マーナス・マッコドラムの死の翌年、シェーマス・アハナは兄のグルームの影さえも目にしなかった。身内は死に絶え、自分はこの世に独りきりかと思い始めたころ、西から一通の便りが届いた。たしかに、アン・ギレスピーがマーナスとともにエランモアを去った夜、二人の兄はともに溺れ死んだのだという世間の噂を、シェーマスは信じていなかった。第一に、マーカスについて内心で確信しているようには、グルームの運命に関して直感は何も告げなかった。それに、自分は笛フェタンの音を聞いたではないか。知るかぎり、ほかにフェタンを奏でる者などいなかった。また、さらに間違いのないことには、あれは自分がほかのどの曲にもまして嫌っている 〈死者の踊り〉だった。グルームでなければ誰が、自分があれほど嫌っているあの曲を吹くだろう。それも夜遅く、島にはほかに誰もいなかったというのに。死者がよみがえってくることも、ひょっとしたらあるのかもしれない。しかし、考えれば考えるほど、六番目の兄は生きているとしか思えなかった。しかし、それについてシェーマスは誰にも何も言わなかった。
 シェーマスはアハナ家の財産の残りを片付けるという、やっかいな仕事を辛抱強くやりおおせ、ようやくしがらみから逃れて島を去った。よい思い出など、まるでなかった。泥炭地は荒涼として、作物はたびたび、それも長いあいだ桐枯れ病に苦しめられた。島は幾日、幾週間、幾月と降り続く陰鬱な雨に閉じ込められ、海はといえば、昼はすすり泣き、夜は嘆き、引き潮のけだるい凪のひとときには、あきらめきったようなため息をもらしたかと思えば、嵐の暗雲が押し寄せるときには、闇雲にうつろな咆哮をあげた。なにもかもが、思い出すだけでも憂鬱だった。紺青に白を刷いた空の下、碧と純白の海に囲まれて、かぐわしく緑に萌える島が横たわり、海の楽園かと思えるほどにすがすがしく快い日でさえ、決して島を愛したことはなかった。いつも孤独で物憂く、一族の上に垂れこめる不可思議な影にうんざりし、忽然と人々の前から姿を消して久しい一番上の兄をのぞいては、兄弟たちにも親しみをおぼえなかった。グルームにいたっては、ほとんど憎んでいるといってもよかった。この兄は、シェーマスの容貌が美しく、またアラステルに似ており、アラステルを尊敬しているのが気に入らず、悪意を抱いていたのだ。これらの理由に加えて、スカイ島のスレイトに住むドナルド・マッカーサーの娘カトリーンを愛するようになってからというもの、シェーマスは彼女の近くに行きたいとずっと願っていた。グルームもこの娘を愛しており、自分の望みのためだけでなく、弟の鼻をあかしてやるためにも、彼女をものにしたいと考えていたのを知っていたために、思いはなおさら募った。
 こうしてシェーマスはついに喜んで島を離れ、南を目指した。エランモアを後にして、スカイ島の新たな住まいに向かうのだ。長いこと待ち焦がれ、ずっと夢見ていた幸せを、やっと手に入れられるかもしれない。たしかに、カトリーンとはまだ将来を約束したわけではないし、それどころか、相手も自分を愛してくれているのかを、はっきりと確かめたわけでもない。きっと愛してくれている、そう願い、ひそかに夢を描き、ほとんど確信してさえいたが。しかし、彼女の従兄弟のイアンのこともあった。イアンはずっと前から彼女に求婚しており、ドナルド・マッカーサー老人も賛成していた。それでも、二つの気がかりさえなければ、心はもっと軽かっただろう。気がかりのひとつは、例の手紙だった。何週間か前に届いたその手紙の筆跡に見覚えはなかった。ほとんど手紙など受け取ったことがないし、それに筆跡はわざと変えてあるようだった。文字は見やすくはっきりしていたが、内容を理解するには骨が折れた。それは次のようなものだった。

