらんとした床にエヴァン・レイションは立たされた。道連れは透明になったかのようだった。レイション以外には、かたわらの連れの姿は見えていないらしい。告発の必要はなく、刑の宣告も無用だった。沈黙のうちにレイションの過去が一日、また一日と繰りひろげられ、陰鬱な空間に長い列をなした。
 再現が終わった。足下の地面が不気味に震え、地下の恐ろしい生き物――死の生物、腐敗の生物――の身じろぎに合わせるかのごとく波打った。地面がひび割れ、解けた氷塊さながらに揺れ動いた。細い灼熱の筋が走り、長さと太さを増してゆく。くぐもった地鳴りとともに、すぐ足下にぎざぎざの割れ目が口を開けて、はてしもなく深い淵を覗かせ、底のほうにひしめく暗黒に気味の悪い青い炎がちらつき、はぜ、そして絶えいるのが見えた。ふいにすべてが渦巻く紅蓮の炎と化すかと思えば、一瞬のうちにふたたび暗黒が戻った。レイションは正面にもう一本のひび割れが入るのを見た。小さく左右に振れながら、彼めがけて最初の亀裂と直角の方向に走ってくる。裂け目が広がるにつれ、縁は灼熱の朱に染まり、小さな煙をあげて崩れ落ちた。亀裂が幅を広げ、近くへ、もっと近くへと迫ってきて、見透かすことのできない蒸気の奥から大きな嘆きの声があがり――
 だれかに手を握られた……その瞬間に落下が始まった。

 下へ、下へ、下へ、無限に落ちてゆく、煤の黒さの夜を貫いて、おりおり硫黄の青い炎が不気味にちらつく中を落ちてゆく。焼け焦げた腕がつぎつぎと伸びてくる、それは地獄の気流にさらわれ翻弄される者たちの腕だった。そして大通りや細い路地が垣間見え、赤く灼熱する、そのただなかに人の形をしたものがいくつも身悶えている、かと思えばつぎの一瞬、目に映るのは、鎖に繋がれ、奈落にそびえたつ峰の頂上に仰向けに横たわる者の姿で、翼と鉤爪を持つ炎にむさぼり喰らわれている。おおかたは沈黙に包まれ、ただときおり、やるかたなく力ない悲鳴や、陽光を知らぬ荒涼とした岸辺に打ち寄せる潮騒にも似た嘆きの声が沸きあがる……。
 落ちていくあいだにも思考を巡らせる猶予があった。もしこれが現実なら、自分は……。どうにか止まることができれば、あるいは落ちてゆきながら、人影のどれかに近づくことさえできれば。そうすれば彼らのためになにかするか、言葉をかけてやれるものを……。最初の混乱を脱し、驚愕も収まると、そんな思いが膨らんだ。恐れも苦痛も感じてはいなかった。ただひたすら、地上での若き日に抱いた、オシリスに由来する気高い憧れがつのった。彼の中には、まだなにか神聖なものがあった――たとえ、ただの言葉にすぎないとしても。在りし日に歌いあげようとして果たせなかったその言葉を、身の裡に燃える神の栄光にかけて、死せるいま、地獄に堕ちた者たちのために、高らかに歌いあげよう。どんな言葉だったろう。落ちてゆきながらでは、うまくまとめられなかった。ただ――どこかにある青空、それを先触れとして告げるのだ。言葉は降りてくるだろう。思考のすぐ外側に、言葉の虹色の雲が燃えているのを感じた。地上の山々に流れる川を、歌をとおして地獄に導けばいい。彼は小川を憶えていた――ガース・フェアドリ山のブルーベルと羊歯を縫って流れる川を。地獄の罪人たちよ聞くがいい、星々の滅びることなき白い炎の歌を聞くがいい。堕罪? 馬鹿な! そんなものは夢だ。かなめの言葉はすぐに見つかるだろう、それはこの劫火の夜をとよもし、吹き払うだろう!
