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アラスターは聴いていないのか、聴いていたとしてもなんの反応も見せなかった。しばらくして、ゆっくりと眼を閉じる。愛する女性と初めて出会った島まではるばるやってきて、ヒースの甘い香りに包まれて横たわっているのはこころよかった。南の都を離れ、街の生活の憂さを忘れ、ほとんど異質といってよい人々に混じって暮らす辛さを忘れていると、生き返るようだった。ずっと熱病にうかされるように愛の苦い虚栄に浸っていたため、人生はたださまざまな色合いの、あるいは白黒の場面の数々が通り過ぎてゆくだけのように思われていた。安らぎを得られさえすれば。喜びよりも安らぎを求めるようになってもう久しかった。今となっては、喜びの眼も悲しみに満ちていて見るに耐えなかった。

大いなる愛から彼はさまざまな美しいもの――〈美〉を織りあげた。美は慰めであり、美によって、美のうちに、美のために、彼は生きた。

しかし今は疲れていた。疲れはあまりに重く魂にのしかかった。愛するエスレンのものではない声が聞こえた。白昼にささやきかける声は、自分自身の夢の孤独な残響だった。

美のために。そう、彼は美のために生きるだろう。夢のために、そして倦み疲れた心を月光に照らされる秋の谷間のように驚きと美で満たす魅惑をふたたび織りなすために。彼にはそれだけの強さがあった。なぜなら彼はエスレンが自分を愛していることを知っていたから。エスレンは深く彼を愛し、それを誇りに思っていたため、言葉でも行為でも愛を隠すことは潔しとしなかったし、まして心中の思いは言うまでもなかった。この愛のゆえにアラスターは生きた。

しかし今はヒースに横たわり、何を思うでもなく、ただやすんでいた。

紫色のヒースの花の上を漂うあえかな冷たい楽の音が聴こえた。妖しくきらびやかな古い魔法の旋律は、グルーム・アハナが奏でているのだった。グルームはアラスターの眉間の皺が消え、和らいだ表情で眼を閉じたまま安らかに横たわっているのを見てほくそえんだ。

震える音符がひとつ、痙攣するようにヒースのあいだをよぎった。そしてまたひとつ、ひとつと重なる。いにしえの哀切な旋律が静寂に滑り入り、ついに悲しみが声を得て耐え難い喪失のいたみに慟哭するかのようだった。アラスターが身じろぎし、深くため息をついた。睫毛の下に涙が盛りあがった。グルームはふたたび微笑した。しかしすぐに笑みを消し、真剣な眼差しでそっと相手の様子を覗う。

ほんのわずか、草のそよぎが木の葉のざわめきに変わったほどに調べが変化した。アラスターの額にふたたび皺が寄った。

「アハナよ」アラスターが唐突に声を出した。頭を起こして頬杖を突く。肘はヒースに埋もれていた。「おまえは自分の兄貴、今はアラン・ダウルと呼ばれているアラスターに、なんともむごい手紙をやったものだな」

グルームはフェタンを吹きやめ、そっと息を吹き込んで滴を切った。ちらりと楽器をあらためた後、ゆっくりと元の場所にしまった。

「そうか?」ようやく言葉を返す。

「なんとも酷い手紙だ」

「もしよろしければアラスターの子アラスター、大儀でなければ、どうして手紙のことを知っているのか教えていただけないだろうか」

「おまえの兄貴はベンベキュラの農婦のところに手紙を置いていったのさ。心を打ち砕かれて北へ向かい、愛する女を、おまえがめちゃくちゃにした可哀想なひとを捜しにルイス島へ行った。イアン・マッケラー神父という立派な坊さんが手紙を見つけて、おれのところに寄こしたんだ。『おまえが書いたどんな物語にもない酷いことが書かれている』と添えてね」

