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グルームはマヌスとルア号の間に頭を出した。マヌスは櫂受けに櫂を固定し、鉤ざおを手に取った。

グルームがこちらに向かってまっすぐに泳いでくる。その姿がふいに水面下に潜った。一瞬のうちに、マヌスはグルームの意図を悟った。小舟の真下に出て、竜骨をつかんでひっくり返せば、上からマヌスを取り押さえられるとふんだのだ。とっさに飛び込むことしかできなかった。はたして、海に身を沈めるやいなや、小舟は真っ逆さまに覆り、そのうえにグルームが這いあがった。

はじめ、グルームは敵の姿をとらえられなかった。逆さになった船の上にしゃがんで、月光を跳ね返す水面を血眼で探った。とつぜん、なにか黒い塊が小舟とルア号の間の陰に浮かび上がった。黒い塊が笑い声をあげた。マーカスの死の前に聞いたのと同じ、低いしわがれた笑いだった。

今や攻守交替し、海中のマヌスが近付いてきていた。一尋ほどをへだてたところで、身を起こして立ち泳ぎの姿勢になる。右手には鉤ざおが握られていた。舟上のグルームは、留まれば死が待つのみと知って、猫のように身を縮める。マヌスはゆっくりと立ち泳ぎを続けたが、その間も狙いは定めたまま、一跳びの距離に敵が近づけば、すかさず鉤ざおの先端の鋭い爪で刺し貫いてやろうと身構えていた。ときおりマヌスは笑い声をあげ、それから歌い出した。低い甘い声が、深く息を継ぐときばかりは乱れた。

暗い潮は、その背に負うた重荷にあえいでいた 海藻の積み重なる浜で、潮の言葉を、ささやきを聞いた 海藻を揺り動かす波のひとつひとつが、扉を閉ざすかのようだった 最後に聴こえるのは閉ざされる扉の音、もはや他の音は聴こえはしない

ああ哀し もはや

塩辛い海藻の間を潮は過ぎ、刃のごとく切り裂いた 荒れ狂う海風は、うめきと嘆きを繰り返した 深い海の魂は、昔語りの繰りごとをつぶやいた その魂の嘆きを、高まる嘆きを、消えゆく嘆きを聴いた

哀しきその 御魂よ

かつて白い波は倦み疲れ、血の気の失せた唇は灰色だった むさぼり喰らう口にあふれる泡は、流れる血汐に赤く染まった おお赤き海藻、赤き波、うつろな絶望の叫びよ ひとりを得たうえに、暗き海よ、なにゆえまたも贄を求めるのか

ああ哀し またもや

月光のしじまにゆったりと長くリフレインを響かせる、たとえようもなく美しくこの世のものとも思えぬ歌声は、他の者には真似のできないものだった。湾内の海面はきらきらと輝き、石の堤に沿って揺れる炎の筋をなした。ときおり魚が飛び跳ねて淡い金色の波紋を広げ、水面に浮かび上がった海月は青や薄緑の生きたゼリーのような半球を月の輝きに染めた。

海中のマヌスはふいに動き回るのを止め、しばし耳を澄ませた。ふたたびゆっくりと水を掻きはじめると、肩のまわりに淡い輝きが広がった。いまいちど、ひときわ大きく歌声が響いた。

海藻を揺り動かす波のひとつひとつが、扉を閉ざすかのようだった 最後に聴こえるのは閉ざされる扉の音、もはや他の音は聴こえはしない

ああ哀し もはや

敏い耳は、陸のほうでなじみ深い声が歌うのを聞きつけていた。月光のように優しくきよらかなアンの歌声が、アンが港に通ずる窪地をやってくるのにつれて近づいてきた。マヌスはアンの姿を求めて視線をさまよわせたが、アンのいる場所はまだ影になっていたうえ、ゆっくりと流れる雲が月の光を翳らせていた。ふたたび向きなおったマヌスの唇から、押し殺した叫びが漏れた。グルーム・アハナの姿がみあたらない。音もなく小舟から水中に身を滑りこませ、今は舟の背後に隠れているのか下に潜ったのか、それとも水面下のどこかを泳いでいるのか。雲が過ぎてくれさえすれば。マヌスはつぶやき、足下からの、あるいは背後からの攻撃に備えた。闇が薄れてから慎重に小舟に泳ぎ寄り、すばやく一回りした。誰もいない。小舟に上がって竜骨の上に立ち、たいまつをかざして鮭をやすで突く漁師のように身を乗り出して、槍の穂先のように先端の鋭い鉤ざおを構えた。あたりにも離れたところにも何の姿も認められなかった。押し殺した声でオーリィ・マクニールに呼びかけたが、やはり何も見なかったという答えが返ってきた。グルームは水に潜って逃れるうちに力尽きて沈んだに違いない。今頃は鮫の餌食となっているのかもしれない。

マヌスは小舟の後ろに回り、船まで押して行った。ほどなく、マクニールの手を借りて逆さになった舟を起こした。片方の櫂が流されて無くなっていたが、船尾にも艫櫂の受け穴があるので漕ぐのに不都合はなかった。