 ちらほらと、ぼんやりした光のもと、幾多の世界の下方に地表が見え、目立った地形が見分けられた。峰だ。巌の頂になにか巨大な者たちがうずくまり、憂いに沈んでいる、と思うと、いっせいに飛びたって彼とすれ違い、さきほど彼が落ちてきた虚空に消えた。絶えゆく熾火の深紅色をした、ほんのわずかの光を投げかけるだけの不吉な太陽がさまよい、断末魔のうちに紅玉の炎を散らしていた。ついに真夜中の海のきらめきが見えた。暗い炎の海のおもてに青や緑の火焔が閃き、絶えた。影の生き物たちが寄ってきて、懇願するように腕をさしのべた。何百万と群をなし、もはや人とも思えぬ姿で、永遠に報われぬ涙にくれている。そのときレイションは誰に手をとられているのかに気づいた。道中に恐ろしい仮の姿で彼のもとに来た聖なる伴侶だった。「彼らを起こしてくれ!」レイションは連れに向かって叫んだ。「みんな夢なんだ。彼らを目覚めさせる言葉を教えてくれ」「だめだ」相手は答えた。「きみの場所はここではない、もっと下だ。来い!」
 下また下へ、休みなく炎が流れる地獄の底へ。そんな場所でも連れの声は届いた。「きみが来るのを待っている者がいる。彼を悪夢から目覚めさせないかぎり、きみは地獄をどうしようもない」「わかった」エヴァン・レイションは言った。「そいつを起こそう。そのために地上で味わったよりもっとひどい悲しみを味わうことになるとしても」「相手はここだ」連れが言った。
 ふたりは地獄の底をなす炎の海よりさらに下にある、狭苦しくみすぼらしい部屋にいた。だいぶ短くなったろうそくが燃え、揺れる大きな影を壁に投げかけている。せっけん箱を前にひざまずいた男がいる。ベッドがあり、死んだ、あるいは死にかけの男が横たわっている。エヴァン・レイションはふたりをかわるがわる見比べた。どちらを起こせばよいのかわからなかったが、連れもなにも告げてはくれなかった。そこで、ひざまずいている男のほうに近づき、腕をとって揺さぶり、すくなくとも揺さぶろうとし、そして大声で呼びかけた。「起きろ、起きろ、これは夢だ!」

 キャプテン・イライアスは、驚きにうたれ恍惚とした顔を上げた。「救い主よ、感謝いたします」彼はつぶやいた。「あなたは天使をお遣わしになり、あなたのお慈悲を、いままでわたしが夢にさえ思わなかったような温情を、はっきりとお示しになった……」

 エヴァン・レイションはため息をついた。「眠りながら身じろぎしている。しかし目覚めようとはしない」
「もうひとりのほうへ」連れが言った。
 レイションはそうした。ベッドの上に屈みこみ、ささやきかける。「起きろ、起きろ、哀れな奴! おまえはもういちど生きるんだ、これで終わりなんかじゃない。おまえはもういちど生きて、乗り越えるんだ!」
 ベッドの男が目を開けた。なぜだかやけに懐かしい気がする顔だとエヴァン・レイションは考えた。「まだチャンスが」男はつぶやいた。「……新しいとびきりのチャンス。……おれはもういちど生きるんだ……。もちろん……もちろんだとも……忘れていた」その顔にこのうえない喜びがきざし、男はほほえんだ。死ぬのを恐れていた者がふと目を覚まし、自分を覗きこむ死の天使の、星降る夜よりも美しく、どんな人間の同情よりも優しい姿を認める……そんなときに浮かべるかもしれない微笑だった。
 部屋が消え失せ、地獄の暗黒と劫火が薄れていった。エヴァン・レイションは空を仰ぎ、輝くオリオン座と、天高い木星のまばゆい白い炎を認め、こちらには鋭い光芒のアルデバラン、あちらには巨大なダイヤモンドに似たシリウスを見た。それら堂々たる天体から響いてくる歌が聞こえた。まるで夜明けの星たちが声を揃えて歌い、神の子らが歓呼をあげているかのようだった。地獄が歌に共鳴し、粉々に砕けた。散りゆく霧のごときもの、あおざめた星座の時雨のごときもの、きららかな星々を吹き上げ、炎を歌う燃える山のごときものがあった……。


