「日の落ちるころ、黄色い砂に虚しく金色に輝く冠が散らばり、顧みる者もなかった。いったい誰が顧みよう? 丈高く生い茂った草が靡き、草のあいだに晒された女たちの胸は、陰鬱な沈黙のうちに身動きもしない。雛菊のそよぎにさえ羽ばたきを乱す蛾も、かつては吐息に満ち、いまは喜びに高鳴ることもない胸の上にじっと羽を休めた」
「それで、その日槍を率いた男の名前はなんといった」
「おまえと同じ名だ――アラステル、誇り高きアラステルといった」
「その猛追と丘の辺の戦いの原因はなんだったんだ」
グルームは微笑んだ。かすかな秘密めかした笑みは、多くの者をとらえ、のちにかれらの怨嗟の的となったものだ。
「夢だ」グルームはゆっくりと言った。
「夢?」
「そうだ。彼女の名はエーニャ、黒い瞳のエーニャといった」
 アラステル・マッキアンの青灰色の眼は、ヒースの茂みに並んで寝そべる男から逸れてぼんやりとさまよった。黒い瞳のエーニャ。その名は一筋の月光のように心に射し入った。
 乾涸びたヒースの枝を見つめたまま、連れと同様にきまぐれな風のごとく定まらぬ思いを巡らしているかに見えるグルーム・アハナは、しかし実のところ相手を注意深く観察していた。
 なんと丈高く逞しい男かとひそかに感嘆する。すっかり忘れているのだろうか。グルームは心の内で自問した。あの日のことを、もうずっと昔、このおれグルーム・アハナを突き飛ばし、嘲笑を浴びせながらぐいと抱えあげてディアミッドの池に放り込んだことを? あれはスカイ島の、そう、スカイ島のスレイトでのことだった。もう何年も昔のことだ。だが、何年経とうと変わらない。記憶に歳月は関係ない。かつてあったものは、今もあるか、もうまったくないかのどちらかだ。
 そして二人はこうしてふたたび路傍で顔を合わせたのだった。スカイ島ではないにせよ、それほど離れてもいない。そこは下ミンチ海峡とヘブリディーズ海のあいだの沖に、緑の蛇のようにくねくねと何マイルにもわたって低くよこたわるタイリーの島だった。再会は偶然のことだった。もし偶然などというものが、この長い年月の果てにあるものならば。グルーム・アハナはにやりとした。微笑はすばやい影のように面をかすめた。皺もなく整った顔は、海豹の毛皮のようになめらかな黒い髪と対照的に蒼白かった。いや、偶然などではないぞ、そう心の中で呟く。たしかに、偶然ではない。ふいにアラステル・マッキアンにさりげない一瞥をくれたとき、その顔にもはや笑みはなかった。暗い瞳孔が開き、すいと縮んだ。
 彼はなおも思い巡らした。そう、アラステル・マッキアンはあちらのつまらぬ世界では、なかなかの大物だ。あの街や都会の巷では。本を書き、詩を作り、言葉に風変わりな音楽を纏わせ、歌や物語にして名をあげた。
 なるほど、しかしそういうことなら、かれグルーム・アハナもたくさんのダーンや古くからのオーランを知っているではないか。その気になれば同じくらい、いやもっと巧みに物語スキーアルを語ることもできはしないか。そうとも、アイオナの黒い石にかけて! それではなぜ、このイギリス人はあれほどの名声を博しているのか。まあ、生まれはイギリスではないにしても、やつが書き、話し、考えるのはもっぱらあの外国語であり、古い言葉はすっかり忘れてしまったか、苦労しなければ使えないのか、ともかく芯の髄までイギリス人ササナハであることは間違いない。
 それにしてもこれほど有名で、まだ若く健康で見た目も良いというのに、こいつは忘れているのだろうか。このおれ、グルーム・アハナはけっして忘れはしない。
 どうして、どうして、この再会が偶然であるはずはない。なぜこのおれはタイリー島などに来たのか。はじめは気まぐれだった。だが、いまはよくわかっている。
 それではアラステル・マッキアン、〈誇り高きアラステル〉のほうはどうか。なぜこんなところに来たのか。細長いタイリーの島には、英語の歌に耳を傾けるようなひまな人間はいない。いやいや、わかっているとも、もちろんこいつはここに来るさ。七年も経って帰ってきて、ほかのどこに行くだろう。ここでこいつは初めてエスレン・マクレインに出会い、彼女を愛したのだから。