 さてシェーマス、弟よ、おれが死んだのかどうか、頭を悩ませていることだろう。答えは、あるいは然り、あるいは否だ。この手紙を送るのは、おまえの行動も考えも、すべてお見通しだと知らせるためだ。おまえはエランモアを見捨てて、アハナ一族が誰も住まないままほうっておくつもりなのだな。そしてスカイ島のスレイトに行くのだろう。では、言わせてもらおうか。行くな。血が流れるのが見える。それにもうひとつ。おまえも、ほかのどんな男も、おれからカトリーンを奪うことはできない。おまえはわかっているし、イアンも、カトリーンもわかっている。これは、おれが生きていようが死んでいようが変わらない。忠告してやる。行くな。それがおまえのためだし、みなのためでもある。イアン・マッカーサーは、エランモアにおれたちを訪ねて来たことのある、捕鯨船の船長と一緒に北海にいて、あと三ヶ月は帰ってこない。やつにとっては、帰ってこないほうが身のためだろうよ。もし帰ってきたら、カトリーン・マッカーサーをわがものと宣言する男と、決着をつける必要があるだろう。おれは、男二人と話をつけねばならないのが、嬉しいわけじゃない。ひとりは実の弟とあってはなおさらだ。おれがいまどこにいるかは、どうでもいい。いまのところ、金はいらない。だが、おれの分はとっておけよ。必要になったとき、いつでも用意ができているようにな。必要となったら、おれは悠長に待ったりしないからな。ちゃんと準備しておけ。おれはいまいるところに満足している。おまえは尋ねるだろう。なぜ兄さんは遠くにいるのか(言っておくが、ここはセント・キルダより北ではないし、キンタイアのマルより南でもない)、いったい何のために、とな。答えはおれと死者のみぞ知る。ひょっとすると、おまえはアンを思い出すこともあるかもしれないな。アンはいま緑の塚の下にいるのを知っているか? マーナス・マッコドラムのことはどうだ? マーナスは海に泳ぎだしていって溺れたことになっている。みなが海豹の血のせいだとひそかにうわさしているので、牧師殿はたいそう憤慨しているそうだが。牧師殿に言わせれば、狂気のせいだと。ああ、おれはその場に居合わせた。おれのフェタンで狂気に追い込んでやったのさ。なあシェーマス、おれがどの旋律を奏でてやったか、おまえにわかるか?
雌伏して時を待つ兄より
グルーム

 よく憶えておけ。おれは〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉を吹かずに済むものなら、そのほうがいい。マーナスにとっては、〈ダーン・ナン・ローン〉を聴いたのが運の尽きだった。あれがやつの運命の歌だった。そしておまえの運命の歌は〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉だ。

 手紙のことはずっと心にひっかかっていた。もうひとつの気がかりは、スレイトのアーマデイルに住む二人の男の鰊漁船に乗せてもらい、スカイ島へと船出した夕暮れの出来事だった。船がゆっくりと港を出てゆこうとしたとき、男の一人が、島に誰も残っていないのは確かかと尋ねてきた。岩の上に人影が見えた気がした、黒い襟巻きを振っていたという。シェーマスは首を横に振った。そのときもう一人が声を上げ、たったいま同じものを見たと言った。そのため、船首をめぐらせて引き返すことになった。船が湾内をゆっくりと進む間に、シェーマスは小さな揺れる平船で漕ぎ出し、岸に上がった。あちらこちらと大声で呼びかけながら探したが、応えはなかった。あの二人がともに見間違いをしたとは考えられない。島に生きた人間はおらず、二人の目のいたずらでもないとすれば、いったい誰だったのだろう。もしやマーカスの亡霊か。それとも父の老アハナその人が、末の息子に挨拶を送るためか、あるいは警告を与えるために起き上がってきたのだろうか。
 これ以上探しても無駄と見切りをつけ、たびたび後ろを振り返りながらも小舟まで戻り、漁船に向かって漕ぎ出した。
 ひゅう、ひゅう――水面を渡ってかすかに、しかしシェーマスの耳には耐え難いほどはっきりと、〈ダヴサ・ナ・マラヴ〉のはじめの一節が聴こえてきた。恐慌に襲われて舟をがむしゃらに漕いだため、舳先を越すほどにまで水しぶきが立った。漁船の甲板に上がるやいなや、傍らに立つ男に向かってかすれた声で、舵を切れ、船首を風上に向けろと叫んだ。
「あそこには誰もいなかった。カラム・キャンベル」そうささやく。
