愚者

      

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漁船〈波〉トーン号の舳先から飛び降りた愚者アマダウンが目測を誤って浅瀬に落ちたのを見て、漁師たちは笑った。愚者は無様にもがきながら、大笑いする男たちと岸のあいだで、おどおどした眼差しをさまよわせた。

よろめきよろめき、浅瀬を歩いてゆく。鴎が頭上に輪を描き、甲高く啼いた。愚者は喚きかえした。トーン号の男たちが笑った。

このうつけ者は背が高かったが、早くも腰が曲がっていた。まったく年寄などではなく、人生の盛りにある男としか見えなかったが、髪は灰白だった。

グルーム・アハナが笛の音で彼を狂気に陥れてから、まだ一月と経たなかった。しかしいまや、南部の友人たちが見たとしても、アラスター・マクイアン、誇り高きアラスターとはわからなかっただろう。汚れた衣服はぼろぼろに裂け、振る舞いは奇矯で気違いじみていた。しかしそれも内面の変化を映したに過ぎなかった。この男の魂は地獄を見たのだった。そのために誇り高きアラスターはアマダウン、さすらいの愚者となった。

タイリー島からルイス島(あるいはヘブリディーズ諸島での呼び方にならえば長い島ロング・アイランド)のアスケイグまでは、ずいぶん離れていた。アラスターは、タイリーから百年もかかって長い長い航海を続けてきたのだと言いはって、ピーター・マコーリィを大いに笑わせた。

乾いた砂浜まで辿りつくと、漁船を振り返って目をみはり、手を振って見せた。

「どこ……タイリーは……どこだ」愚者がそう叫ぶと、漁師たちは質問が可笑しかったのと、声音のせいでまた笑った。そのとき、エヴァン・マッケヴァン老人が立ち上がって、煙管を口から離した。

「もうたくさんだ、おまえたち」静かに言い渡す。「神がなされたことだ。笑いすぎだ」

「ああ」ピーター・マコーリィはきまり悪げに答えた。「でもあいつは、ただのうつけ者だ。おれたちが笑ったって、何もわかりゃしませんよ」

「神がお見通しだ」

「うん、まあ、確かにそうだ。あんたの言うことは確かにもっともだ」

そう言うと、マコーリィは愚者に呼びかけるようなそぶりを見せたが、船長である老人に押しのけられた。

エヴァン老人は舳先に立つと、索を伝ってすべり降りた。長靴の脚を波に洗わせて膝くらいまでの水の中に立つ。それから岸まで浅瀬を渡ってゆき、正気をなくした男に近づいた。

「おまえさん、名前はなんというんだ」

「エーニャ」

「ああ、おまえはそれしか言わん。だがそれは男の名前じゃない。女の名前だ。おまえさんの名はなんというんだ」

「エーニャ――黒い瞳のエーニャ」

「いやいや、ほれ、おまえさんはイーだと言っていただろうが」

「そうだ、イー。誇り高きイー」

「ああ、もういい、神がおまえに安らぎをお与えくださるように、まったく気の毒にな。まったくみじめな誇りというものだ」

相手の答えはなかった。

「それで、これからどこかへ行こうっていうあてもないのかい」

「ある……ない……ある……西に星が光っている」

「おまえさん、金は持っているのか。ほらここに少しばかりある。一シリングと二ペニーだ。なけなしの金さ。だがありがたいことに、おれは正気だ。この煙草はどうだい。いい煙草は気持ちを落ち着かせてくれるものさ。そうだ、ほら、おれの煙管だ。ほら、やるよ」

だがアラスター・マクイアンはただ首を横に振るばかりだった。金を手に取り、まじまじと見つめた。何か考え込むような表情を見せる。ふいにその目に涙が浮かんだ。

「思い出した……思い出した……」どもりつつ言う。「古いことわざだ。目の……目の見えない……鳥の巣は……目の見えない鳥の巣は……神がお作りになる」

エヴァン・マッケヴァンは青い縁なし帽を取った。畏怖すべき沈黙に満ちた天を仰ぐ。神は聞きたもう。

老人がふたたび口を開こうとしたところへ、浜辺の先の砂地から盛り上がるわずかな緑を散らした砂丘を越えて男が姿を現した。男は盲目で、犬に導かれていた。

エヴァンはほっと息を吐いた。男は知り人だった。アラン・ダウル。これでこの愚者も助けを得られるだろう。そもそもこの男に、助けなどというものがあり得るならだが。

老人が盲目の男に近づくと、男は足音を聞いて立ち止まった。「なんと丈高く痩せていることか」老人は胸のうちに呟いた。長い、白いものの混じった金髪が肩のあたりまで届いていた。蒼白い顔は内なる魂の美に照らされていた。まるでランプを灯したかのように。盲目ではあったが、その青い目には不思議ないきいきとした光が宿っていた。