「こいつをどうしようか」マーカスの死体の傍らに立ったマヌスはつぶやいた。「今夜は災難だな、オーリィ」

「まったくだ。しかし、これ以上面倒なことにならないようにしようぜ。思ったんだが、小舟はほうっておくべきだったな」

「どうしてだ」

「マーカスとグルームは立ち去って、その後二人も小舟も見ていないと言えるじゃないか」

マヌスはしばらく思案していたが、海の上を渡ってくるかすかな声を聞いて心を決めた。アンとドナルが話しているのだろう。マヌスはすばやく小舟に飛び移り、船員ナイフであちこちに穴を開けた。小舟に水が入ってくる。オーリィがマヌスに渡した重石の重みに加えて、マヌスが思い切り足で下へ押すと、小舟は沈んでいった。

「その――そいつを外海に出るまで隠しておこう。そこの巻き上げ機の陰、予備の帆の下がいい。はやく、手を貸してくれ」

二人の男が死体を持ち上げてマヌスの言ったとおりにするのに時間はかからなかった。やりおおせるがはやいか、アンの澄んだ優しい声が水面を渡って呼びかけてきた。

蒼白な顔に震える手足のマヌスは、帆柱を掴んで身を支えていた。しかしその声は、オーリィが不安ながらも思わず微笑まずにはいられなかったほど朗々として力強く、アハナ兄弟はもう戻ってきたか、それならすぐにドナルをこちらに寄こして、できるならアンも一緒に来てほしいと頼んだ。

それから半時間ほども経って、ようやくアンはルア号に向かって漕ぎだした。結局、アンは浜を回ってマーカスの小舟の一艘が繋がれている入江まで舟を取りに行き、ふたたび戻ってこなければならなかった。ドナルを乗せると、グルームやマーカスに捕まることを恐れ、あらん限りの力で舟を漕いだ。

アンは手短かに、引き留めようとするシェイマスの無駄な努力を一笑に付し、港まで急いでやってきた次第を語って聞かせた。港に近づくとマヌスの歌が聴こえたので、思わず自分もマヌスが好きだと知っている歌をうたっていた。水際まで来ると、縛られ、さるぐつわをかまされたドナルが仰向けに倒れているのを見つけた。ドナルを自由の身にして、何が起こるのかと二人で待ち構えていたが、月の光の下では、こちらに向かうものも船に向かうものも、一艘の小舟も見えなかったので、マヌスがそこにいるのかどうか確かめようと呼びかけたのだった。

マヌスのほうはぶっきらぼうに、アハナ兄弟がアンを置いて出て行くよう説得しに来たことを告げた。マヌスが断ると、兄弟はマヌスとアンへの脅しを吐いて去っていった。薄闇のなか遠ざかる舟からは口争いが聞こえていたが、月の光が翳ったので二人の姿を見届けることはできなかった。

「それでは、愛しいアン」マヌスは呼びかけた。「一緒に来てくれるんだね。今ここに来てくれたように。絶対に、後悔はさせないよ。おれにしてやれることなら、何でもかなえてやる。愛しいおまえ、今夜、一緒に行くと言っておくれ。イコルムキル*1の黒い石にかけて、太陽にかけて、月にかけて、神にかけておれは誓う」

「愛しいマヌス、信じているわ。こんなことがあった後では、あの家には帰りませんとも。あなたと行くわ、これからずっと。神よ守りたまえ」

「では、エランモアとはお別れだ。十字架の血にかけて、この島の土を二度と踏むものか」

「悲しいとも思わないわ、マヌス、わたしの故郷よ」

こうしてアン・ギレスピーはエランモアを去り、西方の島々に向かった。

白く輝く月の下、そよ風のささやきを受けて船はなめらかに進んだ。アンはマヌスの胸にもたれ、甘い夢を心に描いた。若いドナルは舵の元に座ったまま、うとうとしていた。船首のオーリィ・マクニールは、顔を月光に晒して西の方をじっと見つめたまま、陰鬱な表情で何事かを考え込んでいた。

すでに陸地は視界の彼方に消え、無言の星々がまたたく空の深みにも、大海原の上にも静けさがあったが、マヌス・マッコドラムの顔には恐怖が影を落としていた。

それは巻き上げ機の傍ら、予備の帆の下に横たわる、いまだ葬られざる死者のゆえだとしても無理はなかっただろう。しかし、彼は死者を恐れはしなかった。マヌスの胸でうめきをあげ、脳髄のうちでため息をついては執拗に呼びかけるのは、ルア号がすべるように港を出る間際に耳にした、かすかな谺だった。水の上からか、岸辺からはわからなかったが、心騒がすダーン・ナン・ローンの旋律をマヌスは聴いた。まさにその夜、グルーム・アハナのフェタンが奏でたときそのままに。

耳のいたずらだと思いたかった。あたりを見回して、薄闇の中から見返すオーリィ・マクニールの目に暗い炎が宿っているのを認めたとき、マヌスはフィンの息子オシーンの悲痛な叫びの意味を理解した――「彼の魂は霧の中を泳いでいた」

訳注 1: アイオナ島のこと。「聖コルムキル(コルンバ)の島」の意

      

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