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月光の下を行く二つの人影は隠れもなかったが、ルア号の男たちはマヌスの歌に聴き入っていたため、しばらく気が付かなかった。

マヌスがふと歌を途切らせると、仲間の一人が軽口をたたいて、歌に誘われて海豹でもやってきたのか、気をつけろよ、海の民の女かもしれないと言った。

マヌスは顔を曇らせたが、口に出しては何も言わなかった。他の二人も耳を澄まし、月光にかすかに混じるダーン・ナン・ローンの鬼気漂う旋律に気がついた。浜のほうに目を凝らし、兄弟の姿を認める。

「これはいったいどういうことだ」一人が不安げに尋ねた。

「女の代わりに男が来ると」ゆっくりとマヌスが答えた。「カラスの若鳥たちが巣を起き出すのさ」

それはつまり、流血という意味だった。オーリィ・マクニールとドナル・マクドナルは漁網を置いて立ち上がり、マヌスの出方をうかがった。

「おうい、そこの」マヌスが叫んだ。

「おうよ」

「何が望みだ、エランモア」

「ちょいとおまえと話がしたいのさ、マヌス・マッコドラムよ。こちらに来てくれないか」

「俺に話があるなら、おまえたちがこちらに来ればいい」

「あいにく舟がないんでね」

小舟 (ボータ・ビェーク) をよこしてやるよ 」

マヌスは仲間のうちの年下のほう、十七になるドナルに向かって、岸まで小舟を漕いで行くように言った。

「戻ってくるときは、一人しか連れてくるんじゃないぞ。エランモアでもグルーム・ミク・アハナでも、どちらでも構わない」そう言い足した。

小舟のもやい綱が解かれ、ドナルは月光の下をすべるように漕ぎだした。薄雲が月の面をよぎり、岸のあたりが暗く翳ったが、ドナルが綱を投げ、堤に沿って小舟を船着き場に寄せたのは見分けられた。一転、にわかにあや目も分かぬ闇に包まれた。ドナルが話をしているらしい、とルア号の男たちは見当をつけた。何も起こらぬままいくばくかの時が過ぎ、ついに小舟がふたたび岸を離れた。舟上の人影は二つ。マーカスとグルームの二人をともに来させぬよう、言いくるめるのに手間取ったのだろう。

いかにも、ドナルは弁をふるっていた。しかし、その間もマーカスの視線はドナルを通り越した背後に注がれていた。

「あそこにいるのは誰だ」マーカスは問うた。「あの、艫のほうに座っているやつだ」

「舟にはだれもいないぞ」

「男の影が見えたような気がしたが」

「なら俺の影だろうよ」

マーカス・アハナは弟のほうを向いた。

「俺はあの舟の上に何者かの死を見た」

グルームはぶるっと身を震わせた後、小さく笑った。

「俺には死なんて見えなかったぜ。それが本当なら、そいつはダーン・ナン・ローンに合わせて踊り出すだろうよ。俺やおまえの分身なら、そんなことはしそうにないがな」

「俺が見たのは分身ではない、誰かの死だ」

グルームが兄に囁きかけ、マーカスはうなずいた。と見るや、何かぶ厚いものがドナルの口をふさいだ。あらがうことはおろか、何が起きたかを理解する間もなく地面に投げ出され、ドナルは息を詰まらせた。ほどなくして、櫂はグルームの手に握られ、小舟はすみやかに港の奥から出て行った。

マヌスは近づいてくる小舟をじっと見つめた。

「オーリィ、櫂をとっているのはドナルではないぞ」

「ああ。見たところ、あれはグルーム・アハナにちがいない」

マッコドラムは、なおも食い入るように見つめた。あれがグルームだとすれば、艫にいるもう一人はドナルにしては大柄すぎる。小舟が舷側に並んだ時、ふたたび雲が月の面を隠した。綱をしっかりと結びつけると、マーカスとグルームは甲板に飛び移った。