 グルームはしばらく考えをもてあそんだ。それにしても奇妙な愛だ、このアラステル・マッキアンの愛は。女は他人の妻で、こいつは女を愛し、女もこいつを愛している。彼女こそは、こいつをこれほど有名にした詩や歌のすべての背後に燃える炎だった。七年のあいだこいつは女を愛したが、誇り高きアラステルという男は、海のように深く、天にまで吹きつける南風のように向こう見ずな大きな愛情からでなければ、かりそめに七年ものあいだ女を愛したりはしない。
 そのようにして、知ったことや聞いたことのすべて、確かなことや不確かなこと、あいまいな噂やもろもろの推量が、グルームの胸のうちでくっきりとした像を結んだ。いまではすっかりわかっており、けして忘れはしなかった。アラステルが愛の夢によって物狂いになったと聞いたのは、つい先ごろのことではなかったか。こいつがこれほど長きにわたって耐え忍び、いまある彼になったのは、ずっとエスレンの愛を胸に抱いており、彼女も自分を愛していると信じたからでなくてなんだろう。愛によってこいつは永らえ、巧みな忘れがたい言葉で美を創り出した。たしかに彼女は、インチ島のマクレインのひ弱な息子、善良で愛情深い男の妻ではあるが、それでも真実は、身も心も魂も、出会うのが遅すぎた男、彼女のうちに苦しい永遠の道を見出した男の伴侶ではないのか。
 そう、さまざまな記憶と推測が渦巻いては消え、いまやグルームには、誇り高きアラステルの哀れな疲れた魂がその見果てぬ夢と消しがたい欲望とともに、手に取るようにわかった。グルームの心は鷹のように狙いを定め、喜悦を含んだ恐るべき憎悪に鋭い叫びを放った。そしてある事実を思うとき、ほとんど驚嘆にうたれ、笑い出しそうになるのだった。彼はすでに一通の手紙を手中に収めていた。もう一週間以上も前に、この僻地への手紙を運んでいたウリャ・ベクと呼ばれる若者から苦もなく手に入れたものだ。一読して明らかになったとおり、タイリーに滞在する夫、ロナルド・マクレインに宛てたエスレンの手紙だった。エスレンのほうは、南部の二人の家に残っているのだ。グルームは邪悪な誘惑の調べを奏でるのが好きだった。彼の笛フェタンで不思議な調べを奏でるとき、胸騒ぎを覚えない者はいなかったし、ときには恐れや、恐れよりももっと深い感情を呼び起こすこともできた。しかしいまは手紙のことを思い、笑みを浮かべた。声には出さないつぶやきを満足げに唇にのぼらせる。いまやおれには二つのフェタンがある、ひとつはただの紙切れにすぎないが、と。
 この日、グルームとアラステルは道端で顔を合わせ、二時間ほど肩を並べて歩いてきた。その後、小さな農場の女主人から乳とオート麦のパンをいくらか手に入れ、ヒースの茂みに腰を下ろして休んだ。グルームは古い物語を語って聞かせた。古い物語はアラステル・マッキアンの心を奪い、いにしえの朽ちることのない美で満たすだろうとわかっていた。かつてあったことは完璧であるがゆえに、はかないさだめの人間の息よりほかのものによって永遠の命を吹き込まれ、けして色あせることがない。
 こうしてグルームは相手の忘却を誘った。
 いくばくかのあいだ、うっとりとしたような沈黙が続いた。カササギが甲高い声で啼いた。千鳥があてどなく宙を舞い、寂しげな声を上げた。あとはただ、ときおりの風がエニシダの茂みを騒がせ、ヒースの枝の間をかすかな口笛のような音をたてて吹き過ぎてゆくばかりだった。
 グルームは外套の内側の留め金からそっとフェタンを取り出した。唇にあてがい、息を吹き込む。月光の下を鳥の群れが飛びかうよう、あるいは笛の音がおぼろな蛾と化し、吸い込まれそうな深い淵の面を舞うかのようだった。
 アラステルは聴いていないのか、聴いていたとしてもなんの反応も見せなかった。しばらくして、ゆっくりと眼を閉じる。愛する女性と初めて出会った島まではるばるやってきて、ヒースの甘い香りに包まれて横たわっているのはこころよかった。南の都を離れ、街の生活の憂さを忘れ、ほとんど異質といってよい人々に混じって暮らす辛さを忘れていると、生き返るようだった。ずっと熱病にうかされるように愛の苦い虚栄に浸っていたため、人生はたださまざまな色合いの、あるいは白黒の場面の数々が通り過ぎてゆくだけのように思われていた。安らぎを得られさえすれば。喜びよりも安らぎを求めるようになってもう久しかった。今となっては、喜びの眼も悲しみに満ちていて見るに耐えなかった。