 彼はビュート・ストリートを西に向かっていた。ただし歩くのではなく宙を滑り、かたわらには旅の伴侶がいる。喜びで体が浮いている気がした。二階建ての路面電車の上を過ぎ、せわしなく行き来する事務員たちと、ぶらぶらとうろつく船員たちの上を過ぎ、領事館と事務所と倉庫の上を過ぎた。街全体が眼下にあった。セント・メアリー・ストリートが見え、ハイ・ストリートが見えた。堂々たる方塔を擁するカーディフ城と壁に並んだ彫刻の動物たち。それから公園と川が、そしてランダフと大聖堂が見え、開けた野原と丘が見えた。丘の頂に、木々に囲まれてカステル・コッホの塔があり、海峡が、すなわち〈ウェールズの門〉があり、高い橋があった。そして彼方にはガース・フェアドリ山が美しい銀色がかった紫に包まれ、生きていたときには見たこともない陽光に照らされていた。そしてガース・フェアドリのさらに上には、トルコ石と銀、ラピス・ラズリときらめく水晶からなる、あまたの尖塔と円屋根に飾られた、彼も知る天の都があった。そうしてふたりは天国の門に至った。
 彼は天国ではかりしれないときを過ごした。緑の芝生や気持ちのよい水辺をそぞろ歩み、幻のサファイアの山々のふもとをゆけば、人間の喉にはけして出せない歌声が聞こえた。そこは花々の園であり、花のひとつひとつが生き、彼を動かして歓喜を燃えあがらせる力を持っていた。同胞たちもみな花々と同じくらい美しく慎ましかった。話す言葉は朗唱となり、思考は詩のごとく熱烈かつ繊細かつ独創的にして力強い。過去の生の記憶は拭い去られた――ただ、ときおり、ニース谷で過ごした希望に満ちあふれた子供時代のことだけが思い出された。卑怯な振る舞いや失敗の記憶は消え、彼を破滅に陥れた、毒にも似た官能の誘惑も覚えなかった。その清澄な山また山の地では、どれだけ登っても、さらに登るべき高みがあらわれた。世界の上に世界があり、それぞれが前の世界よりいっそう優雅な色彩と気高い美しさにあふれ、より精妙で力強い歌が響いていた。そしてついに彼は数々の頂に君臨する頂に到達し、太陽に迫った。頭上に壮麗な太陽が浮かび、竜の翼を震わせてきらめく輝きを振りまいていた。やがて太陽は身を屈め、ある言葉をささやくと、青いトルコ石の杖で彼の眼に触れた。すると、彼のうちにありとあらゆる啓示が満ち、無限の静謐さを湛えた全能の知識が胸裡に花開いた……。
 翼を備えたあまたの世界と宇宙が見えた。彼は遙かに隔たった数々の世界に散らばり、争いと至福、また争いと至福を目撃した。諸々の太陽の合唱が聞こえた。天球面をすみずみまで揺るがす喜びが、彼という存在の最深奥の扉を抜けて突き進んだ。彼は下界を見おろし、うつし世の大陸と島々を眺めた。
 視線は最後に海ぎわの街に留まった。薄汚れた長い通りが見え、そこかしこに船員たちがたむろし、数え切れないほどの事務員が足早に行き来していた。彼にはひとりひとりの外側も内側も見ることができた。つまり、その見かけも、思考や欲望の動きも。ふと気づけば、群衆のなかに誰かを捜していた。はっきり誰とは言えないが、気にかかってしかたがない誰か……とうとう見つかった。うらぶれた男で、人混みを縫ってよろよろと歩いてゆく。いま、眼下の街は夜に包まれ、電灯に照らされている。男はおぼつかない足どりで埠頭に向かい、ときおり咳こんでは血を吐いた。それから角を曲がり、せせこましい横町を這いずるように進み、貧民街の陋屋の一軒を死に場所とすべく、中に入っていった。