「じゃあ、あのおかしな音楽を奏でているのは誰だ」
「音楽だって?」
「もう止んだ。だが、おれははっきりと聞いたんだ。アンドラ・マッケヴァンもだ。葦笛みたいな音だったが、なんだか気味の悪い曲だったな」
「それは〈死者の踊り〉だ」
「それで、吹いていたのはいったい誰だ」目に恐怖の色を浮かべて男が尋ねた。
「この世の者ではない」
「この世の者ではない?」
「そうだ。ここで溺れた僕の兄の一人だと思う。笛の音からすると、グルームだ。よくフェタンを吹いていた。でも、もしそうでないとすれば、すると――」
 二人の男は、息をするのも憚られる沈黙のうちに待ち構えた。二人とも迷信に対する恐れに震えていた。とうとう年かさのほうの男が、身振りでもって早く言えと促した。
「そうでないなら、水妖ケルピーにちがいない」
「ここ――ここにはそれじゃ、洞窟の女がいるっていうのか」
「そう言われている。言い伝えは知っているだろう、ケルピーは不思議な音楽を歌ったり奏でたりして、船乗りを死に誘いこむのさ」
 そのとき、不気味なぎくしゃくとした旋律が湾の向こうからはっきりと聴こえてきた。その調べには、なにか鬼気迫るものがあった。死体がのろのろと不自由な体を引きずって這い回り、狂ったように笑いと叫び声をあげているさまを思わせた。もう我慢はならなかった。二人の男たち、キャンベルとマッケヴァンは、たとえシェーマスがこの世で持てる限りのものを差し出したとしても、もはや一刻も留まろうとはしなかっただろう。二人の男もシェーマスも、船がすっかり湾の外に出て、エランモアからの音が届かないほどに離れるまで、生きた心地もしなかった。
 彼らは無言でじっと島を見つめた。暗く沈んだ島影の、海に向かって北側に突き出した部分に、赤々と輝く光が点っていた。あたかも血走った一つ目が、彼らをずっと追っているかのようだった。
「あれは何だ」とうとう男の一人が尋ねた。
「島の家で、炎が燃えているようだ。扉と窓が開いているにちがいない。薪を燃やしているのだろう。泥炭はあれほどには燃えないし、家を出たときには、火の気はなかったから。憶えている限り、戸棚や寝台を別にすれば、薪にするようなものはなかったはずだが」
「誰がそんなことを」
「君同様、僕にもさっぱりわからないよ、キャンベル」
 それきり会話は途絶えた。ちらちらと揺れる光が闇に呑まれて見えなくなると、皆ようやく安堵の息をついた。
 船路も終わりを迎えるころには、キャンベルとマッケヴァンの二人は、ろくでもない道連れをやっかいばらいできるのを喜んだ。それはシェーマスがむっつりと塞ぎこんでいたからというだけでなく、彼には呪いがかけられているのではと恐れたからでもあった。一緒にいては、不運の巻き添えにならないともかぎらない。
 互いに口に出して言うまでもなく、二度とエランモアには足を踏み入れるまい、どうしてもというなら昼間だけ、それも独りでは行くまいと、二人の思いは一致していた。

 新天地でのシェーマスの生活は順調だった。スカイ島はスレイトのランザ湖のほとりにあるランザ・ベクに家を建てた。大きくはないが、なかなか立派な農場で、人を頼んで手を入れれば、すぐにスカイ島全土を見渡しても、決してひけをとらぬものになるはずだと希望をふくらませていた。
 ドナルド・マッカーサーは、なかなか娘と会わせようとはしなかったものの、今ではシェーマスとの縁組に反対しているわけではなかった。ことはイアン・マッカーサーの帰りを待たねばならないが、それももう今日、明日でもおかしくはない。たしかにランザ・ベクのシェーマス・アハナは、孤島エランモアにしがみついていたアハナ一族の末息子とは別人といってもよかった。老人は、自身の所有するランザ・モールの北の端の石塚からランザ・ベクの南の端の小川までのランザの地を娘が歩み、その足元の地面がすべて娘のものだったら嬉しかろうと考え、ひそかに悦に入らずにはおれなかった。