 大いなる愛から彼はさまざまな美しいもの――〈美〉を織りあげた。美は慰めであり、美によって、美のうちに、美のために、彼は生きた。
 しかし今は疲れていた。疲れはあまりに重く魂にのしかかった。愛するエスレンのものではない声が聞こえた。白昼にささやきかける声は、自分自身の夢の孤独な残響だった。
 美のために。そう、彼は美のために生きるだろう。夢のために、そして倦み疲れた心を月光に照らされる秋の谷間のように驚きと美で満たす魅惑をふたたび織りなすために。彼にはそれだけの強さがあった。なぜなら彼はエスレンが自分を愛していることを知っていた。エスレンは深く彼を愛し、それを誇りに思っていたため、言葉でも行為でも愛を裏切ることを潔しとしなかったし、まして心中の思いは言うまでもなかった。この愛のゆえにアラステルは生きた。
 しかし今はヒースに横たわり、何を思うでもなく、ただやすんでいた。
 紫色のヒースの花の上を漂うあえかな冷たい楽の音が聴こえた。妖しくきらびやかな古い魔法の旋律は、グルーム・アハナが奏でているのだった。グルームはアラステルの眉間の皺が消え、和らいだ表情で眼を閉じたまま安らかに横たわっているのを見てほくそえんだ。
 震える音符がひとつ、痙攣するようにヒースのあいだをよぎった。そしてまたひとつ、ひとつと重なる。いにしえの哀切な旋律が静寂に滑り入り、ついに悲しみが声を得て耐え難い喪失のいたみに慟哭するかのようだった。アラステルが身じろぎし、深くため息をついた。睫毛の下に涙が盛りあがった。グルームはふたたび微笑した。しかしすぐに笑みを消し、真剣な眼差しでそっと相手の様子を覗う。
 ほんのわずか、草のそよぎが木の葉のざわめきに変わったほどに調べが変化した。アラステルの額にふたたび皺が寄った。
「アハナよ」アラステルが唐突に声を出した。頭を起こして頬杖を突く。肘はヒースに埋もれていた。「おまえは自分の兄貴、今はアラン・ダウルと呼ばれているアラステルに、なんともむごい手紙をやったものだな」
 グルームはフェタンを吹きやめ、そっと息を吹き込んで滴を切った。ちらりと楽器をあらためた後、ゆっくりと元の場所にしまった。
「そうか?」ようやく言葉を返す。
「なんとも酷い手紙だ」
「もしよろしければアラステルの子アラステル、大儀でなければ、どうして手紙のことを知っているのか教えていただけないだろうか」
「おまえの兄貴はベンベキュラの農婦のところに手紙を置いていったのさ。心を打ち砕かれて北へ向かい、愛する女を、おまえがめちゃくちゃにした可哀想なひとを捜しにルイス島へ行った。イアン・マッケラー神父という立派な坊さんが手紙を見つけて、おれのところに寄こしたんだ。『おまえが書いたどんな物語にもない酷いことが書かれている』と添えてね」
「なるほど。で、それがどうしたアラステル、人呼んで誇り高きアラステル」
「どうしておれはそう呼ばれるんだろう」
「どうしてかって? じゃあおれはどうして〈フェタンのグルーム〉と呼ばれると思うんだ? それはみながおれを見て、おれの笛の音を聴くとき、そう見え、そう聴こえるからさ。おまえが誇り高き男と呼ばれるのは、おまえが大きく逞しいからだ。ディアミッドの申し子だから、すばらしい愛を勝ち得たから、誰もかれもおまえの歌や物語に魅きつけられるからだ。おまえがアラステル・マッキアンだから、大いなる〈手〉に握りつぶされることなどないと信じているから、そしておまえ自身は知らないが、水のように頼りなく、風のように落ち着きがなくて、女のように弱いからだ」
 アラステルは顔をしかめた。もの言いたげだったが、言葉はついに唇を出なかった。
「教えてくれ」ふたたび口を開いたとき、声音は穏やかだった。「おまえは例の手紙に書いただろう――『おまえは詩人だから、教えてやろうか。これは大昔からの真実で、おれだけが知っていることではないが、詩人が愛するような女は、詩人に誠を尽くすことはできない』と。いったいなぜだ」