「ドナル・マクドナルはどこだ」マヌスが尋ねた。

マーカスが答えようとしなかったので、グルームが代わりに口を開いた。

「俺たちの家に向かっている。アン・ニク・ギレスピクへの伝言を携えてね」

「どんな伝言だ」

「マヌス・マッコドラムはエランモアを出てゆき、二度とおまえに会うことはないと」

マッコドラムは声を上げて笑った。低くしわがれた笑いだった。

「グルーム・アハナよ、おまえのフェタンでコヘル・ナン・パルチェンを吹くがいい。下の岩場に蟹どもがやってきて、はさみを振って笑っているにちがいないからな」

「ああ、確かにそうだな」グルームは冷ややかに答えた。「そう、おまえの言うとおり、<蟹の集い> を吹くのもいいかもしれん」その後、ふと思いついたというように付け加えた。「それとも、こんな静かな夜だが、おまえにコー・ホンを吹いてやろうか。<蟹の集い> よりは <波のひと打ち> のほうがふさわしいだろう」

「俺の聞くコー・ホンは、おまえの考えているのとは少し違うだろうがな。グルーム・ミク・アハナよ。<帆を上げて別れを告げよう> ではなく、<花嫁を連れて故郷へ> という歌になるはずさ」

このときマーカスが口を開いた。

「おしゃべりはもうやめだ。きさまにアンはやらん。アンの夫はグルームだ。だからさっさと出て行け。おとなしく立ち去るなら、おれたちも手出しはしない。これ以上ぐずぐずするのなら、おれが舟に見たものがおまえの運命だ」

「何を見たと言うんだ」

「何者かの死」

「そうか。それなら」しばし四人の男の無言の睨み合いが続いた後、マヌスが口火を切った。「穏便に済ませるつもりがないというなら、血が流れるのも厭わないということだな」

「そうだ。行け。馬鹿ではないならな。さもなければ、死ぬのはおまえだ」

夏の稲妻のような閃光がひらめいた。あおじろい炎が月光を貫いて走ったように見えた。マーカスが鋭く息を呑んでよろめく。大きくのけぞった顔が月光に白じらと照らされ、がくりと膝が折れた。上体が前にのめり、そのまま倒れ伏す。マヌスが放った短刀は、マーカスの胸板に浅く刺さったにすぎなかったが、倒れた拍子に柄元まで深々と埋まった。

黙りこくったまま、三人の男は海藻の間を潮が引いていくときのような音を聞いた。死者の肺で血泡がごぼごぼと音をたてているのだった。

青ざめたマーカスの唇から淡い血の色をおびた泡が筋となってあふれてくるころ、ようやく口を開いたのは弟のグルームだった。

「これは殺しだ」

声は穏やかだったが、砕ける波頭のように聞く者の耳を打った。

「それでは真実のすべてとはいえないな。これは殺しだ――おまえたちが望んだ」

「おまえはマーカス・アハナの死の責めを負うのだ、マヌス・マッコドラム」

「そいういうことにしておこうか。おれとおまえの間ではな。それともおれとおまえの一族すべての間でもいいが。だが、おまえだけではなく、オーリィ・マクニールも証言できるのだぞ。おれが短刀を投げたのは身を守るためで、それがマーカスの身体を貫いたのは奴自身のせいだったと」

「首に縄をかけられるときに、縄にむかってそうほざいてみるがいいさ」

「それで、今度はおまえはどうするんだ」

はじめてグルームが動揺の色を見せた。一瞥して、都合の悪いことに小舟はルア号の後ろに繋がれているため、ひと飛びに移ることはかなわず、かといって綱をたぐりよせていては二人の男の思うつぼだと悟った。

「おれはおとなしく立ち去ろう」グルームは静かに言った。

「そうか」おなじく静かな声が答えた。「流血はなしか」

一触即発の危機をはらんで、二人は対峙した。

ついに沈黙を破ったのは、アハナの子のほうだった。

「お前が死ぬ前の晩に、ダーン・ナン・ローンを聴かせてやう。疑う余地のないよう、死の刻にも、もういちど」

「Ma tha sin an Dàn――それがさだめなら」

マヌスはおごそかに言った。しかしその穏やかさは、かえって不吉だった。相手から情けは望めぬことをグルームは悟った。

ふいにグルームは嘲るような笑いを放った。右手をのばし、二人の敵の後ろにいる誰かを指さすようにして怒鳴った。

「マーカス、奴らに死の手をかけろ。墓場へ送ってやれ」

二人は心臓を鷲づかみにされたかのように飛びのいた。殺されたばかりの死者に触れられるのは、おそるべき災いだった。亡者は触れた者にすべての罪を移すことができるのだ。

次の瞬間、大きな水音があがった。マヌスは、ただのはったりにしてやられ、グルームを逃したことを悟った。急いで小舟をたぐりよせて飛び移ると、敵を捕らえようとただちに漕ぎだした。

      

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