「誰なんだ?」はっとするような低く優しい声がゲール語で尋ねた。

「誰がいるんだ? 日向で砂に寝ていたら、笑い声が聞こえたが」

エヴァン・マッケヴァンは男の傍に行き、いっさいを打ち明けた。

話を聞き終わると、アラン・ダウルは口を開いた。

「その可哀想な人をおれに任せてくれるか、エヴァン。安全にかくまってやろう。ひょっとしたら、神ご自身が――神よ讃えあれ――目の見えない鳥のために、求めてやまない巣を作ってくださるかもしれない」

そのようにことは運んだ。

それから三日が経って、ようやくアラン・ダウルは愚者の素性を知った。

朝からひどい雨が降り続いていた。アラン・ダウルが寝泊りしている泥炭小屋の外では、絶え間ない水音が蜂の唸りのように眠気を誘う単調な安らかさを醸し出していた。雨音の合間に、無数の音が渾然となった憂鬱なため息のような音が忍び入ってくる。小屋の下の入り江で、岩をびっしりと覆った海草を掻き分けて緩慢に満ち退きする潮のざわめきだった。

粥と乳ときめの粗いパン――毎朝、暖炉の火と食事の面倒を見にきてくれる老女が持ってきたものだが――を食べ終えてしまったアラン・ダウルは、泥炭の火の前に腰を下ろしてとりとめのない物思いにふけっていた。当面のこまごましたことや、飢えた魂の鎮めがたいもろもろの欲望や、そしてなにより、自分の許に連れてきた男の抱える秘密について思いを巡らした。哀れな愚者は、よく眠っていた。よいことだ、起こしはすまい。雨音には深い安らぎの響きがあった。

昨晩のことだった。赤々と輝く泥炭の芯を見つめたまま、愚者がふいに身を震わせた。

「どうした」アラン・ダウルは穏やかに尋ねた。

「おれの名はアラスターだ」

「アラスター? おれも……おれのよく知っている男もアラスターという」

「そいつは誇り高きアラスターと呼ばれているか?」

「いや。誇り高き者とは呼ばれていない」

「おまえの名はアランといったか?」

「ああ。おれは盲目の身ゆえ、アラン・ダウルと呼ばれている」

「アラン・ダウル、おまえの顔を前に見たことがある。それとも夢で見たのかな」

「おまえの父の名は、そして父の父の名は」

「思い出せない、それにおれの一族の名も」

長い沈黙がおちた。

アラン・ダウルはしきりと話しかけたが、愚者は耳を貸すようすもなく、こたえようともしなかった。

風が唸り、また静まった。しじまを引き裂いてアオサギが甲高くひとこえ啼いた。そのあとはまた静寂が帰ってきた。

愚者はおちつかなげに身じろぎした。

「誰だったんだ?」ささやき声で尋ねる。

「誰でもないよ、アラスター」

アラスターは腰を上げ、忍び足で戸口まで行った。掛け金をはずして外を覗う。

後を犬が追いかけ、くーんと鳴き声をあげた。

「しっ、静かに、スール*1」アラン・ダウルは小声で制した。

犬はアラスターの横をすり抜けて正面に回り、耳を伏せて吠え立てた。

アラン・ダウルは愚者に近寄り、袖を捉えて引き戻すと、燃えさかる泥炭の前の腰掛けに座らせた。

「誰だと思ったんだ」愚者がふたたび椅子に落ち着き、身体の震えも収まったころにアラン・ダウルは尋ねた。

「誰だったんだ? アラン・ダウル」

「アオサギだよ」

「夜中に啼くアオサギは墓場を抜け出した死者だというぞ」

「そうかもしれないな。だが、死ぬべき時が来たのでなければ、聞いたって別に害はないさ」

「誰かが笑っているみたいだった」

「誰が笑うんだ、こんな寂しい場所で、夜中に。それにいったいなぜ」

「こんな寂しい場所で、夜中に笑うのが誰か、おれにはわかっている。それになぜ笑うかも」

「誰だ」

「そいつの名はグルームだ」

アラン・ダウルはぎくりとした。顔が引き攣り、手に震えが走った。

「それはまたおかしな名前だな。Gruaimグルームか。たったひとり、そういう名前の男を知っているが」

「たったひとりしかいないだろう。そいつはグルーム・アハナといった」

「グルーム・アハナ。そう……その男なら知っている」

それが自分の弟だとは、愚者に告げるつもりはなかった。すくなくとも今は。それではこの哀れな愚者も、あの悪魔の網に捕らわれたひとりだったのだ。そうとわかれば、なんとか癒してやろうと連れてきたこの男を悩ませている秘密を解くことも、ひょっとしたらできるかもしれない。

しかし、アラスター・マクイアンは同じ言葉ばかりを繰り返し、他には何も言おうとしなかった――「あいつは人間じゃない、悪魔だ」。ほどなく愚者は糸の切れたように眠りに落ちたが、唇はまだ定かならぬ言葉を呟いていた。

アラン・ダウルにはようやく事情がわかりかけてきた。それとともに、憐れみの念もいっそう深くなった。哀れなこの愚者に酷い悲嘆をもたらしたのはグルーム・アハナだったというのなら、彼は自分の仲間ではないか。

訳注 1: ゲール語で「眼」の意

      

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