 シェーマスは待つ用意ができていた。カトリーンの口から密かに言質を得るまでもなく、その美しい黒い瞳に自分に対する愛を読み取っていた。何週間かが過ぎるうちに、二人はたびたび忍び会うようになり、ついにカトリーンは自分もシェーマスを愛しており、他の誰とも結ばれるつもりはないと告げた。しかし、父がイアンに与えた約束があるため、イアンが戻るまでは待たなければならなかった。シェーマスにとっては至福の日々だった。汗ばむ真昼のひとときを、そして黄昏のなかを、シェーマスは夢見るように歩いていった。風にそよぐ白樺を目にし、住まいのそばにあるロッホ・リアにさざなみが立つのを見るたびに、あるいは野ばらに覆われた藪を過ぎ、あるいは月光が松の幹を白々と照らすのを見るにつけ、彼の優雅な仔鹿、しなやかで丈高く、浅黒い肌と波打つ豊かな黒髪を持つ、けむるような瞳とナナカマドのように赤い唇のカトリーンを想った。世の言い伝えにいう。影の衣に身を包んだ神がおり、ひとびとの間を行き来すると。手を振って恋人たちの間に沈黙をもたらし、冷たい唇の間から氷の息吹を吐き、その歩みで愛し合う二人の間に深い淵を残してゆくのだという。そのような影の一片も、彼らの行く手をさまたげはしなかった。彼らの愛は、慈雨に養われ陽光に暖められる花のようにはぐくまれた。
 夏至が訪れ、イアン・マッカーサーの戻るきざしもない今、すべてはもう覆しようがなかった。カトリーンの心は勝ち得られたのだ。
 夏の季節の間、カトリーンは農園の娘二人と、ランザ台地の上にあるクロック・アン・ラハ[#「ヒースの丘」]の羊飼い小屋で過ごし、羊を丘で放牧するのが常だった。クロック・アン・ラハは、ヒースに覆われ、ところどころに丸石の散らばる円形の丘で、両側は切り立った崖をなすようにえぐれ、正面の斜面はなだらかに下って、ロハン・フラハという、深い森に囲まれた小さな湖に続いていた。この丘というよりは大きめの小山の背後に、小屋はあった。週末ごとにカトリーンはランザ・モールに降りてゆき、月曜の夜明けとともにヒースに囲まれた丘の上の小屋に帰っていった。いつもどおりランザ・モールで過ごしていたある週末のこと、カトリーンは父の口から無情な言葉を聞かされた。シェーマス・アハナより他の男の妻になれというのだった。シェーマスについて、何か縁組にさし障りのあることを聞いたらしい。ランザ・ベクを出て行って欲しいとさえ、老人は考えていた。ようやく重い口を開かせると、シェーマスには呪いがかかっており、怨恨沙汰にかかわっているうえに物狂いだなどと聞いたという。話を誰から聞いたかについては、はっきりと明かそうとはしなかったが、よそ者だがそれなりの身分の人間で、おそらくはどこかの島の地主だろうとほのめかした。また、イアンからの言伝もあった。今ははるか北のサーソウにいて、もうすぐスカイ島に戻るという。老人はイアンに便りを出し、都合がつき次第いつでもカトリーンと婚礼をあげてかまわないと伝えたという。
「お父様、あそこのムネアカヒワがご覧になれまして?」
 カトリーンはそう返した。
「ああ見えるよ、おまえ。あの鳥がどうかしたのか」
「それでは、あの小鳥が鷹とつがいになったら、私もイアン・マッカーサーと一緒になりましょう。でも、それまではいやです」
 そう言うと、そのまま背を向け、家を出てクロック・アン・ラハに戻っていった。帰路の途中でシェーマスに会った。
その夜はじめてシェーマスは、カトリーンに会うためにロハン・フラハを泳いで渡った。
 羊小屋に至る一番の近道は、湖を舟で渡った後、丘のふもとを取り巻く榛の木叢を抜けて羊のつけた跡を登ってゆく道だった。丘の左右は険しい崖になっているので、近道を行くほうが半時間は早かった。そのために小舟が用意されていたが、錠前のついた鎖で岸辺の岩に繋がれており、鍵はドナルド・マッカーサーが持っていた。このところ、老人は誰にも鍵を渡さないようにしていた。あきらかに、そうすればシェーマスは娘に会うことができないだろうと考えたのだ。丘の両側からは、人に見られずに小屋に近づくことはできない。
