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三時間の間、マヌスは暖炉の前に座ってみじろぎもしなかった。それから、ようやく立ち上がって寝台に向かい、服も脱がずに横たわった。

マヌスは目を覚ましたまま、じっと耳を澄ませていた。泥炭の炎は衰え、下のほうで床に沿ってかすかな明かりが明滅するばかりになった。窓の外では海上を渡る風が嘆きの声をあげていた。なにかさざめくような音がしているのは、島から延びる岩礁を潮が引いていくのだ。真夜中になって雲が晴れ、月影もさやかにあらわれた。外箱が虫に喰われ、がたのきた時計が刻を打ったのをきっかけに、マヌスは身を起こして一心に耳を澄ませた。怪しい物音はしない。動くものもない。もしグルーム・アハナの亡霊が待ち構えているのなら、夜もふけ、しんと静まりかえった今、何かしら前触れがあるはずだ。

一時間が過ぎた。マヌスは起き上がり、足音を忍ばせて部屋をよこぎると、戸を開けた。さわやかな潮風が頬をなでた。浜と濡れた海草の匂い、ヤチヤナギの鋭い香気、海の泡と流れる潮の匂いが入り混じって、こころよくマヌスの鼻孔をくすぐった。岩場のほうでトウゾクカモメが鳴いた。背後の山の斜面では、月に眠りを妨げられたタゲリが、高く低く嘆くような声をあげていた。

マヌスは低く腰をかがめ、慎重な足取りでゆっくりと海の側の塀に沿って歩いていった。堤に着いたところで立ち止まり、堤の内と外をあらためる。ざっと数百ヤードを見渡すことができたが、風雨を避けて休む羊の一頭さえ見当たらなかった。次に、あいかわらず足音を立てぬよう気をつけて、牛小屋のそばまで行った。板の隙間という隙間に順番に耳をつけ、中の様子を覗う。一片の影だに動く気配もない。自分自身、一塊の影と化して、そっと牛小屋の正面に廻り、戸口の傍らに積んだ乾草の山を過ぎる。すばやく左右を見回し、戸を開けて中に滑り込んだ。とたんに、凍りついたように立ち尽くす。確かに今、外の乾草のあたりで足音がした。恐怖に心の臓をつかまれた。目の前に広がる闇には、どんな恐ろしいものが待ち構えているかもしれず、背後には正体のわからぬ何者かがうろつき、いつふいをついて襲いかかってくるかもしれない。マヌスは身体が震えだすのを止められなかった。懸命に心を励まし、ようやくろうそくを置いてある棚の方へと足を踏み出した。震える手でろうそくに火を点す。ちらちらと揺れる灯りに浮かびあがる空っぽの牛小屋は、陰鬱で気味が悪かった。だが、誰もおらず、怪しいものもない。戻ろうとしたとき、外れかけてぶら下がった梁を鼠が走ったのが目に入った。鼠はマヌスを見つめた。あるいは、ろうそくのまばゆい黄色の明かりを見つめたのかもしれない。黒い瞳は、月に照らされた泥炭地の水溜りのような光を湛えていた。

鼠ははじめ警戒していたが、すぐに興味を失ったのか、鳴き声をあげ、前足で身体を掻きはじめた。何度か応えるような鳴き声が聞こえた。あちこちで藁の中をかさこそと動きまわる音がする。

マヌスはいきなり飛びつくようにして鼠を捕まえた。そのまま口にもっていって強靭な歯で背中に噛みつくと、鼠も負けじとマヌスの手を噛んだ。両手を離し、暗がりを手探りする。身をかがめ、剥き出した歯に鼠を咥えたまま、息絶えるまで振り回した。そして屍を口から落として踏みにじると、哄笑を放った。小さな素早い足音がして、藁がかさりと鳴った。その後はまた物音もしない。戸口から一陣の風が吹き込み、ろうそくの炎を消した。沈黙と暗闇の中に立ち尽くすマヌスは、神経を研ぎ澄ませていたものの、もはや恐れてはいなかった。彼はふたたび笑い声をあげた。歯を武器に殺すことが、かくもたやすいとは。マヌスには、自分の笑い声がおぼろな猿のような影となり、四方を飛び跳ねているように感じられた。実際、彼には見えたのだ。闇の中の黒い影が。マヌスはもういちど笑った。それが飛び跳ねるのを見るのは楽しかった。

ふいにマヌスはきびすを返し、月光の下に出て行った。先ほどのタゲリが、あいかわらず円を描いて空を舞い、嘆きの声をあげていた。マヌスは甲高い声でその鳴き声をまねた。ピーウィー、ピーウィー、ピーウィー。おびえたタゲリは逃げまどった。突然の警戒の叫びと乱れた羽音に、仲間たちも目を覚ました。あたりの空気は千鳥たちの嘆きの声で満ちた。