「なぜそう書いたかということか」
「そうだ」
「あの手紙を読んだのなら、わかるだろう。あいつらは臆病だと言っただろう、おまえたち詩人が愛する女たちは。あいつらは自分を守ってくれる嘘だけを後生大事に守りとおし、ほかはみんな投げ出してしまう」
「それは違う。無意味な、おまえお得意の邪な偽りだ」
「意味ならあるさ。女は恋人に誠を尽くすことはできても、愛に誠を尽くすことはできないということだ。女は愛されることを愛している。女が詩人に愛されることを愛するのは、詩人が自分に美を見いだしてくれるから、他の女とは違うものになって、虹と月光の衣を纏って歩むことができるからだ。だが……おれはなんと書いたっけな。彼女たちは険しい山か、楽な百合の谷間のどちらかを選ばねばならないが、ほんとうによろこんで百合の谷間を後にして険しい山道を行く女など、まず見つかるまい。まあ、まずな」
「おまえが愛の何を知っているというんだ、グルーム・アハナよ。おまえのことをイアン神父は、神の創り給いしもののうちもっとも邪悪だと書いていたぞ」
 グルームの血の気のない唇が笑みを形づくり、眸が暗く翳った。
「そんなことを? それはまた、ずいぶんな言いようだな。おれは、おれに害をなしたのでないかぎり、どんな男にも害をなしたことはないが。女に関して言えば……まあ、そうだな、女は女だ」
「グルームとはよく名づけたものだ。おまえはそこかしこに悪をばらまく」
 それきり二人ともしばらく口をきかなかった。ふと、グルームがふたたびフェタンに手を伸ばしたが、そのまま戻した。
「いにしえの黒い瞳のエーニャの物語をしてやろうか」ものやわらかに問うと、誘いかけるようなまなざしを向けた。
 アラステルは物憂げに身を伸ばした。
「ああ。聞かせてくれ」
「さて、先ほども話したように、日の落ちるころ、黄色い砂に虚しく金色に輝く冠が散らばり、顧みる者もなかった。丈高く生い茂った草が靡き、草のあいだに晒された女たちの胸は、陰鬱な沈黙のうちに身動きもしない。雛菊のそよぎにさえ羽ばたきを乱す蛾も、かつては吐息に満ち、いまは喜びに高鳴ることもない胸の上にじっと羽を休めた……」そうしてグルーム・アハナは黒い瞳のエーニャについて語り、イー王(グルームはその名を誇り高きアラステルに変えた)がエーニャに溺れ、彼女がその不実な愛を自分と俊足のカーパの二人にひとしく与えたことを知り、ついには王位も正気も失ったことを語った。物語の締めくくりを、グルームは意味ありげにほほ笑みつつ口にした。
「これが誇り高きアラステル、詩人王アラステルと、彼が愛しその美を不滅の美となした黒い瞳のエーニャ、同じ歌を二人の男にうたった女の物語だ」

 捕虜の女が王に告げた言葉のくだりにさしかかったあたりでゆっくりと向きなおったアラステルは、語り手に目を据えたまま、さきほどと同じように肘を突いて顎を掌に預けていた。
 物語が終わると、しばらくどちらも言葉を発しなかった。アラステルは傍らの男をじっと見つめた。グルームは目を伏せ、ヒースの下生えに目をやっていた。
「どうしてその話をした、グルーム・アハナよ」
「それは、おまえは神代の昔の物語スキーアランが好きだったと思ったがな」
「どうしてその話をした」
 グルームは落ちつかなげに身じろぎした。しかし何も答えようとはせず、ただつと目を上げた。
「なぜエーニャを愛した男をアラステルと呼んだ。その時代の名前ではないだろう。それに、おれ自身の筆で記したことのある物語を、少しばかり筋を変えて話したのはなぜだ」
「そうだったな、忘れていた。それで、おまえは何という名にしたのだったか」
「イーだ、おれはそう書いた。黒い瞳のエーニャを愛したのは、誇り高きイーだ」
「わかった、わかったよ。だが結局は同じだ。ろくな死に方はしなかったな――あの誇り高きイーは」
「なぜその話をしたんだ」
 ふいにグルームは立ち上がった。じっと立ったままアラステルを見下ろす。「どちらも同じだ」言い聞かせるようにゆっくりと言葉を押し出す。「イーとエーニャ、あるいはアラステルとエスレン」
