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不吉な前兆にもかかわらず、マヌスとアンの生活はうまくいっていた。マヌスは以前より無口になり、周囲からは遠巻きにされるようになったが、本人はアンとともにいれば幸せだったし、今はカラム・マッコドラムとラナルド・マクラナルドの二人を仲間として不満もなかった。若いドナルは、縁者であるスカイ島の船長の船に乗り組むようになり、羽振りがよくなった。オーリィ・マクニールのほうは、マヌスを除いた誰もが驚いたことには、故郷を離れ、クライド川からオーストラリアに向かうロッホ・ライン社の船の水夫となった。

アンは、いくらかは察していたのかもしれないが、実際に何が起きたのかは、まったく知らされていなかった。はっきりしていたのは、マーカスとグルームは姿を消し、海で溺れたものと考えられていることだけだった。いまやエランモアにはアハナ一族は誰一人残っていなかった。

シェイマスも島と孤独な暮らしにすっかり嫌気がさしてしまったのだ。おおかたの意見が、二人の兄は外海まで流されて溺れたか、運がよければ外洋船に拾われたのだろうという結論に落ち着くと、早々に農場を捨てて永久に島を離れた。一連の出来事は西方の島々で囁かれていた噂を裏付けるものだった。いわく、ロバート・アハナは呪いを島に持ち込んだのだと。アハナ老人がエランモアに暮らした長い歳月の間、胴枯れ病と天災がたびたびエランモアを襲い、悲惨な、あるいは謎めいた死によって七人の息子のうち六人が命を落とした。そして残る末っ子も額に「憂いの影」を帯びている。たしかに、六人のうち三人の生死は誰にも定かではなかったが、アラスター、マーカス、グルームの三人が生きている可能性をわずかでも信じるものは、ほとんどいなかった。アンがマヌス・マッコドラムとともにエランモアを去った夜、シェイマスはとくに不審な物音や騒ぎは耳にしていなかった。アンが港まで降りて行ってから一時間が経ち、アンも兄たちも戻らないままルア号が出港したことを知ったときも、何も心配はしなかった。マーカスとグルームも船に乗って行ったに違いない。おそらくは司祭か牧師が正式に従妹を娶わせるのを見届けることにしたのだろう。その夜のある出来事さえなければ、それからも平穏に過ごしていたはずだった。寒気をおぼえたシェイマスは、みなルア号に乗って行ってしまったのだと考え、家に戻った。泥炭が燃える炉のそばに座って物思いにふけっていると、背後の窓で物音がした。何度も聞いた覚えのある旋律の一節が、ようやく聞こえるかどうかというほどかすかではあったが、耳に突き刺さるように飛びこんできた。これは確かにダーン・ナン・ローン、とすれば吹いているのはグルーム以外にありえない。いったいどういうことだろう。いや、ただの空耳だろう、外の暗闇でフェタンの音などしていない。あれこれ思い巡らしていると、あいかわらずかすかな、しかし先ほどよりはっきりとした節回しは、シェイマスが嫌っており、グルームも彼の前では吹いたことのないダウサ・ナ・マラヴ、<死者の踊り>に変わった。シェイマスはさっと立ち上がり、足音を忍ばせてすばやく部屋を横切った。牛小屋の陰の暗がりには誰の姿もなかったが、旋律ははたと止んだ。外に出てあちこちくまなく探し回ったが、やはり誰もいなかった。仕方なく家に戻り、慄きのおさまらぬまま聖書を取り下ろして、ゆっくりと読み上げていると、じきに平安が訪れ、赤々と輝く泥炭の温もりのようにやさしく心を包んだ。

いっぽうアンの身辺には、死んだと思われていた者のひとりが生きている、あるいは死してなお幻のフェタンを操って、この世のものならぬ墓場の旋律を響かせているなどとほのめかすことは何も起こらなかった。

ふたりの平和に影をさすものもないまま月日が過ぎ、マヌスも愁眉を開いた。漁から戻るときや浜でのんびり網を繕うときなど、ふたたびマヌスの歌が聴かれるようになった。それに、もうすぐさらなる喜びが訪れるはずだった。アンは身ごもっていた。たしかに気がかりもあった。お産を間近に控えたアンは気分がすぐれず、日に日にやつれていくようだった。ある日、南ユイスト島のロッホ・ボイスデイルに出かける用事ができたマヌスは、後ろ髪を引かれる思いに加えて、なにとはなしに不吉な予感をおぼえながら、住まいを構えていたハリス海峡のバーナレイ島を後にした。戻って来たのは三日目の夜だった。漁仲間のラナルドの妻であるカトリーンに出迎えられ、自分が出かけた後すぐに、死を予期したアンはロッホ・マディにいた司祭を呼びにやったのだと聞かされた。その日の夜のうちにアンは息を引き取り、子供も運命をともにしたのだという。

この知らせをマヌスは夢の中の出来事のように聞いた。心臓を潮が引いていき、冷たいみぞれまじりの雨が、頭の中にかかった霧を貫いて降り注いだ。

悲しみはマヌスに重くのしかかった。愛する妻を埋葬してからというもの、マヌスは独りきりであちこちさまようことが多くなった。たいていは海峡を渡り、バン・ブレクのふもとのピクトの塔まで足をのばした。漁に出ようとはせず、親類のカラムにルア号を任せきりにしていた。折に触れて、アラン・マクニール神父が彼に会いにはるばる北までやってきた。訪問を重ねるごとに、別れ際の神父の顔は暗さを増した。「このままでは気がおかしくなってしまうだろう」最後に訪れたとき、神父はカラムに向かってそう告げた。