「なるほど。で、それがどうしたアラスター、人呼んで誇り高きアラスター」

「どうしておれはそう呼ばれるんだろう」

「どうしてかって? じゃあおれはどうして〈フェタンのグルーム〉と呼ばれると思うんだ? それはみながおれを見て、おれの笛の音を聴くとき、そう見え、そう聴こえるからさ。おまえが誇り高き男と呼ばれるのは、おまえが大きく逞しいからだ。ディアミッドの申し子だから、すばらしい愛を勝ち得たから、誰もかれもおまえの歌や物語に魅きつけられるからだ。おまえがアラスター・マクイアンだから、大いなる〈手〉に握りつぶされることなどないと信じているから、そしておまえ自身は知らないが、水のように頼りなく、風のように落ち着きがなくて、女のように弱いからだ」

アラスターは顔をしかめた。もの言いたげだったが、言葉はついに唇を出なかった。

「教えてくれ」ふたたび口を開いたとき、声音は穏やかだった。「おまえは例の手紙に書いただろう――『おまえは詩人だから、教えてやろうか。これは大昔からの真実で、おれだけが知ってることではないが、詩人が愛するような女は、詩人に誠を尽くすことはできない』と。いったいなぜだ」

「なぜそう書いたかということか」

「そうだ」

「あの手紙を読んだのなら、わかるだろう。あいつらは臆病だと言っただろう、おまえたち詩人が愛する女たちは。あいつらは自分を守ってくれる嘘だけを後生大事に守りとおし、ほかはみんな投げ出してしまう」

「それは違う。無意味な、おまえお得意の邪な偽りだ」

「意味ならあるさ。女は恋人に誠を尽くすことはできても、愛に誠を尽くすことはできないということだ。女は愛されることを愛している。女が詩人に愛されることを愛するのは、詩人が自分に美を見いだしてくれるから、他の女とは違うものになって、虹と月光の衣を纏って歩むことができるからだ。だが……おれはなんと書いたっけな。彼女たちは険しい山か、楽な百合の谷間のどちらかを選ばねばならないが、ほんとうによろこんで百合の谷間を後にして険しい山道を行く女など、まず見つかるまい。まあ、まずな」

「おまえが愛の何を知っているというんだ、グルーム・アハナよ。おまえのことをイアン神父は、神の創り給いしもののうちもっとも邪悪だと書いていたぞ」

グルームの血の気のない唇が笑みを形づくり、眸が暗く翳った。

「そんなことを? それはまた、ずいぶんな言いようだな。おれは、おれに害をなしたのでないかぎり、どんな男にも害をなしたことはないが。女に関して言えば……まあ、そうだな、女は女だ」

「グルームとはよく名づけたものだ。おまえはそこかしこに悪をばらまく」

それきり二人ともしばらく口をきかなかった。ふと、グルームがふたたびフェタンに手を伸ばしたが、そのまま戻した。

「いにしえの黒い瞳のエーニャの物語をしてやろうか」ものやわらかに問うと、誘いかけるようなまなざしを向けた。

アラスターは物憂げに身を伸ばした。

「ああ。聞かせてくれ」

「さて、先ほども話したように、日の落ちるころ、黄色い砂に虚しく金色に輝く冠が散らばり、顧みる者もなかった。丈高く生い茂った草が靡き、草のあいだに晒された女たちの胸は、陰鬱な沈黙のうちに身動きもしない。雛菊のそよぎにさえ羽ばたきを乱す蛾も、かつては吐息に満ち、いまは喜びに高鳴ることもない胸の上にじっと羽を休めた……」そうしてグルーム・アハナは黒い瞳のエーニャについて語り、イー王(グルームはその名を誇り高きアラスターに変えた)がエーニャに溺れ、彼女がその不実な愛を自分と俊足のカーバの二人にひとしく与えたことを知り、ついには王位も正気も失ったことを語った。物語の締めくくりを、グルームは唇にほのかな笑みをのぼせつつ口にした。

「これが誇り高きアラスター、詩人王アラスターと、彼が愛しその美を不滅の美となした黒い瞳のエーニャ、同じ歌を二人の男にうたった女の物語だ」


捕虜の女が王に告げた言葉のくだりにさしかかったあたりでゆっくりと向きなおったアラスターは、語り手に目を据えたまま、さきほどと同じように肘を突いて顎を掌に預けていた。

      

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