 しかしその夜、月がようやく光を増すのを待って、カトリーンはこっそりと榛の木叢のところまで降りて行き、恋人を待ち受けた。クロック・アン・ラハのほぼどこからでも、また南側の岸からも、湖をすっかり見渡すことができた。もしあたりで誰かが見ていたなら、姿を見られずに舟で渡ることは不可能だったし、泳いで渡るにしても、夜陰かせめて夕闇に紛れでもしなければ、とても気づかれずには済まないだろう。しかし、湖の中ほどに浮かんだ緑の葉をつけた枝が、ゆっくりと水面を横切って近づいてくるのを目にしたとき、カトリーンはシェーマスが逢瀬の約束を守ったことを知った。ほかの誰かが見ていたとしても、水に落ちて顧る者もないナナカマドの枝がシェーマス・アハナの姿を隠しているとは、夢にも思わないだろう。
 水の上を漂う枝が岸の岩棚に近づいてくると、羊歯の茂みと榛の下生えの間で待っていたカトリーンは、ようやく恋人の顔を見分けることができた。相手は片手で緑の葉を掻き分け、かぐわしい木陰に見出した姿を、あこがれと愛情を込めた眼差しで見つめた。
 その後、幾夜にもわたって同じことが繰り返された。カトリーンは夢うつつのうちに日々を過ごした。従兄弟のイアンが帰ってきたという知らせにさえ、さして心を動かされることはなかった。
 とうとう避けられない対面の日が訪れた。カトリーンがランザ・モールで乳の貯蔵庫にいると、ふいに影が差し、目を上げるとイアンの姿があった。いつにもまして背が高くたくましく見えると思い、それでもシェーマスのほうがまだ高いと思った。この筋骨隆々としたスカイ島の男の隣に立ったなら、彼女の恋人はほっそりとして見えただろう。目の前の男の濃い黒い巻き毛と太い猪首、赤黒い顔に光る不機嫌そうな目を眺め、そもそも彼に我慢できたことが一度でもあっただろうかと考えた。
 イアンが口を開いた。
「どうだ、カトリーン。おれが帰ってきて嬉しいか」
「無事に帰ってきて良かったわ」
「それなら、おれと所帯を持って、おれの家を守ってくれるか。前から何度も頼んでいるように」
「いいえ。前から何度も言っているとおりよ」
 イアンはつかのま苦々しげに顔をしかめた後、ふたたび口を開いた。
「これだけは聞かせてもらおう。我が叔父の娘、カトリーンよ。ランザ・ベクに住むアハナとかいう男を愛しているのか」
「風に向かって、なぜ西から、それとも東から吹くのかと訊ねたところで、答えは返ってこないでしょう。あなたは風の主ではないのだから」
「おれがそいつにおまえを渡すと思っているなら、愚かな考えというものだ」
「あなたのほうこそ、もっと愚かなことを言っているわ」
「そうかな」
「そうよ。イアンの息子イアン、あなたに何ができるの? せいぜい、シェーマス・アハナを殺すくらい。それでどうなると思うの? 私も死ぬだけよ。私たちを引き裂くことなどできはしない。あなたの妻にはならないわ。あなたが地上でただ一人の男で、私がただ一人の女だったとしても」
「おまえは馬鹿だ、カトリーン・マッカーサー。おまえの父が、おれにおまえをやると約束したのだ。言っておくが、おまえがアハナを愛しているなら、やつの命を助ける道はただ一つ、やつをここから去らせることだ。誓って、やつをここにのさばらせてはおかないからな」
「そう、あなたは私に誓って見せるけれど、同じ言葉をシェーマス・アハナに面と向かっては言えないのよね。あなたは臆病者よ」
 男は悪態を吐いて背を向けた。
「おれに気をつけろと言ってやれ。そしておまえもな。わが褐色の乙女カトリーンカトリーン・モ・ニーアン・ドンよ。おふくろの墓と聖マーティンの十字架にかけて、何がどうあっても、おまえをおれのものにしてやる」
 娘は蔑むような笑みを浮かべた。ゆっくりと乳の手桶を持ち上げる。
「上等の乳を無駄にするのは惜しいけれど、イアン・ゴーラハ、あなたが出て行かないなら、頭からこの桶の中身をぶちまけてあげるわ。そうしたら、中の心臓と同じくらい、外側も真っ白になるでしょう」
「おれを馬鹿呼ばわりするのか。愚か者イアンイアン・ゴーラハだと。どうだか、そのうちわかるだろう。乳といえば、乳よりもっと他のものが、おまえのために流れるだろうよ、褐色のカトリーン」
 その日から、カトリーンもシェーマスも知る由はなかったが、シェーマスにはひそかに見張りが付けられた。
