緑の枝

      

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マヌス・マッコドラムの死の翌年、シェイマス・アハナは兄のグルームの影さえも目にしなかった。身内は死に絶え、自分はこの世に独りきりかと思い始めたころ、西から一通の便りが届いた。たしかに、アン・ギレスピーがマヌスとともにエランモアを去った夜、二人の兄はともに溺れ死んだのだという世間の噂を、シェイマスは信じていなかった。第一に、マーカスについて内心で確信しているようには、グルームの運命に関して直感は何も告げなかった。それに、自分は (フェタン) の音を聞いたではないか。知るかぎり、ほかにフェタンを奏でる者などいなかった。また、さらに間違いのないことには、あれは自分がほかのどの曲にもまして嫌っている <死者の踊り> だった。グルームでなければ誰が、自分があれほど嫌っているあの曲を吹くだろう。それも夜遅く、島にはほかに誰もいなかったというのに。死者がよみがえってくることも、ひょっとしたらあるのかもしれない。しかし、考えれば考えるほど、六番目の兄は生きているとしか思えなかった。しかし、それについてシェイマスは誰にも何も言わなかった。

シェイマスはアハナ家の財産の残りを片付けるという、やっかいな仕事を辛抱強くやりおおせ、ようやくしがらみから逃れて島を去った。よい思い出など、まるでなかった。泥炭地は荒涼として、作物はたびたび、それも長いあいだ桐枯れ病に苦しめられた。島は幾日、幾週間、幾月と降り続く陰鬱な雨に閉じ込められ、海はといえば、昼はすすり泣き、夜は嘆き、引き潮のけだるい凪のひとときには、あきらめきったようなため息をもらしたかと思えば、嵐の暗雲が押し寄せるときには、闇雲にうつろな咆哮をあげた。なにもかもが、思い出すだけでも憂鬱だった。紺青に白を刷いた空の下、碧と純白の海に囲まれて、かぐわしく緑に萌える島が横たわり、海の楽園かと思えるほどにすがすがしく快い日でさえ、決して島を愛したことはなかった。いつも孤独で物憂く、一族の上に垂れこめる不可思議な影にうんざりし、忽然と人々の前から姿を消して久しい一番上の兄をのぞいては、兄弟たちにも親しみをおぼえなかった。グルームにいたっては、ほとんど憎んでいるといってもよかった。この兄は、シェイマスの容貌が美しく、またアラスターに似ており、アラスターを尊敬しているのが気に入らず、悪意を抱いていたのだ。これらの理由に加えて、スカイ島のスレイトに住むドナルド・マッカーサーの娘カトリーンを愛するようになってからというもの、シェイマスは彼女の近くに行きたいとずっと願っていた。グルームもこの娘を愛しており、自分の望みのためだけでなく、弟の鼻をあかしてやるためにも、彼女をものにしたいと考えていたのを知っていたために、思いはなおさら募った。

こうしてシェイマスはついに島を離れ、喜び勇んで南を目指した。エランモアを後にして、スカイ島の新たな住まいに向かうのだ。長いこと待ち焦がれ、ずっと夢見ていた幸せを、やっと手に入れられるかもしれない。たしかに、カトリーンとはまだ将来を約束したわけではないし、それどころか、相手も自分を愛してくれているのかを、はっきりと確かめたわけでもない。きっと愛してくれている、そう願い、ひそかに夢を描き、ほとんど確信してさえいたが。しかし、彼女の従兄弟のイアンのこともあった。イアンはずっと前から彼女に求婚しており、ドナルド・マッカーサー老人も賛成していた。それでも、二つの気がかりさえなければ、心はもっと軽かっただろう。気がかりのひとつは、例の手紙だった。何週間か前に届いたその手紙の筆跡に見覚えはなかった。ほとんど手紙など受け取ったことがないし、それに筆跡はわざと変えてあるようだった。文字は見やすくはっきりしていたが、内容を理解するには骨が折れた。それは次のようなものだった。

さてシェイマス、弟よ、おれが死んだのかどうか、頭を悩ませていることだろう。答えは、あるいは然り、あるいは否だ。この手紙を送るのは、おまえの行動も考えも、すべてお見通しだと知らせるためだ。おまえはエランモアを見捨てて、アハナ一族が誰も住まぬままほうっておくつもりなのだな。そしてスカイ島のスレイトに行くのだろう。では、言わせてもらおうか。行くな。血が流れるのが見える。それにもうひとつ。おまえも、ほかのどんな男も、おれからカトリーンを奪うことはできない。おまえはわかっているし、イアンも、カトリーンもわかっている。これは、おれが生きていようが死んでいようが変わらない。忠告してやる。行くな。それがおまえのためだし、みなのためでもある。イアン・マッカーサーは、エランモアにおれたちを訪ねて来たことのある、捕鯨船の船長と一緒に北海にいて、あと三ヶ月は帰ってこない。やつにとっては、帰ってこないほうが身のためだろうよ。もし帰ってきたら、カトリーン・マッカーサーをわがものと宣言する男と、決着をつける必要があるだろう。おれは、男二人と話をつけねばならないのが、嬉しいわけじゃない。ひとりは実の弟とあってはなおさらだ。おれがいまどこにいるかは、どうでもいい。いまのところ、金はいらない。だが、おれの分はとっておけよ。必要になったとき、いつでも用意ができているようにな。必要となったら、おれは悠長に待ったりしないからな。ちゃんと準備しておけ。おれはいまいるところに満足している。おまえは尋ねるだろう。なぜ兄さんは遠くにいるのか (言っておくが、ここはセント・キルダより北ではないし、キンタイアのマルより南でもない)、いったい何のために、とな。答えはおれと死者のみぞ知る。ひょっとすると、おまえはアンを思い出すこともあるかもしれないな。アンはいま緑の塚の下にいるのを知っているか? マヌス・マッコドラムのことはどうだ? マヌスは海に泳ぎだしていって溺れたことになっている。みなが海豹の血のせいだとひそかにうわさしているので、牧師殿はたいそう憤慨しているそうだが。牧師殿に言わせれば、狂気のせいだと。ああ、おれはその場に居合わせた。おれのフェタンで狂気に追い込んでやったのさ。なあシェイマス、おれがどの旋律を奏でてやったか、おまえにわかるか?