宵が長くなるとともに、島々に穏やかな美しい夏の日々が訪れた。鰊の当たり年で、夜の漁はいつになく大漁だった。海の恵みで生計をたてるユイスト島の男という男は、寸暇を惜しんで船を出した。ポラック*2、鮫、獺、海豹に加えて無数の海鳥が群をなしてやってきては、ひとしく饗宴にあずかった。ひとりマヌス・マッコドラムだけが、鰊にも鯖にも見向きもしなかった。人々はわきめもふらずに浜辺を歩いていくマヌスの姿をたびたび目にした。笑い声を聞いたという者もいる。引き潮のときにはバーナレイの岩礁の近くまでやってきて、耳慣れぬまじないのような歌をうたったり、じっと岩の上にうずくまっていることもあった。

夜空から見下ろす夏至の月の眼に映る人間は、島中でもマッコドラムと自由教会の牧師であるブラック師、それにアンドラ・マッキアンという名の老人くらいのものだった。仲夏もあと一日を残すのみとなった宵、アンドラは教会の敷地の墓から男が起き上がり、石垣にそってマヌス・マッコドラムの住むバルナハナル・サ・モーナ†2に向かって下っていったのを見たと言い張って、牧師にたしなめられた。

「死者が起き上がって歩くわけがない」

「それはそうかもしれんがね、牧師様。でも、あれは死者の守人だったのとちがいますか。ポドリク・マカリスターが緑の塚の下に横たわってから三週間になるならずってところです。誰かに仕事を代わってもらいたくなったんでしょうよ」

「やれやれ、そんなものは古臭い迷信だよ。死者が起き上がって歩くことなどないと言っているだろう」

「牧師様のおっしゃることが正しいのかもしれませんがね。しかし、わしはこの話を親父から聞いたんでさ。親父は、あんたがまだひよっこだったときに、もう年寄りだったし、親父はそのまた親父から聞いたんだ。最後に葬られた者が死者の守人に飽きると、あちこちさまよいだして、男でも女でも子供でも、目の中に死の影があるやつを探しに行くんでさ。それで誰か見つかると、ようやく安心して墓に戻って休むのさ。これで見張りのお役も御免だってね」

神父はたわごとを一笑に付し、翌日の礼拝の準備をするために戻って行った。しかし、アンドラ老人の心は休まらなかった。夕食の後、薄暮のなかをバルナハナル・サ・モーナまで出かけて行った。マヌス・マッコドラムに会って忠告してやるつもりだった。しかし、西壁のところまで来て開いた窓のそばで立ち止まると、ほかに誰もいない部屋でマヌスが大きな声でしゃべっているのが耳に入った。

「B'ionganntach do ghràdh dhomhsa, a' toirt barrachd air gràdh nam ban! (汝の愛はこのうえなかった、いかなる女の愛にもまして)

マヌスは苦しげに震える声でそう言った。アンドラは身動きもできなかった。中に入るのは恐ろしく、またマヌスの傍らに見てはならない者を見てしまうかもしれないのも恐ろしかった。声は断末魔の叫びにまで高まった。

「Aoram dhuit, ay an déigh dhomh fàs aosda! (我は汝をあがめるだろう、ああ、我老いたる後も)

アンドラはたまらずその場を離れた。牛小屋のそばを通ったとき、人影が見えた気がしてぎょっとした。しかし、落ち着いて見直してみると誰もいなかったので、びくびくと震えながら家に戻った。

だいぶ暗くなったころ、マヌスが家の外に出てきた。今夜は雲が多くなりそうだと見たためか、しばしためらった後、あてどない散策には出かけず家に戻った。しばらくの間、芯の赤く燃える泥炭の前に座って鬱々と物思いに沈んでいたが、やにわに弾かれたように立ち上がった。

窓のすぐ外で奏でられているかのようにはっきりと、冴えざえと凍てつくような麦笛の音が聴こえた。その狂おしい旋律は忘れられるはずもなかった。ほかに誰あろう、グルーム・アハナがかのフェタンを奏でているのだ。そしてその調べは、まぎれもなくダーン・ナン・ローン。

死の影に姿を隠した死者がそこにたたずんでいるのか。かたわらには、今も胸にナイフが柄まで突き刺さり、唇からは泡を吹いたマーカスを従えて。海が死者を返して寄越したのか。かつて人の手がこしらえたフェタンは、かの沈黙の地でも旋律を奏でるのか。

マヌスの思いはいたずらに乱れた。今耳にしている旋律がダーン・ナン・ローンであり、吹いているのはグルーム・アハナその人以外にありえぬことは明らかだった。

湧き上がる怒りがマヌスを発作的な狂気に駆り立てた。笛の音はふいに調子を変え、<ダウサ・ナ・マラヴ>を奏でたかと思うと、すぐにどこか妖しく不気味な<コヘル・ナン・パルチェン>、グルーム・アハナよりほかにあえて奏でる者もない曲に転じた。

もはや疑う余地はなく、<蟹の集い>のぎくしゃくとした呟きのような旋律の意味するところも明白だった。

マヌスは大きな叫び声をあげると、暖炉の脇に置いてあった短剣をひったくり、おもてに飛び出した。家の正面には鴎の影ひとつ見当たらない。急いで牛小屋の周囲をひとまわりしたが、やはり怪しいものは何も見つからなかった。

「畜生! 生身の人間だろうが亡霊だろうが、この剣で一突きにしてやる」

しかし誰一人姿を現さず、物音さえしない。

とうとう短剣を握った手をだらりとおろし、マヌスはきびすを返して家に入った。グルーム・アハナの言葉がよみがえってきた。<お前が死ぬ前の晩に、ダーン・ナン・ローンを聴かせてやう。疑う余地のないよう、死の刻にも、もういちど>

訳注 2: タラ科の魚

原注 2: Baille-'na-aonar'sa mthonadh 「丘の斜面の寂しい農場」

      

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