リリスの洞窟

      

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永劫を閲したるリリスは洞窟より歩み出た。賢きリリス、妖女リリスは。彼女の住まいの前をとおる小径は、山あいを縫い、輝く峰をめぐり、賢者たちのひとりが逍遥する戸口まで続いている。リリスは洞窟より歩み出た。賢者の孤独を嘲笑い、おのが賢さに酔い、眩いばかりの蠱惑を誇らかにふりまきながら。

「世捨て人さん、あいかわらずお独りですのね。あなたの智慧はなんの役にも立たないのかしら。わたくしのほうがはるかに賢く、あなたが真実の道を知るのにもまして、過ちの道を知り尽くしているということを、そろそろ認めてはいかが」

賢者は彼女の言葉に耳を貸すふうもなく、ただ行きつ戻りつしていた。目は同胞たちが住まうはるかな峰々に向けられている。星の光がその身を包んでいた。やさしいそよ風が山路を吹きおろし、白い衣をはためかせた。そのあいだも賢者はひとときも瞑想を止めなかった。洞窟のなかでリリスの姿は岩間から立ちのぼる霧のように震えた。身に纏うは銀のつやをおびた紫の衣。かんばせはほの暗く、頭上には、男が恋人の上に思い描くのに似たおぼろげな冠が微光を放っている。彼女の顔を間近に見る者は、これこそ求めた至宝だと悟るだろう。彼女の目は男自身の憧れを映して燃え、唇は男の心の奥底の秘密を告げるために開かれる。

「なぜずっと待っているのか、教えてくださらないこと。わたくしがこの谷と峰のあいだの洞窟にいて、ここを通るすべての者を惑わしているというのに。たまたまあなたのところまでたどり着いた者も、またここへ戻ってきて、逃れる者は万に一人もおりません。わたくしの見せる幻は、彼らには真実よりもこころよいのだから。わたくしは魂という魂にそれ自身の影を差し出すわ。彼ら自身が支払った価で報いるの。はるか昔、素朴な羊飼いたちから命を得たわたくしだけれど、今では豊かになった。人間がわたくしを作りあげた。死すべき者らがわたくしを不死にしたのよ。わたくしは人間の最初の夢から霧のように立ちのぼり、それいらい、すべてのため息、すべての笑いを蓄えている。わたくしをかたちづくるのは望みと恐れ。わたくしの岩屋では、狡猾な君主たちが征服のはかりごとをめぐらし、英雄たちは夢み、あらゆる時代の恋人たちが炎のなかにかれらの物語を記している。わたくしは賢い。蓄えた知識のかぎりを尽くして誘い、惑わし、恐れさせる。誰も逃がしはしない。それなのになぜ、あたなは待っているの」

賢者がリリスを見すえると、リリスは幾歩か後じさり、銀と紫がわずかに色を失った。しかし、洞窟から流れ出る声は止まなかった。

「星も煌めく王冠も、あなただけが差し出すことのできる賜物ではないわ。あなたが約束するものはみな、わたくしも約束しましょう。わたくしは善きものも悪しきものも同じように与える。恋人も詩人も魔術師も、原初の泉に口をつけようとする者はみな、幻影でもって欺こう。わたくしはダンテを天上に導いたベアトリーチェ。影はわたくしのなかにあったのだし、栄光もまたわたくしのもの。かの詩人は、この洞窟より一歩も出はしなかった。星ぼしも輝く天の御国も、わたくしが彼のまわりに織りなした見せかけの無窮。わたくしは彼の魂を空間の影でもって虜にした。その膜の薄いこと、クルミの殻に収めることさえできよう。わたくしはおぼろな心の弦をかきならし、存在の千変万化の調べを奏でた。人間の心にかなう神は、神の心にかなう人間よりも魅力あるもの。それゆえかの詩人は、わたくしのもとに安らいだのよ」

しばしの後、声はふたたび語りはじめた。「そこにあの、わたくしから逃げて行った奇特な男がいるわ。あなたの智慧は彼を留めておけませんでしたの? 彼は苦悩に苛まれて戻ってきたから、この腕をまわして、愁いのようにやさしく抱擁してあげたわ。いまでは、こころゆくまで悲しみを味わっている。堕落する前は、希望こそが甘露だったのだけれど。彼の歌を聴いてごらんなさい」リリスはふたたび黙した。深淵の底から、諦念を歌う悲しげな声が響いてきた。