雌伏して時を待つ兄より グルーム


よく憶えておけ。おれは <ダウサ・ナ・マラヴ> を吹かずに済むものなら、そのほうがいい。マヌスにとっては、 <ダーン・ナン・ローン> を聴いたのが運の尽きだった。あれがやつの運命の歌だった。そしておまえの運命の歌は <ダウサ・ナ・マラヴ> だ。

手紙のことはずっと心にひっかかっていた。もうひとつの気がかりは、スレイトのアーマデイルに住む二人の男の鰊漁船に乗せてもらい、スカイ島へと船出した夕暮れの出来事だった。船がゆっくりと港を出てゆこうとしたとき、男の一人が、島に誰も残っていないのは確かかと尋ねてきた。岩の上に人影が見えた気がした、黒い襟巻きを振っていたという。シェイマスは首を横に振った。そのときもう一人が声を上げ、たったいま同じものを見たと言った。そのため、船首をめぐらせて引き返すことになった。船が湾内をゆっくりと進む間に、シェイマスは小さな揺れる平船で漕ぎ出し、岸に上がった。あちらこちらと大声で呼びかけながら探したが、応えはなかった。あの二人がともに見間違いをしたとは考えられない。島に生きた人間はおらず、二人の目のいたずらでもないとすれば、いったい誰だったのだろう。もしやマーカスの亡霊か。それとも父の老アハナその人が、末の息子に挨拶を送るためか、あるいは警告を与えるために起き上がってきたのだろうか。

これ以上探しても無駄と見切りをつけ、たびたび後ろを振り返りながらも小舟まで戻り、漁船に向かって漕ぎ出した。

ひゅう、ひゅう――水面を渡ってかすかに、しかしシェイマスの耳には耐え難いほどはっきりと、<ダウサ・ナ・マラヴ> のはじめの一節が聴こえてきた。恐慌に襲われて舟をがむしゃらに漕いだため、舳先を越すほどにまで水しぶきが立った。漁船の甲板に上がるやいなや、傍らに立つ男に向かってかすれた声で、舵を切れ、船首を風上に向けろと叫んだ。

「あそこには誰もいなかった。カラム・キャンベル」そうささやく。

「じゃあ、あのおかしな音楽を奏でているのは誰だ」

「音楽だって?」

「もう止んだ。だが、おれははっきりと聞いたんだ。アンドラ・マクエヴァンもだ。葦笛みたいな音だったが、なんだか気味の悪い曲だったな」

「それは <死者の踊り> だ」

「それで、吹いていたのはいったい誰だ」目に恐怖の色を浮かべて男が尋ねた。

「この世の者ではない」

「この世の者ではない?」

「そうだ。ここで溺れた僕の兄の一人だと思う。笛の音からすると、グルームだ。よくフェタンを吹いていた。でも、もしそうでないとすれば、すると――」

二人の男は、息をするのも憚られる沈黙のうちに待ち構えた。二人とも迷信に対する恐れに震えていた。とうとう年かさのほうの男が、身振りでもって早く言えと促した。

「そうでないなら、水妖 (ケルピー) にちがいない」

「ここ――ここにはそれじゃ、洞窟の女がいるっていうのか」

「そう言われている。言い伝えは知っているだろう、ケルピーは不思議な音楽を歌ったり奏でたりして、船乗りを死に誘いこむのさ」

そのとき、不気味なぎくしゃくとした旋律が湾の向こうからはっきりと聴こえてきた。その調べには、なにか鬼気迫るものがあった。死体がのろのろと不自由な体を引きずって這い回り、狂ったように笑いと叫び声をあげているさまを思わせた。もう我慢はならなかった。二人の男たち、キャンベルとマクエヴァンは、たとえシェイマスがこの世で持てる限りのものを差し出したとしても、もはや一刻も留まろうとはしなかっただろう。二人の男もシェイマスも、船がすっかり湾の外に出て、エランモアからの音が届かぬほどに離れるまで、生きた心地もしなかった。

      

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