海の息吹が陸地にまでおしよせてきた。マヌスは胸いっぱいにその息吹を吸い込み、満足のため息をもらした。うねる波への憧れがこみあげた。緑の水が胸板に砕けるのを感じたくてたまらない。同時に、マヌスは今朝からずっと忘れていた飢えと渇きをようやく意識した。銀のモンツキダラか、あるいは褐色の背のリア*3でも、活きがよく艶々したのを、まだ鰓から海水の泡を吹いているまま食べたなら、どんなにか舌に冷たくうまいだろう。あの鼠のように激しく抗うだろうが、それなら、頭をそらして、ぎらぎら光る魚を月光の中に投げあげ、回りながら落ちてくるところを波のてっぺんで待ちかまえて捉え、貪り喰らってやる。

すばやいひきつるような足取りで、マヌスは陸地の側を通って藁ぶき小屋の戸口に回った。中に入ろうとしたところで、出るとき半ば開いたままにしておいた扉が閉まっているのに気づいた。こっそりと窓に近づき、中を覗きこむ。

ひとすじの月光が弱々しく室内に差し込んでいた。いっぽう、泥炭の芯にくすぶる炎が灰の隙間から舌を伸ばし、被せた灰の覆いを貫く勢いはないものの、鈍い輝きを放って、ちらちらと揺れるかすかな光を室内になげかけていた。

ぼんやりとした明かりではあったが、暖炉の前の三本脚の椅子に男が腰をおろしているのを見分けるには十分だった。低く頭を突き出し、何かに聴き入っているように見える。窓のほうからは顔は見えなかった。これはおれの分身に違いない。マヌスは確信した。いったい奴は何をしているのだろう。あるいは、おれが奴に災い (ロサト) を招くことができないよう、聖書を喰ってしまったのかもしれない。そう考えて、マヌスは大声で笑った。影の男がふいに立ち上がった。

マヌスはすぐさま藁ぶき屋根に攀じ登ると、綱から綱へと伝って這い進んだ。綱には、暴風に屋根を吹き飛ばされぬように、重しの役目をする大きな石がくくりつけられている。重石をひとつひとつ綱から毟り取り、扉の前の地面に投げ出した。次いで、両手で藁を掻きだし、屋根に穴を掘る。そうする間も、ずっと獣のように唸り声をあげていた。

月が煌々と照らしているのは都合がよかった。大きな穴を開ければ、部屋に居座っている墓から蘇った邪悪なものの姿を確かめることができ、石を投げ落として殺すこともできるだろう。

マヌスはふいに手を止め、黙り込んだ。冷たい汗が噴き出した。己の分身か、死せる敵の霊か、はたまたグルーム・アハナその人かはわからぬが、それは低くゆっくりと禍々しい旋律を奏で始めた。鋭く冷ややかな楽の音は、フェタン以外ではあり得ない。マヌスにはわかっていた。そしてその冷たく白い、雪片のように闇を舞う旋律も。そう、最後の審判の日まで眠り、天国と地獄の喧騒のなかで、たとえ音符の一つでも聴いたなら、必ずやマヌスは悲鳴をあげるだろう。この曲、ダーン・ナン・ローンのゆえに。

そう、ダーン・ナン・ローンだ。ローン! 海豹ども! ああ、このつらい地上で自分は何をしているのか。向こうに海が広がっている。緑の波間にいれば、身を脅かされることもないだろう。

マヌスはひと跳びで地面に降りた。大きな石を持ち上げて窓に投げつける。笑いと叫びを交互にあげながら、大岩礁に向かっていちもくさんに駆けていった。岩礁の縁では、白く波頭を立てながら、引き潮が喉を鳴らし、すすり泣いていた。

マヌスの笑いと叫びが途切れた。背後から、ダーン・ナン・ローンの調べが、かすかにではあるが追いかけてくるのが聞こえたのだ。確かに、追いかけてくる。低く身をかがめ、岩礁につづく岩場めがけて全力で走った。

岩場の端までたどりついたところで、マヌスは急に足を止めた。目前の岩礁に、およそ十頭から二十頭ほどの海豹がおり、思い思いに泳ぎ回ったり、岩に張り付いたりしている。丸い頭を月に向けて高く上げ、奇妙な吼えるような鳴き声をあげるものもいた。ひとところで水面が大きくうねり、盛大な水しぶきがあがっている。二頭の牡が死闘を繰り広げていた。

訳注 3: リア (liath) は「灰色」の意。詳細は不明

      

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