 彼は男の過去が知りたくなって、そちらに目を向け、流れを源に遡るように過去を眺めていった。男が転落しつつある頃、まだ完全に堕落してはいない時代が見えた。男はヘイズの街頭で群衆に語りかけていた。そこには神聖なものがあった。慈悲心に満ち――目覚めた魂の誇り――人生の手綱を統御しようともがき、いくつかの小さな勝利を収め、数多くの大きな敗北を嘗めた。遮られ、邪険に追い払われて馬鹿にされ、もうすこしのところで神聖なものは肉体とも思考とも絆を失ってしまいそうだった。さらに昔の時代が見えた。野山に、そこかしこに滝のある美しい川のほとりに親しんだ日々。世界がこよなくすばらしく、痛いほどの希望にうちふるえていた日々。刻々と霊感が増すと言っても大げさではなかった。男の人生のすべてが見えた。彼は光景に魅せられ、場面が移り変わるたびに声をあげた。「ああ、だめだ! そちらへ行ってはいけない! ……こちらの道を行くんだ! ……そっちじゃない。こちらを選んで!」――夢中になって見つめ、男のすべての戦いを共にたたかい、自分なら戦いに勝てる智慧と力があるのにと思わずにいられなかった。下っていって男の体に入り、心に助言を授け、人生をたしかな勝利に導いてやりたくて、矢も盾もたまらなかった……。
 天国では常に進みつづけなければならない。ひとつところに留まるという選択肢はない。
 我に返ってみれば、彼が立っているのは最高峰の頂だった。すくなくとも、見える範囲では最高の峰だった。天国での七つの務め、すなわちとほうもなくすばらしい喜びの七つの側面をすでに制覇していた。かたらわに彼の伴侶が立っていた。「われらは先に行かねばならない」相手が言った。「ここに永遠に留まってはいられない」「もちろんだ」彼は答えた。「あそこへ下って行こう。あそこだ、見えるか、はるか下の世界だ。大宇宙の中でも、あそこに行くよりほかに、したいことなどない。あれはまだ新しい場所だ。発見と、勇ましい冒険と、闘争の場所だ。よそでは見つからない喜びがある。あの男のところへ行こう――見えないのか?――あそこだ! 人生の歩みを踏み出すたびに転落していった。あの世界でたたかうべき戦いの流儀を知らなかった。ほんのわずかな知識が欠けていただけで、そうでなければ、いまのおれたちと同じ境遇にいたかもしれない。なぜなら、なによりも、あいつには理想があり、それはおれたちのものとそれほど違ってはいなかった。ほかのおおかたの連中のように盲目ではない。あの男のもとへ行かねば。なぜか、あいつの戦いはおれの戦いでもあり、一緒に勝利を掴まなければならないという気がする。どういうわけか、天国のあの場所が、あの使命が、おれを待っているのがわかるんだ」
「もっとよく見たまえ」連れが言った。「まだほかにも見るべきものがある」
 彼は見て、男の青春時代から幼年時代へと遡っていった――楽しい我が家、両親の溺愛、最初のあやまち――そして誕生。見守るうちに雲が惑星の表面をよぎり、すべてがぼやけた。雲が去り、彼は見た――別の国、別の時代、別の人生を。それでも同じ人間を見ているのだとわかり、同じように興味を覚えた。それは神聖にして精妙な美の歌を生みだしつづけた男の生涯だった。名声を博し、想像力の網で世界の最深奥の驚異を捉え、星々と森と海の砂浜の不思議な生命も、彼の前には澄んだ水晶のように明かされた。この人生には、単なる予感に留まらない、確たる業績があった! 男の生き方にはどこか無頓着なところがあり、神聖な美と危険な誘惑の美を区別せず、情欲の浅い池も魂の充足の深い海もいっしょくただった。そして男は情欲に囚われ、星々と砂浜と森を見失い、低俗な生の大渦が彼をさらって死に沈めた。
「もっとよく見たまえ」連れが言った。
 彼は見て、雲がふたたび世界を覆い、またもや時代を遡っているのに気づいた。そしてまた別の生が見えた。しかしやはり、さきほどと同じく、見えてきたのは星々と砂浜の男、そして貧民街に死にゆく惨めな男のいわば前身であるのがわかった。今度の生涯は、ひたすら崇高な思想と英雄的行動に捧げられていた。神性の偉大なる守護者にして、無理やりに――しかし徹底的に抑制された激情の持ち主。官能の誘惑にはうち克ったが、己の徳を誇り、人間の弱さに容赦なかった。正と邪を峻別し、公私の別なく不正には果敢に戦いを挑んだ。輝かしい生涯で、見ていると心が躍った……と同時に辛くも感じる……なぜなら、あまりにも傲慢、狭量、無慈悲が目立つからだ。そこで、なぜ星々と森の歌い手が堕落したのか、なぜもうひとりは貧民街でみじめに死んでゆくはめになったのかがわかった。