 アラステルの顔がみるみるうちに真っ赤になった。額がまだらに染まる。
「ああ」低くひび割れた声が言った。「では教えてもらおうか、グルーム・アハナ、おまえが口にした名前と、おまえはどんなかかわりがあるというんだ」
「いいか、おまえはただの愚か者だ。どんなに知恵があろうとな。ここに手紙がある。読んでみろ。エスレン・マクレインの手紙だ」
「エスレン・マクレインのだと」
「ああ、そうさ。だがおれ宛てじゃない。おまえ宛てでもない。女の亭主、ロナルド・マクレインに宛てたものだ」
 アラステルは立ち上がった。肩をそびやかして一歩退く。
「その手紙を読みはしない。おれ宛てではないのだから」答えを聞いてグルームはにやりとした。
「じゃあ、おれが読んでやろう。そんなに長い手紙じゃない。いやいや、だがロナルド・マクレイン宛てだ」
 アラステルがグルームを見据えてゲール語でひとこと吐き捨てると、グルームの眸がさっと翳った。アラステルはゆっくりと立ち去ろうとした。
「愚か者は始末が悪いが、盲目の愚か者はもっと始末が悪い」後ろからあざけるように言葉が投げつけられた。
 アラステルは足を止めて振り返った。
「おれは見ないし、聞きもしない。おれが見るべきでも聞くべきでもないものを、見も聞きもしない」
「女に誓いを信じるように言われたから女を信じるなどとは、気でも狂ったのか。女はいつでも窮地に立つと、男の盲目の信頼にすがるものだと知らないのか。男が自分を信頼しているとわかっていれば、女は虚しい誓いと、口に出す嘘よりなおたちの悪い卑怯な笑顔の嘘の陰でこっそり笑っていられるのさ。女はよくわかっている、あるいはわかっていると思っている、男は目も耳もふさいで、おまけに口もつぐんでいてくれるとな。誇り高き男にしては、ご立派なものじゃないか、アラステル・マッキアンよ。立派なものだ、たしかに。それに賢くもある、そうだ、賢い男だ、おのれの幸福のありったけを天秤の皿の片方に載せ、もういっぽうに信頼を載せているのだからな。女にとってはたやすいことだ……まったくだ。おれが女なら同じようにするだろう、誰だってそうするだろう。おれは、おまえがエスレン・マクレインを愛するようにおれを愛してくれる男に向かって言うだろう、『私を愛しているのなら、その証拠になにがあっても私を信じてくださらなくては』とな。そうやって女は、男を煙に巻こうとするのさ。女が好きな愛の駆け引きのやりくちというやつだ。そんなふうに言ったあとで、おれが女なら、にっこりと笑う。そして別の男の許へ行って同じようにする。口づけを与え、しおらしく甘えて同じことを言い、男が信じきっていると考えて安心する。二人の男に同じことを言うなど簡単なことさ。さきほども言っただろう、アラステル・マッキアンよ、そうした女は恋人に不実をはたらくだけではなく、愛にも不実をはたらくのだ。女は心の底の底から『愛はただひとつ』とは言えない。そう口にはするだろうが。はじめ一人に、そしてもう一人にも。すると二人とも信じるかもしれない。女は可哀想な自分にこう言い聞かせる。『だってこの人はここが好きだし、あの人はあそこが好きだし、二人がかち合うことなんてない……』これが誤魔化しでないと心から思っているのか、あるいはそう思い込もうとしているのか。もちろん臆病者の誤魔化しさ、誠実に生きようとはしないのだから。片方に言ったりやったりしたことを、もう一人にも同じように埋め合わせてやるのを、ずっと続ける羽目になる。そしておまえは……おまえは詩人と呼ばれているな。普通の人間より深く遠くまで見通し、真実を見抜く力があると言われている。それならおまえが、二人のうちではロナルド・マクレインではなくおまえが、疑いを持つべきだろう」グルームは唐突に言葉を断ち切り、高らかに笑いだした。
 アラステルは魅せられたように相手を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「それ以上聞きたくない」声音は抑えられていたが、うわずった耳障りな響きがあった。「それ以上聞きたくない。もう行ってくれないか。でなければおれが行く」