 幾日もたたないうちに二人の秘密は暴かれた。とうとう尻尾をつかんでやったのだと確信したとき、イアン・マッカーサーのうちにくすぶっていた怒りは、抑えがたい残忍な喜びに変わった。彼は二重の復讐を企んだ。飢えた獣のように胸のうちの荒野をうろつきまわる二つの邪な考えに陶然とし、満悦の笑みを漏らした。しかし、イアンには思いもよらないことながら、いま一人の男がカトリーンの恋人に憎しみを抱き、カトリーンを手に入れると心に誓っていた。仮の姿に身をやつしたその男は、アーマデイルではドナルド・マクリーンという名で通っていたが、北の島々でなら、人は彼をグルーム・アハナと呼んだだろう。
 三日の間、雨が降り続き、冷たい風が吹きつのった。四日目になって太陽が顔を出し、穏やかな晴天をもたらした。その夕べは静かな美しさに包まれ、あたたかく、大気には芳香が満ちた。月も星も見えない暗夜だったが、薄い靄の帳は夜半には晴れそうだった。
 その夜、湖の南岸の下生えの陰には二人の男がいた。シェーマスが着いたのはいつもより早かった。暗くなるのを待ちきれず、日没の残光が消えるまでがもどかしかった。思いきって、すぐに行ってやろうと心を決めた。そのとき、抑えた足音が耳をとらえた。ドナルド老だろうか。苦心のかいもなく、どうにかして娘が恋人と会っているのを嗅ぎつけたのだろうか。それともイアン・マッカーサーが、水辺で牡鹿を追う狩人のように跡をつけてきたのかもしれない。その場にしゃがみこんでじっと待った。数分とたたないうちに、用心しながら進んでくるイアンの姿が視界に入った。緑の葉のついた枝に目を留めたイアンが立ち止まる。にやりと笑い、さわさわと葉ずれの音をさせて枝を持ち上げた。
 そしてまたもう一人の男が、こちらは湖の対岸の榛の木叢で油断なく待ち構えていた。グルーム・アハナは、今にもカトリーンがやって来はしないかと、なかば期待し、なかば恐れた。再び彼女の顔を見て、そして目の前で恋人を――自分にとっては実の弟だが――殺してやったら、どんなにいい気持ちだろう。しかし、姿を見られたら、訳はわからずとも、泳いでくる相手を警戒させるような真似をされないとも限らない。
 それで彼は日暮れ前にそこに来て、水際に突き出た苔むした岩の陰に、羊歯の茂みにまぎれて身を潜めていた。ここなら、カトリーンにも他の誰かにも、見つかるおそれはまずない。
 夕闇が深まるにつれて、まったき静けさがあたりを支配した。風も立たない。一度、かすかなため息がヒースの枝の先をそよがせたきりだった。ヨタカの甲高い声が闇を震わせた。どこかでウズラクイナがコッコッと繰り返している。かすれた単調な啼き声は、かえって静寂を強調していた。スゲの茂みの上や葉の間を飛び回る羽虫が、暖かくむっとするような空気を絶え間なく震わせ、かすかな唸りをあげていた。
 一度、魚かなにかが、ぱちゃりと音をたてた。そしてまた静寂。ふたたびかすかな、しかし先ほどより長く続く、波が打ち寄せるような水音が聴こえた。闇の向こうから、さらさらと緩慢なささやきのような音が漂ってくる。
 グルーム・アハナは羊歯の間からそろそろと頭をもたげて闇の奥をうかがい、耳を澄ませた。カトリーンが待っているとしても、近くにはいないようだ。
 音もなく水中に滑り込む。ふたたび顔を出したとき、頭上には葉のついた木の枝があった。三時間前に切り出して、隠しておいたのだ。左手でゆっくりと水を掻き、水中で姿勢を保つ。右手はナナカマドの大きな枝を押してゆく。口には二つのものが銜えられていた。一つは細長くて黒く、もう一つは死んだ魚のように時折ぎらりと光った。
 ほとんど動いているようにも見えなかったが、湖の中ほどまでたどり着いたのは、もうひとかたまりの枝とほとんど同時だった。そちらの下にいるものは、誰にも見られていないと安心しきっているようだった。
 二つの葉叢が近づいた。小さいほうは、このところの強風で落ちた枝としか見えなかったが、ふいに大きいほうの塊がぎこちなく動きを止めた。とたんに、もういっぽうの枝からあやしい楽の音が低く漏れてきた。