「きみの望みはなんだ?」彼の伴侶が言った。
「きまっているだろう」彼は言った。「あそこに降りていって、あの生の流れを正すことだ。それがおれの仕事、おれの試練だっていうのはわかっている。この天国じゅうを探しても、ほかにやりたいことなどない。ほら、おれは武器を持っている、知識があるんだ。この冒険をやらせてくれるよう、おれは太陽の支配者に請う。曲がったものはまっすぐに正されなければならない。あの生の連なりがしかるべき勝利に導かれるまで、全宇宙に平和はない。簡単に片づくだろう、ほんの数年、悪戦苦闘するだけだ――なんてことはない! 手柄ゆえの驕りはもうない――悲しみと転落と挫折が追い払ってしまった。あとは官能の惰弱さをなくせばいい――克服する方法なら知っている――そうすれば、あいつは神々の真の戦士となるだろう。そう、あいつの存在の中心には、いまや人間愛という炎がある。一回か、せいぜい二回の転生でじゅうぶんだろう。おれは降りていって、事態を捌き、けりをつける。そうしなければ。なぜなら、おれの問題だから……なぜなら……神よ、おれ自身の人生だからだ!」

***
 夜が明けた。太陽が昇り、イングランドの低い山々を、ブリストル海峡を、ビュート・ストリートの貧民街をもひとしく照らした。みすぼらしい部屋に光がようやく射しこむと、キャプテン・イライアス・イライアスは膝を伸ばして立ち上がり、祈りのうちに主と格闘するのをやめた。また病人の具合をたしかめる頃合いだ。ベッドの上へ身を屈め、エヴァン・レイションの顔に、紅潮にも似た、単なる安らぎを超えたものを見いだした。と、死にゆく男が目を開けた。その目は澄んで、獣性は拭われていた。ティフォンはいなかった。オシリスが輝きいでた――自信と、落ち着きと、喜びが。故のないことではなかったのだ、とキャプテンは考えた。夜中に主の御使いがあばら屋を訪れたのは。
「小さき心よ」キャプテンは言った。「さて、おまえの魂はどんな具合だね」
 エヴァン・レイションは答えなかった。いま終わりつつある人生が彼自身のものだった、神霊であり、天の住人である彼の生のひとつだったという事実を咀嚼しているところであり、さらに、こうして貧民街に死にゆく、このエヴァン・レイションなる失敗もまた……軍勢のひとり――神霊のかけら――高い神性の山から来た者なのだという事実を咀嚼しているところだった。繰り返し繰り返し、地上に生を享けてきたのだ。なにかを行い――そして勝ちとり――苦しむために。それから――ふたつの事実を結び合わせ、ひどい敗残の重荷と悲しみをうけいれ、それが溶けて消えてゆくのを目のあたりにした。なぜなら彼は知っていた――これで終わりではない、また別の日々、別のチャンスがあるだろう。それに、ありがたいかな、いまの彼には人生を御して神の意図するほうに向けるだけの知識があり、生まれて死ぬまでが一日なら、死んで生まれ変わるまでは一夜であることを知っていた。そしてまったき勝利、神霊の精華のまったき発露、その行く末と目的までも……。
小さき心カロン・ヴァッハよ」キャプテンは言った。「どんな具合だね、はてさて、おまえの魂は」
 だがいったい、答えがないからといって、なんの不都合があるだろう。キャプテン・イライアス・イライアスには、死せる男の表情を見ればじゅうぶんだった。キャプテンはいそいそと帰宅し、『聖性の航海日誌』と名付けた記録を取り出すと、神への貸し方に、またひとつサタンの鉤爪から奪い返した魂を書き加えた。やれやれ!



底本:The Secret Mountain and other tales Faber & Gwyer, London 1926
翻訳:館野浩美
2017年2月12日公開
2017年2月22日更新

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