意志に何ができようか とうの昔に斃れたものを 知られざる射手の弓より来たる 夢の矢じりに貫かれ

魂は何を思うことができようか 盃を差し出す者あり 満たされた神酒の 炎が魂を焼き尽くした

望みとていかなる高みに昇れよう ただおのれのうちを手探りするのみ 霧に閉ざされた時の果てに 真実が望みにとどめを刺す

心は何を愛せよう 意志よりも魂よりもなお痛ましきは 天へいざなうひとすじの光もなく 愛はただおのれ独りと知る

「哀れではありませんこと。わたくしは自らを憐れむ者だけを憐れむのです。でもこれで彼はいっそうたしかにわたくしのもの。人間の智慧などたかだかこの程度。どうして彼が逃げ出せましょう。彼をふるいたたせるものなどありましょうか?」

「かの者の意志は再び目覚めよう」賢者は言った。「彼のために嘆きはしない。魂が目ざめるまでの夜は長い。彼はそなたの洞窟で、見ず、聞かず、考えぬことを学んでいるのだ。まさに苦悩こそが、そなたの幻影に翼を与えるのだから」

「悲しみは強力な呪縛」リリスが言った。

「それは悲しみのもとへの呪縛なのだ。彼が涙を流すのは、そなたが決して与えられぬもの、そなたのうちについぞ芽吹いたことのない生命のためだ。彼は来るだろう。そなたが彼の滅びを見届けることはあるまい。欲望が死ぬと、軽やかな姿なき意志が目をさます。彼は行くだろう。そしてそなたの洞窟の住人たちも次々に目ざめ、進みゆくだろう。この古い小道には、幾世にわたって人跡の絶えることはあるまい。輝かしきリリスよ、そなたもまた後に従うのだ。女王としてではなく、婢女 (はしため) として」

「わたくしは呪文を編むわ」リリスは叫んだ。「ここを通しはしない。このうえなく甘美な毒を盛ってやろう。みなこれまでと同じく、満ちたりてまどろむがいいわ。とおい昔、彼らは偉大な王侯や英雄ではなかったかしら。わたくしは若き日の未熟な魔法で彼らをうち負かした。いまや見る影もなく、過ぎ去った喜びと、青春の盛りに犯した過ちにこがれる彼らが、どうして出ていけるというの? かたや、わたくしは数多の智慧を身につけてきたというのに」

賢者はあいかわらず逍遥をつづけ、沈黙があたりを支配した。私は見た。賢者がゆるぎない意志をもって、さまざまな思いの渦巻く洞窟の薄闇を貫くと、そこかしこで魂が夢よりめざめた。さらに私は見たように思う。かの悲しみの歌い手が、真実なるものへの憧れを新たに吹きこまれ、善きものも悪しきものもすべての幻影を振り落とし、ついに至高の真実を学ぶために賢者の膝元に到ったのを。おぼろにかすむ夜更けに、私はこれら三人の声を聞いたのだ。悲しみの歌い手、妖女リリス、そして賢者と。悲しみの歌い手から私が学んだのは、思考のための思考はどこにも行きつかぬこと、それどころかすべての花から香気を奪い、すべての木から花を切り落とし、谷の木という木を切り倒し、究極の飢えのはてに自分自身を喰らいながら、結局は無為にさまようしかないこと。リリスから学んだのは、われわれは自らの手で己を惑わす魔法を紡ぎ、自らの想像で自縄自縛に陥るものであること。真実をわれわれの外にあるものだと考え、存在の象徴にすぎぬものを愛するなら、叡智への道は闇に閉ざされ、永遠の美からは遠ざけられる。賢者から学んだのは、ほんとうの叡智とは、ひそかに待ち、はたらき、望むことであるということ。今日声を持たぬ者らが明日は雄弁に語り、大地はその声を聞き、大地の子らが彼らを言祝ぐだろう。これら三つの真実のうち、もっとも学びがたきは沈黙の意志。さればわれらは至高の真実を求めようではないか。

      

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