 音楽が止んだ。二つの葉叢はじっと動かなかった。ついに、大きいほうがゆっくりと進み始めた。あたりが暗すぎて、泳ぎ手は小さいほうの枝の背後に誰か隠れているのかを見定めることはできなかった。近づいて手を伸ばし、葉を掻き分ける。
 大きな鮭が跳ねたかのようだった。水音があがり、黒く細長いものが影の中から飛び出してきた。その先端で何かが光った。にわかに激しい格闘が始まった。生命を持たないはずの二つの枝が激しく動き回り、大きく揺れ、旋回した。葉の間から押し殺した叫びがあがった。二度、三度と光るものが跳ねた。三度目に、すさまじい叫びがしじまを貫いた。おそろしいほど生々しいこだまが三度、クロック・アン・ラハの中腹の窪地に尾を引いた。その後はかすかな水音がしたきり、ふたたび静寂が帰ってきた。枝の一つがゆっくりと流されていった。そしてもう一つは着実に、さきほど来たほうへと戻っていった。
 グルーム・アハナの胸は唯一つのもの、すなわち勝利の歓喜に占められていた。弟のシェーマスを殺しおおせたのだ。その美しさゆえにずっと弟を憎んでいた。それに加えて近頃では、自分とカトリーン・マッカーサーの間に立ちはだかり、彼女の恋人となったためにも。これで自分を除いてアハナ兄弟は皆くたばった。われこそ「アハナ」だ。父祖の地ギャロウェイに戻ったあかつきには、最初の樺の木にはカササギを、ナナカマドにはけたたましいカケスを、樅の木にはしわがれ声の大鴉を見出すことだろう。ああ、このおれは、やつらに災いをもたらすだろう。向こうはこちらのことなど何も知らないだろうがな。おれは唯一人の、アハナの中のアハナになるのだ。おれの行く手を邪魔する者は、心するがいい。カトリーンはどうするか。連れて行くかもしれないし、行かないかもしれない。そう考え、グルームはほほえみを浮かべた。
 緑の枝に身を隠してゆっくりと岸に向かって泳いでゆく間も、また枝を捨てて羊歯の間に這い上がるときも、それらの思いがさまよう鬼火のように脳髄を駆け巡っていた。ちょうどその頃、三人目の男が反対側の岸から水に身を沈めた。
 筋書きどおりカトリーンのふいを襲うつもりでいたグルームは、ひときわ濃い影の下にさしかかったとき、肩に手を触れられてぎくりとした。「シェーマス、シェーマス」カトリーンの声がささやいた。
 次の瞬間、彼女はグルームの腕の中にいた。グルームはあばらに伝わってくる鼓動を感じた。「どうしたの、シェーマス。あの恐ろしい叫び声は何だったの」カトリーンがささやいた。
 答える代わりに、グルームは唇で相手の唇をふさぎ、繰り返し口づけた。
 娘はたじろいた。何かがおかしいと直感が告げていた。
「どうしたの、シェーマス。どうして何も言ってくれないの」
 相手はいっそうきつく彼女を抱きしめた。
「わが胸の鼓動よ、おれだ、おまえを愛している、誰よりも愛しているこのおれだ。グルーム・アハナだ」
 悲鳴とともに、娘は相手の顔を思い切り打った。相手がよろめいた隙に身をもぎ離す。
「この卑怯者!」
「カトリーン、おれは……」
「近寄らないで。来たら殺すわ」
「おれを殺すだと。なんと愛らしい愚か者だ。おまえがおれを殺すというのか」
「ええそうよ、グルーム・アハナ。私が声を上げさえすれば、シェーマスが来るわ。あの人が、あなたが私にひどいことをしたと知ったら、犬みたいに殺されるわよ」
「そうか、それではシェーマスも、他の誰も、おまえを助けに来はしないとしたら、どうする」
「そのときは、女があなたに立ち向かうわ。私に手を出したら、髪で首を絞めるか、それともその邪悪な喉に噛み付いてやる」
「おまえがそんな山猫だとは知らなかった。だが、きっと手なずけてやろう。は、とんだ山猫だな」そう言いながら含み笑いを漏らす。
「そのとおりよ。真っ黒な心臓のグルーム・アハナ。私は山猫、狐に捕まったりはしないわ。試してみるつもりなら、聖女ブリジット様にかけて、痛い目を見るわよ。さあ、あっちへ行って。わが恋人の兄よ」
「おまえの恋人だと、はっは」
「なぜ笑うの」
「それは、笑わずにいられるか。おまえのような優しい汚れのない娘が、死人を思い人にしているとあっては」
