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物語が終わると、しばらくどちらも言葉を発しなかった。アラスターは傍らの男をじっと見つめた。グルームは目を伏せ、ヒースの下生えに目をやっていた。

「どうしてその話をした、グルーム・アハナよ」

「それは、おまえは神代の昔の物語スキーアランが好きだったと思ったがな」

「どうしてその話をした」

グルームは落ちつかなげに身じろぎした。しかし何も答えようとはせず、ただつと目を上げた。

「なぜエーニャを愛した男をアラスターと呼んだ。その時代の名前ではないだろう。それに、おれ自身の筆で記したことのある物語を、少しばかり筋を変えて話したのはなぜだ」

「そうだったな、忘れていた。それで、おまえは何という名にしたのだったか」

「イーだ、おれはそう書いた。黒い瞳のエーニャを愛したのは、誇り高きイーだ」

「わかった、わかったよ。だが結局は同じだ。ろくな死に方はしなかったな――あの誇り高きイーは」

「なぜその話をしたんだ」

ふいにグルームは立ち上がった。じっと立ったままアラスターを見下ろす。「どちらも同じだ」言い聞かせるようにゆっくりと言葉を押し出す。「イーとエーニャ、あるいはアラスターとエスレン」

アラスターの顔がみるみるうちに真っ赤になった。額がまだらに染まる。

「ああ」低くひび割れた声が言った。「では教えてもらおうか、グルーム・アハナ、おまえが口にした名前と、おまえはどんなかかわりがあるというんだ」

「いいか、おまえはただの愚か者だ。どんなに知恵があろうとな。ここに手紙がある。読んでみろ。エスレン・マクレインの手紙だ」

「エスレン・マクレインのだと」

「ああ、そうさ。だがおれ宛てじゃない。おまえ宛てでもない。女の亭主、ロナルド・マクレインに宛てたものだ」

アラスターは立ち上がった。肩をそびやかして一歩退く。

「その手紙を読みはしない。おれ宛ではないのだから」答えを聞いてグルームはにやりとした。

「じゃあ、おれが読んでやろう。そんなに長い手紙じゃない。いやいや、だがロナルド・マクレイン宛てだ」

アラスターがグルームを見据えてゲール語でひとこと吐き捨てると、グルームの眸がさっと翳った。アラスターはゆっくりと立ち去ろうとした。

「愚か者は始末が悪いが、盲目の愚か者はもっと始末が悪い」後ろからあざけるように言葉が投げつけられた。

アラスターは足を止めて振り返った。

「おれは見ないし、聞きもしない。おれが見るべきでも聞くべきでもないものを、見も聞きもしない」

「女に誓いを信じるように言われたから女を信じるなどとは、気でも狂ったのか。女はいつでも窮地に立つと、男の盲目の信頼にすがるものだと知らないのか。男が自分を信頼しているとわかっていれば、女は虚しい誓いと、口に出す嘘よりなおたちの悪い卑怯な笑顔の嘘の陰でこっそり笑っていられるのさ。女はよくわかっている、あるいはわかっていると思っている、男は目も耳もふさいで、おまけに口もつぐんでいてくれるとな。誇り高き男にしては、ご立派なものじゃないか、アラスター・マクイアンよ。立派なものだ、たしかに。それに賢くもある、そうだ、賢い男だ、おのれの幸福のありったけを天秤の皿の片方に載せ、もういっぽうに信頼を載せているのだからな。女にとっては赤子の手をひねるようなものだ……まったくだ。おれが女なら同じようにするだろう、誰だってそうするだろう。おれは、おまえがエスレン・マクレインを愛するようにおれを愛してくれる男に向かって言うだろう、『私を愛しているのなら、その証拠になにがあっても私を信じてくださらなくては』とな。そうやって女は、男を煙に巻こうとするのさ。女が好きな愛の駆け引きのやりくちというやつだ。そんなふうに言ったあとで、おれが女なら、にっこりと笑う。そして別の男の許へ行って同じようにする。口づけを与え、しおらしく甘えて同じことを言い、男が信じきっていると考えて安心する。二人の男に同じことを言うなど簡単なことさ。さきほども言っただろう、アラスター・マクイアンよ、そうした女は恋人に不実をはたらくだけではなく、愛にも不実をはたらくのだ。女は心の底の底から『愛はただひとつ』とは言えない。そう口にはするだろうが。はじめ一人に、そしてもう一人にも。すると二人とも信じるかもしれない。女は可哀想な自分にこう言い聞かせる。『だってこの人はここが好きだし、あの人はあそこが好きだし、二人がかち合うことなんてない……』これが誤魔化しでないと心から思っているのか、あるいはそう思い込もうとしているのか。もちろん臆病者の誤魔化しさ、誠実に生きようとはしないのだから。片方に言ったりやったりしたことを、もう一人にも同じように埋め合わせてやるのを、ずっと続ける羽目になる。そしておまえは……おまえは詩人と呼ばれているな。普通の人間より深く遠くまで見通し、真実を見抜く力があると言われている。それならおまえが、二人のうちではロナルド・マクレインではなくおまえが、疑いを持つべきだろう」グルームは唐突に言葉を断ち切り、高らかに笑いだした。