「おいおい、待てよ。おれは手紙を暗記しているんだぜ。こんなふうだ、アラステルの子アラステル」
 アラステルはしかし耳を塞いでグルームを避けると、ものも言わず、ただひたすらヒースの下枝を音高く踏みしだいて去っていった。
 グルームはすみやかに後を追った。アラステルのふいをついて忍び寄ると、目の前に手紙を突きつけた。
 グルーム・アハナは微笑を浮かべ、誇り高きアラステルの顔がふたたび紅潮したかと思うと、色を失って固まり、無様にゆがむさまを見守った。
 黙りこくったアラステルの耳にグルームはささやいた。「これが誇り高きイーと、彼が愛しその美を不滅の美となした黒い瞳のエーニャ、同じ歌を二人の男にうたった女の物語だ」
 やはりいらえはない。
 もういちどささやきを繰り返した。「同じ歌を……二人の男に……うたった……女」
 アラステルのようすが変わった。あいかわらず無言のままだが、両手の指をせわしなく絡み合わせる。顔に痙攣が走った。目が大きく見開かれる。
「嘘だ……贋物だ……そんな手紙など!」ふいにしわがれた声をあげる。「あのひとが書いたものではない」
 グルームはもう一度手紙を広げて手渡した。アラステルはグルームの企みに違いないとの一心で受け取った。よく知った筆跡を目にしてアラステルの心臓が飛び跳ねる。手紙の日付に気づくとびくりとし、目に見えて震え出した。手紙がはらりと地に落ちる。手紙を拾おうと身をかがめながら、グルームは相手のこめかみに紫色の血管が浮き出しているのを認めた。
 アラステルは懐からもう一通の手紙を取り出した。それを開いて読み上げる。読み終えたとき、顔は血の気が引いて蒼白だったが、ただ額に痣のように真紅の色が残っていた。
 すっかり打ちのめされた、そう見て取ると、グルームはすかさずフェタンを奏ではじめた。
 しばしアラステルは眉根を寄せた。その顔を涙がふたつぶ転がり落ちた。引き攣っていた唇がゆるみ、焦点を失った目はうつろな色を浮かべた。
 やにわに彼は笑い出した。
 グルームは手を止めた。相手を注意深く見つめる。そして笑みを浮かべると、ふたたび演奏をはじめた。
 彼はマーナス・マッコドラムを海豹の群に襲われ命を落とす破目に追いやったダーン・ナン・ローンを奏で、ついで弟のシェーマスが恐怖に冷や汗を流しつつ聴いたダヴサ・ナ・マラヴを奏でた。そしてさらに旋律は〈狂人の風笛〉の名で知られる調べに変わった。グルームは軽やかに笛を吹き鳴らしながら、ゆっくりと歩み去った。なだらかな丘を登り、頂を越えて姿を消す。アラステルはじっと立ち尽くしたまま音楽に聴き入っていた。手足は震え、汗が顔を滴り落ちた。目は飛び出しそうに見開かれていた。言うに言われぬ、筆舌に尽くしがたい恐怖が彼を捉えていた。笛の音が聞こえなくなると、怯えたようにあたりを見回した。ふいに大きな叫び声をあげる。すぐそばに男が立って、きょとんと自分を見つめていた。男には見覚えがあった。自分自身だった。アラステルは両手を振り上げたが、すぐにのろのろと力なく下ろした。相手は生命、それとも死だった。それはわかっていた。よくわかっていた。よろめくように膝を突く。震える両手を差しのべ、滂沱と涙を流しながら金切り声で喚いた。
 言葉は意味をなしていなかった。しかし、叫びはこう言っていたのだった。「主よ、この邪悪より救いたまえ! 主よ、この邪悪より救いたまえ!」

原注: 初めの一文は『The Dominion of Dreams』所収「Enya of the Dark Eyes」の一節である。



底本:The writings of "Fiona Macleod" Volume 3 by Fiona Macleod, Duffield & Company:New York, 1910
翻訳:館野 浩美
公開日: 2010/06/06
改訂日: 2018-02-28

※この 作品 はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
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