「死人――ですって?」
 答えはなかった。さきほどまでとは別の恐れがこみあげ、娘は身を震わせた。ゆっくりと歩み寄り、息が相手の顔にかかるほどにまで近づく。とうとう男が口を開いた。
「そうだ、死人だ」
「嘘よ」
「いったい、どこにいたんだ、あの別れの挨拶が聞こえなかったとは。十分聞こえただろうと思ったがな」
「嘘よ――嘘」
「嘘じゃないさ。シェーマスはとっくに冷たくなっている。今頃は、沈んで水草に横たわっているさ。そうだ、そろそろな。あの湖の底で」
「何ですって――この、この悪魔。血を分けた弟を殺したというの」
「殺してなどいない。勝手に死んだのさ。こむらがえりでもおこしたんじゃないのか。それとも、ひょっとして水妖ケルピーに捕まったか。おれは見ていた。あいつは緑の枝に隠れていた。死ぬ前にもう寿命は尽きていた。あの白い顔に書いてあったよ。それから沈んでいった。やつは死んだ。シェーマスは死んだんだ。なあおまえ、おれはずっとおまえを愛していた。おまえに誓う。おまえはおれのものだ。そうさ、カトリーン、おまえはもうおれのものだ。愛している。今日からは、おれがおまえの南風だ、愛しの恋人ムルニャン・モホリーよ。ほら、どんなにおれが――」
「来ないで、来ないで――人殺し」
「いい加減に悪あがきは止めろ、カトリーン・マッカーサー。聖書にかけて、うんざりだ。おまえを愛している、おまえはおれのものだ。鳩がつがいの鳩にするように、おとなしく従わないのなら、鷹が鳩にするように、おまえを襲ってやるぞ」
 グルームはカトリーンに飛びかかった。娘は相手を何とか押し返そうとむなしく抗ったが、鼬が兎を捕まえるように、男の腕は彼女を捕らえて離さなかった。
 グルームは娘の顔をのけぞらせて喉首に口づけ、じきに苦しげにしゃくりあげるような息を耳元で漏らすのにも容赦はしなかった。娘は最後のあがきで、死んだ恋人の名を叫んだ。「シェーマス、シェーマス、シェーマス!」彼女を取り押さえている男はあざ笑った。
「叫べばいいさ。羊歯の茂みから鰊が出てくることでもあれば、シェーマスもおまえの叫びに応えるだろうよ。ああ、もうおまえはおれのものだ、カトリーン。あいつは死んで冷たくなった――生きている男を恋人にしたほうがいいだろう、それに――」
 ふいにカトリーンは平衡を失ってよろめいた。身体が自由になっていた。何が起きたのだろう。グルームはまだそこにいたが、凍りついたように動かなかった。闇のなか、ようやくグルームの肩を掴む手が見えた。背後に朦朧とした黒い影があった。
 束の間、まったき沈黙が落ちた。ついで、影がしゃがれた声を上げた。
「もう誰だかわかるだろう、グルーム・アハナ」
 それは湖の底に沈んだはずのシェーマスの声だった。殺人者は痙攣のように震えた。やっとのことで、のろのろと頭をめぐらす。そこに見たのは、ぼんやりと浮かびあがる白いもの、死者の顔だった。おぼろな蒼白の輪郭の中に、炎のような二つの瞳が、自ら手にかけた弟の霊の眼が燃えあがっていた。
 グルームは盲目の人間のように覚束なげによろめき、死者の手をふりほどくと、酔ったようにふらふらとたたらを踏んだ。
 シェーマスの腕がゆっくりと上がり、木々の向こう、湖の方を指した。そのままつと間を縮める。
 獣のような唸り声をあげてグルーム・アハナは飛びすさり、躓き、身を立て直すと、闇の奥へと身を躍らせた。
しばしの間、シェーマスとカトリーンはじっと黙って互いに手を触れもせず、遁走の騒ぎが遠ざかってゆくのに耳を傾けた。殺人者が、追いすがる死者の影を相手に競争を繰り広げているのだった。



底本:The writings of "Fiona Macleod" Volume 3 by Fiona Macleod, Duffield & Company:New York, 1910
翻訳:館野 浩美
公開日:2010-02-20
改訂日: 2018-02-28

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