アラスターは魅せられたように相手を見つめたまま、立ち尽くしていた。

「それ以上聞きたくない」声音は抑えられていたが、うわずった耳障りな響きがあった。「それ以上聞きたくない。もう行ってくれないか。でなければおれが行く」

「おいおい、待てよ。おれは手紙を暗記しているんだぜ。こんなふうだ、アラスター・マクイアン」

アラスターはしかし耳を塞いでグルームを避けると、ものも言わず、ただひたすらヒースの下枝を音高く踏みしだいて去っていった。

グルームはすみやかに後を追った。アラスターのふいをついて忍び寄ると、目の前に手紙を突きつけた。

グルーム・アハナは微笑を浮かべ、誇り高きアラスターの顔がふたたび紅潮したかと思うと、色を失って固まり、無様にゆがむさまを見守った。

黙りこくったアラスターの耳にグルームはささやいた。「これが誇り高きイーと、彼が愛しその美を不滅の美となした黒い瞳のエーニャ、同じ歌を二人の男にうたった女の物語だ」

やはりいらえはない。

もういちどささやきを繰り返した。「同じ歌を……二人の男に…うたった…女」

アラスターのようすが変わった。あいかわらず無言のままだが、両手の指をせわしなく絡み合わせる。顔に痙攣が走った。目が大きく見開かれる。

「嘘だ……贋物だ……そんな手紙など!」ふいにしわがれた声をあげる。「あのひとが書いたものではない」

グルームはもう一度手紙を広げて手渡した。アラスターはグルームの企みに違いないとの一心で受け取った。よく知った筆跡を目にしてアラスターの心臓が飛び跳ねる。手紙の日付に気づくとびくりとし、わなわなと震え出した。手紙がはらりと地に落ちる。手紙を拾おうと身をかがめながら、グルームは相手のこめかみに紫色の血管が浮き出しているのを認めた。

アラスターは懐からもう一通の手紙を取り出した。それを開いて読み上げる。読み終えたとき、顔は血の気が引いて蒼白だったが、ただ額に痣のように真紅の色が残っていた。

すっかり打ちのめされた、そう見て取ると、グルームはすかさずフェタンを奏ではじめた。

しばしアラスターは眉根を寄せた。その顔を涙がふたつぶ転がり落ちた。引き攣っていた唇がゆるみ、焦点を失った目はうつろな色を浮かべた。

やにわに彼は笑い出した。

グルームは手を止めた。相手を注意深く見つめる。そして笑みを浮かべると、ふたたび演奏をはじめた。

彼はマヌス・マッコドラムを海豹の群に襲われ命を落とす破目に追いやったダーン・ナン・ローンを奏で、ついで弟のシェイマスが恐怖に冷や汗を流しつつ聴いたダウサ・ナ・マラヴを奏でた。そしてさらに旋律は〈狂人の風笛〉の名で知られる調べに変わった。グルームは軽やかに笛を吹き鳴らしながら、ゆっくりと歩み去った。なだらかな丘を登り、頂を越えて姿を消す。アラスターはじっと立ち尽くしたまま音楽に聴き入っていた。手足は震え、汗が顔を滴り落ちた。目は飛び出さんばかりに見開かれていた。言うに言われぬ、筆舌に尽くしがたい恐怖が彼を捉えていた。笛の音が聞こえなくなると、怯えたようにあたりを見回した。ふいに大きな叫び声をあげる。すぐそばに男が立って、きょとんと自分を見つめていた。男には見覚えがあった。自分自身だった。アラスターは両手を振り上げたが、すぐにのろのろと力なく下ろした。相手は生命、それとも死だった。それはわかっていた。よくわかっていた。よろめくように膝を突く。震える両手を差しのべ、滂沱と涙を流しながら金切り声で喚いた。

言葉は意味をなしていなかった。しかし、わけのわからぬ叫びはこう言っていたのだった。「主よ、この邪悪より救いたまえ! 主よ、この邪悪より救いたまえ!」

  

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